प्रज्ञापारमिता

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妻帯裁判

2011年09月30日 | 仏教・思索
僧侶の結婚、口出し出来ぬ…永平寺訴訟で地裁

面白い裁判があるようですね。
足利市の住職が永平寺を訴えているそうですが、この住職によると、「戒律では妻帯は最も重い大罪で、許されない。永平寺は明らかに本来の指導義務を怠り、設立目的が成立しない」ということのようです。
なるほど。
確かに僧侶を出家比丘であると限定する立場である限りにおいて、この訴えには妥当性があります。「私たちは出家でございます」などと言いながら妻帯しているとすれば、それは妄語で「嘘・大袈裟・まぎらわしい」の謗りは免れないでしょう。

が、しかし。

私は大乗法師の理想的姿はむしろ居士法師であり、つまり在俗の仏教教師・仏道実践者である以上、別に妻帯OKの立場ですから、こうやって出家至上主義的立場で全体を規制しようなどと言う、それも国家に恃んでそれをやろうという姿勢は、やはりちょっとおかしいな、と。

戒律上の大罪と言いますが、曹洞宗は知りませんが、例えば法華系や浄土真宗に、妻帯禁止の戒律はないんじゃないでしょうか? 比丘戒を受けてない以上、出家比丘ではあり得ないわけですから、議論の前提が崩れますよね。
真言宗においては比丘戒の受戒がありますが、確かこれ、不邪淫戒だった筈で、結婚を否定はしていないと思います。ならば、破戒にはなりません。
因みに私は条項すら記憶していないような形式的な受戒は無意味であり、そもそも居士法師であるなら基本的には菩薩十善戒だけで十分という立場ですから、それ以外は捨戒しています(他の戒ももちろんガイドラインとして参考にはしています)。

一定の修行期間中にガチガチの戒律で縛り上げることも重要かと思いますが(規律面あるいは法師としての自覚を叩きこむため)、基本的には我々は在俗の居士法師として、在家の立場での仏教専門家・仏教教師・菩薩乗実践者としての生き方をする、つまり一般の人に対しての規範・模範となる、という方向の存在としてあるべきです。
その自覚がない人は困りものですが、理想的方向としては、そういうことです。

もちろん件の住職のように、出家として戒律をまっとうする方向もアリです。
ただ、大乗仏教法師としては、別にそうじゃなくても全然、いいんじゃないのかな、ということです。


【追記】
ただ、(理念的にせよ)菩薩サンガを前提するならば、十善戒とは別にもちろん、ある程度の律的な規定は必要です。
例えば各宗派には「宗規」がありますが、それが現状では一応は(もちろん項目にもよりますが)「律」として機能するのでしょうし、機能させるべきですが、出来れば宗派毎ではなく、全体としての「(居士仏教としての)大乗規」の形成が望まれます。
それには現在の宗派主義仏教を脱し、日本仏教界の一体性の自覚の形成が大切でしょうけれどもね(得度と受戒までは統一的にし、その後に宗派別の修行に進む…つまり「日本仏教=大学」「宗派=学部」のような位置づけにし、今以上に宗派間の垣根を低くして流動性を持たせる…等々)。
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除霊事件

2011年09月28日 | 仏教・思索
結構、個人的には衝撃的なニュースなのですが、中山身語正宗の教会で「除霊」が行われ、中2の少女が死亡しました。傷害致死の容疑で、少女の父親と僧侶が逮捕されたということです。
何が「衝撃」かというと、明明白白なカルト宗教団体ではなく、中山身語正宗でこれが起きた、ということです。
確かにこの宗派は新宗教にカテゴライズされる教団で、全日本仏教会にも属していませんし、ある意味では伝統仏教の枠に入らないのかも知れませんが、しかし一般の方にとっては、明らかに「仏教宗派のひとつ」だと思います。本山・瀧光徳寺を見ても、普通のお寺ですし、。
こういう「穏健な」新宗教、それも伝統仏教に(少なくとも外面上は)極めて近い団体でこういう事件が起きたということは、一般社会における伝統仏教に対する見方に、確実に悪影響でしょう。

勿論こういう「カルト寺院」の存在は中山身語正宗にとっては大迷惑で、本来の教義では「瀧行で除霊」など認めていないと思います。しかしこういう寺院が現に存在した事は事実ですし、これを許容・黙認する風土があったことも事実でしょう。少なくとも監督責任は免れません。

同時に・また残念な事に、高野山真言宗はじめ真言宗各派(日蓮宗等他派においても散見されますが)においても、これと同様な、あるいはもっと悪質な「霊媒寺院」が存在しています。ネット上でも盛んに活動している寺院がありますが、伝統宗派の看板を掲げ、まったく非仏教的な霊媒活動を「これぞ密教」などと称して喧伝しています。
総本山や指導的立場の寺院もこれを黙認している場合が大半ですが、黙認すると言う事は認めているということですから、何かが起これば当然、責任が生じます。「いや、公式教義では認めていないので」という逃げは打てません。だって自分のところの宗派の看板を使わせてそういう活動を認めていたわけですから、当然ながら連帯責任です。

いずれにしても、一般の方たちの「仏教」に対する信頼が一層、この事件で低下した事は否めませんし、真言宗に対しては尚更でしょう。
僧侶・法師の最大の罪は「法を下げる」ということです。
似非仏教のインチキ宗教行為が、釈尊以来の仏教・仏法の流伝を汚し、先師先徳の求法求道の蓄積を冒涜しています。法を食い物にする極悪人、悪僧の徒を許してはなりません。
そろそろ日本でも、「政界再編」ではないですが、仏教界を刷新する必要があると思います。「浄化運動」「悪僧追放運動」と「行き過ぎた縦割りの宗派体制解体」を行わなくてはならないと思います。
もっとも、旧態然とした既得権益まみれの宗派宗門上層部には無理な仕事でしょうけれども…。


【追記】
因みに、瀧行だとかその他の「苦行」に関しては、私は必ずしも否定しません。
釈尊は苦行を否定されたと言いますが、死線を彷徨うくらいの壮絶な苦行に沈潜する事を否定されたのであって、「現在の日本で行われている程度の苦行」まで否定はしていないと思います。
また、苦行主義的に、苦行が目的化することを否定されたのであり(こういうタイプの「行者」は日本にもいますね)、苦行を通して見えてくる世界があるだろうことまで否定はしていないと思っています。
釈尊も、6年間の苦行あればこそ、覚りもあったのだと思います(もちろん無師独悟の釈尊とは違い、我々のように仏弟子の末席に連なる者は、釈尊以来の仏教の実践伝統に基づいて生きるのが本筋ですから、苦行せずとも聞・思と禅定で十分だとは思いますけれど…まさか禅定まで苦行と言う人はいるまい)。
しかし、上記のような苦行をするにせよ、あるいは聞・思・修の実践をするにせよ、もっとも大切な事は「発菩提心」です。発心なくしては、どんな苦行も実践も無意味です。強制させても意味がありません。魔法や呪術でもあるまいに…と思うのですが、どうも世の中の一部の僧侶や信者は、修行と魔術の区別がつかない人もいるようで、こういう未熟な仏教理解が蔓延することを私はもっとも恐れています。
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珍名

2011年09月21日 | 閑話休題
昔、子供に「悪魔」とつけようとして不受理になり、裁判沙汰になったケースがありましたけれど(結局は敗訴して「亜駆」と命名。因みに父親は数年後に覚醒剤取締法違反容疑で逮捕)、今でも珍名が色々とつけられているようです。
ま、昔から「マリア」「ジュリア」「ルイ」「アン」など西洋かぶれの命名は散見されていましたけれど、最近は「光宙(ぴかちゅう)」「羽亜都(はあと)」とかいうのまであるらしい…。ここまで来るともはや、「時代錯誤の西洋崇拝を排して日本の伝統を大切にした名前を」とかいう次元を遥かに超越していて、どう言うべきか言葉もありませんね…。


人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。


徒然草より。


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超訳・仏典

2011年09月11日 | 閑話休題
数年前から、古典文学や近代文学の「超訳」というのが流行っています。
要は、従来の岩波・新潮の日本語訳がもはや若者とっては「その訳自体が古典」になってしまい、うまく読めなくなっているということなんでしょう。
超訳とは簡単に言うと、現代口語の要素を取り込んで、場合によっては思い切った意訳も辞さない…ということなんだと思いますけけれど、この方法は仏典にも使えると思います。いや、使うべきです。
超訳の定義が上に述べたようなものであるならば、訳者による解釈が従来よりも大幅に入ることになる弊害(というか特徴と言うか)がありますが、それでも「読まれない仏典」は存在価値がありませんので、超訳でも抄訳でも、とにかくやってみるべき価値はあるんだと思います。
自費出版(自力出版?)でやっている方はいますが(http://bunchin.com/choyaku/)、できたらもっと大規模に、仏教学者や僧侶が絡む形での「超訳・大蔵経シリーズ」の出現が(完全に私自身の願望ですけど)待望されます。

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独TVによるフクシマ報道

2011年09月10日 | 時事関連
ドイツの国営TV局であるZDFの「フロンタール21」シリーズで8/26 放送された、福島原発事故の報道です。自国の大惨事に、このレベルの報道も出来ない日本の放送局・マスコミは全部つぶれたらいい。下らないバラエティばっかり。
確かにこの映像には「グリーンピース」や「緑の党」と関係が深い「自由報道協会」など、所謂「反原発団体」…否、「エコテロリスト団体」の名前が散見されますので、全面的には信用できないのですけれど、それにしても…です。



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さらば「日本」

2011年09月10日 | 仏教・思索
私は三島由紀夫の思想や行動に全面的に賛同するわけじゃないですし、特に文学者として、ペンではなくて「ああいう行動」の最期を遂げたのには批判的なんですが、以下の文章は、現代日本の文化伝統・言語などが直面する危機がよく示されていると思います。


「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。
それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

――― 昭和45年7月7日付 サンケイ新聞 (筑摩文庫『文化防衛論』所収) ―――


これは政治的意味も含むと思うのですが、それ以上に、日本人の培ってきた伝統・文化・文明、特に言語と思考様式の崩壊を示したものでしょう。
三島の心配は既に成就し、もはや事態は次の段階に進んでいるようです。
経済大国で富裕なニッポンは既に去り、有名企業は英語での会議を義務化して日本語を禁止する時代です。あるいは、会議にひとりでも外国人がいると英語に切り替える、という規定のある会社もあるそうですが、こんなまるで19世紀のアフリカやアジア植民地さながらの状況に、誰も疑問を抱かない日本人の恐ろしさ(否、愚かさ)。それどころか率先して「乗り遅れまい」と強迫的な英語習得熱にうなされて、誰も日本の歴史や伝統など見向きもしない時代が、もうそこまで来ています。
江戸以前は言うも愚か、明治時代どころか昭和初期の小説すら読むに耐える日本語能力すらない「日本人」ばかりになってしまいました。これを文化・伝統の断絶、日本民族の死滅と言わずして何と言おう。

そもそも文化伝統の基盤である「文章語」を廃止して、流動的な口語体のみで書かなくてはならないという無茶をやった影響が先ずあって、そこに英語崇拝が被さったらば、言語と密接に結びつく固有の民族文化が崩壊することは当たり前で、文化のみならず「日本人」としての思考回路も消滅して「何者かわからないアジア人の外見をした人たち」ばかりになってしまうことも、理の当然。
それが「日本人の進化だ」というならば、まぁ、それも良いでしょう。ただ私は、旧日本人として死んでいくだけです。

三島から40年以上…今更もう手遅れなんでしょうか。手遅れなんでしょうね。

漢訳仏典に基づく仏教もジリ貧です。
いくら漢訳仏教が宝の庫でも、もはや一般日本人には暗号に過ぎなくなっています。いちいち噛み砕いて紹介したところで、横文字に漢字より親しみを感じる現代人に対しては限界があります。古びてカビ臭い、捨て去るべき因習的な遺物としてしか感じてもらえない時代(あるいは「異文化としての伝統仏教」にエキゾチック趣味的に「他者的に」接する時代)が、到来寸前。

本当に、悲しいことです。


【追記】
「昔の日本は漢字・漢語を輸入して、それが日本語の重要な一部になった。今は英語かも知れないが、同じことだ」という意見もあります。
でもそれは、全然、違うでしょう。
まず第一、当時の日本には文字がなかった、という点です。今の日本には「日本語」があります。状況が違います。
第二に、当時の日本人は日本人であることをやめず、漢語を日本語として昇華させました。完全に日本語に組み込んだわけです。一方の英語はどうでしょう。「ネイティブに近づきたい」「日本語禁止、英語万歳」というだけです。その取り扱い方、英語と漢語に付与されている立場がまったく違います。

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TRY AGAIN for JAPAN

2011年09月09日 | 閑話休題
大震災…政府や行政、御用学者や東電には色々な失態や失政が続出しています。真剣にやっている失敗ならまだ良いのですが、どうも自覚のない発言や行動も散見されるようで、残念です。
また生産者団体も必死なのでしょうが、目先のことにとらわれ過ぎてしまい、論理的な結論・長期的な視点を失いがちに見えることも、非常に残念です。

それにしても、福島は確かに原発の問題がありますが、岩手や宮城などの復興も遅々として進んでいません。阪神大震災の経験がまったく活かされていないようで、当時よりも後手後手…いよいよ日本もここまで堕ちたか…との思いを強くしています。

今こそ国民ひとりひとり、市井の人間がしっかりしなくてはなりません。「御上」が助けてくれる、そんな時代は遥かに過ぎ去りました(と言うよりも、本当の意味で「御上」が私たちを助けてくれた時代があったでしょうか?)。
民主主義は欠陥だらけの政治制度ですが、少なくともこの制度を支持するのであれば、支持しなくともその制度下で生きて行くのであれば、我々ひとりひとりが中心です。我々ひとりひとりが「御上」です。

起こった災害は、既に起こったことです。

今はたくさんの中心、たくさんの「御上」が、助け合って生きていくしかないでしょう。
日の丸の「太陽」は、私たちひとりひとりの心にある「希望の象徴」です。日本人全員の中に同じ色の・同じ価値の「太陽」があります。

被災者の皆さんが、安らかに眠ることができる平凡な生活に早く戻れますように。


南無世尊般若波羅蜜多母。



これは良い歌だと思います。
が。
出来たらお年寄りでもすんなり聴けるように、英語ナシの全編日本語で歌って欲しかったです。いい加減、日本人歌手の、日本人向けの歌で英語をカッコイイと勘違いして使いまくるキモチワルイ風潮は勘弁してほしいもんだ…。


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霊の過大視

2011年09月06日 | 仏教・思索
・質問

「霊」の問題は、仏教の専門じゃないんですか?

・答え

「霊」ということに関して、あまりに過大視というか重大視というか、そんな人が多いですよね。でも、仏教的にはあんまり意味がありません。

例えば。

ライオンに襲われた人がいたとして、それをうまく救えるスキルを持った坊さんがいたとして。それでその人が坊さんに見事に命を救われたからと言って、ライオンから救うという行為自体が、あるいは「ライオンがいる」という事実そのものが、直接に仏教や解脱に関係があるわけじゃない。
そんなことは誰にでもわかる。
霊についても一緒。
仮に霊障というものがあったとして、ある坊さんがきっちりとそれに対処できて誰かを救ったとして、その事自体、あるいは「霊がいる」という事実そのものが、直接に仏教や解脱に関係があるわけじゃない。
同じこと。
どうして殊更に「霊だけが」仏教の本質的・本来的・教義的な部分と恣意的に、かつ過大にリンクさせられちゃうのか、まったく意味不明です。

まぁ、慈悲という観点で教義とリンクして考えることは可能だけれど…でも、困ってる人がいれば、それなりの対処で助ける、専門的スキルが必要ならスキルのある人が助ける…それは別に、どんな場面であれ、当然。それ以上でも、以下でもない。

ライオン(猫でも鰯でもT-Rexでも可)がいてもいなくても、仏教は仏教です。何も変わらない。
霊がいてもいなくても、仏教は仏教です。何も変わらない。
霊の有無に振り回される程度のチンケな教えじゃないですよ、仏教は。

【追記】
この類の話になると、色々な形式の反論コメントや反論メールが来たりする場合があるので先に書いておきますが、私はこういう客観的論証にそぐわない類の問題について、水掛け論必至の議論だの討論だのをする気は一切ありません
あくまでも私の個人的見解ですので、無理に賛同を求めるものでもないです。勿論中には反対意見をお持ちの方がいらっしゃることは重々、承知しておりますし、その意見を否定・排撃するつもりも御座いません。念の為。

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2011年09月06日 | 仏教・思索
・質問

霊って、いますか?

・答え

仏教の各宗派で、「霊」というものを公式教義で認めているかどうかは様々でしょう。
真言宗の僧侶に聞いてみても、人によって考え方が違います。「考え方が色々あっても問題なくやってる」ということは、早い話が「霊なんていてもいなくても、本質的な問題ではない」ということなんですよね。

ただ、釈尊は霊や天(神霊)の存在を否定はしていませんし、肯定もしていません。修行するにあたってはどっちでもいいことだからです。
ただ逆に言えば、「霊・天(神霊)」の意味内容にもよりますが、不変のそれは否定していても、有為転変する存在としての目に見えない「縁生のなにものか」までは否定してはいないと言えます。まったくの「無」であれば、端的に「無」と言うでしょう。「常住」でも「無」でもない事に関しては、釈尊は「無記」です。そして「無記」である事柄に関しては、解脱にとってあまり関係がない、ということです。

それでも「霊はいるのか」というのは、みんな興味があるところです。
上記のように、それは修行とは関係ない事柄だとちゃんと踏まえたうえで…「わたし」と同程度(に無常なるもの)のリアリティーでの「霊」があったとしても、少なくともそれは別に殊更に否定すべき事象にはならない、というのが、私の考えです。

個人的には以上のようなことですが、仮に「霊」がいたとしても、それは生まれ変わった「後の」存在ですから、それはそういう「ひとつの生命のありかたとしての目に見えない存在」ということです。「行くところに行けずに何年も何百年も迷って祟っているのだ」ということではありません。「霊」「目に見えない存在」がいたとしても、すべて輪廻した後の、新しい生命の状態です。
「え、じゃあ法事は何のためにやるの?」という疑問がでるかも知れませんが、それはこちらをご覧ください。

また、巷では「霊があると言うとそれは即、不変の実体を認めているのだ」という意見が散見されるのですが、それは非常に偏った極端な考え方です。「人間がいる」「猫がいる」と認めたとしても、それが即「実体論」にならないのと同様です。霊も縁生の存在として認めても、そして、サンサーラを脱するまで続く「連続的な魂」を仮に認めたとしても、それは時間的にどれほど長くても、生滅する無常の現象に過ぎません。

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川本喜八郎『平家物語』

2011年09月02日 | 閑話休題
川本喜八郎の名作『人形歴史スペクタクル 平家物語 完全版』の DVD SPECIAL BOXを遂に買ってしまった。前々から欲しかったんだけれど、ずっと高くて手が出なかったものです。
実はこの人の人形劇は『三国志』を昔々、子供の頃に何かで見たことがあるのですが、その人形の動きがホントに素晴らしく、途中から人形であることを忘れてしまうくらいのクオリティだった記憶があり、この『平家』は是非、絶対に観たい! 「平家物語マニア」としてはいずれ買わざるを得ない!…ということで今回、清水の舞台から飛び降りました。大怪我です。
色々と調べるうち、来年の大河『清盛』もそれほど期待が持てないことが判明しつつありますし、この人形劇ドラマに慰めを見出すことにします。

ところで川本人形劇『三国志』も欲しいのですが、これは半端なく高いので、とてもじゃないけど買えません(泣 レンタルでもいいけれど、近くのレンタル屋には置いてないしなぁ。
それにしても、『蒼穹の昴』もそうだけど、NHKのDVDってなんでこんなに高いんだろうか。あまりDVDとか買わないからわかんないけれど、もしかしてこれが相場なのかな?

【追記】
すぐにでも観たいところですが、まだ観ないんだなー、これが。
妻にも観せようと思ってるんですけれど、妻は『平家』をよく知らないので、取り敢えず横山光輝『漫画・平家物語』(全三巻)を読んでもらい、予習させようかと(笑
どうやら忠盛・清盛・重盛・頼盛・宗盛・知盛・維盛・敦盛、あるいは義朝・為朝・義賢・頼賢・義隆・義円・義平・義仲…等等の似たような名前に対応できないみたい(さすがに頼朝と義経くらいは知ってるらしい)なので、ある程度の主要人物くらいは知ってからのほうが…と思いますし。
まぁ確かに、はじめてこの名前の羅列を見たら対応できないよなぁ。

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