प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

怒りの証言

2011年07月29日 | 時事関連
東京大学先端科学技術研究センター・児玉龍彦教授による怒りの大演説@衆議院厚生労働委員会。
現場で除染に邁進している学者の怒りの訴えは迫力あります。特に子供を救わなくてはならない、という強い思いを感じました。なのに…議員連中の最後のパラパラの拍手は…。
残念ながら、映像がないから全体の空気感だけだけれど、彼らの心に響いたとも思えない。生温い呆けた政治家はダメ。ただただ委員会だからと座って聴いて、「なるほどね」と。危機感が薄いように思える。

それにしても、放出放射線量や放射性物質の量が児玉教授の所見の通りなら、東北はすべてアウトになるのでは…? 関東も今後は監視区域にならざるを得ないのでは…?
チェルノブイリ事故でも、ドイツはじめ中欧あたりまではいまだに高めの放射線量値が出てるし。



衆議院厚生労働委員会での児玉龍彦氏発言の全文

私は東京大学アイソトープ総合センター長の児玉ですが、3月15日に大変に驚愕いたしました。私ども東京大学には27か所のアイソトープセンターがあり放射線の防護とその除染などの責任を負っております。私自身は内科の医者でして東大病院の放射線施設の除染などに、ずっと数十年かかわっております。

3月15日午前9時ごろ東海村で5μシーベルトという線量を経験しまして、それを第10条通報という文科省に直ちに通報いたしました。その後、東京で0.5μシーベルトを超える線量が検出されました。これは一過性に下がりまして、次に3月21日に東京で雨が降り、0.2μシーベルト等の線量が降下し、これが今日に至るまで高い線量の原因になっていると思っています。
それでこの時に枝野官房長官が「さしあたり健康にあまり問題はない」という事をおっしゃいましたが、私はその時にこれは大変な事になると思いました。

何故かというと現行の放射線の障害防止法というのは、高い線量の放射線物質が少しあるものを処理することを前提にしているのです。この時は総量はあまり問題ではなくて、個々の濃度が問題になります。
ところが今回の福島原発の事故というのは、100キロメートル圏で5μシーベルト、200キロメートル圏で0.5μシーベルト、更にそれを超えて足柄から静岡のお茶まで及んでいる事は、今日みなさん全てがご存じの通りであります。

我々が放射線障害を診る時には、総量をみます。それでは東京電力と政府は一体今回の福島原発の総量がどれくらいであるか? はっきりした報告は全くされておりません。
そこで私どもはアイソトープセンターのいろいろな知識を基に計算してみますとまず、熱量からの計算では、広島原爆の29.6個分に相当するものが漏出しております。ウラン換算では20個分の物が漏出していると換算されます。

更に恐るべきことには、これまでの知見で原爆による放射線の残存量と原発から放出された物の放射線の残存量は、一年に至って原爆が1000分の1程度に低下するのに対して原発からの放射線汚染物は10分の1程度にしかならない。
つまり今回の福島原発の問題は、チェルノブイリと同様、原爆数十個分に相当する量と原爆汚染よりもずっと多量の残存物を放出したという事が、まず考える前提になります。

そうしますと、我々システム生物学というシステム論的に物を見るやり方でやっているんですが現行の総量が少ない場合には、ある人にかかる濃度だけを見ればいいです。
しかしながら、総量が非常に膨大にありますと、これは粒子です。粒子の拡散は、非線形という科学になりまして、我々の流体力学の計算でも最も難しいことになりますが、核燃料というのは要するに砂粒みたいなものが合成樹脂みたいな物の中に埋め込まれています。これがメルトダウンして放出するとなると細かい粒子が沢山放出されるようになります。

そうしたものが出てまいりますと、どういうことが起こるかというのが、今回の稲藁の問題です。例えば、

岩手の藤原町では稲藁 57000ベクレル/kg
宮城県の大崎 17000ベクレル/kg
南相馬市 10万6千ベクレル/kg
白河市 97000ベクレル/kg
岩手 64000ベクレル/kg

ということで、この数値というのは決して同心円上にはいかない。どこでどういうふうに落ちているかは、その時の天候、それから、その物質が例えば水を吸い上げたかどうか。それで、今回の場合も私は南相馬に毎週末700km行って、東大のアイソトープセンター、現在まで7回の除染をやっておりますが、南相馬に最初に行った時には1台のガイガーカウンターしかありません。

農林省が通達を出したという3月19日には、食料も水もガソリンも尽きようとして南相馬市長が痛切な訴えをウェブに流したのは、広く知られているところであります。
そのような事態の中で、通達1枚出しても誰も見ることが出来ないし誰も知ることができません。稲藁がそのような危険な状態にあるという事は、まったく農家は認識されていない。農家は飼料を外国から買って、何十万円という負担をおって、さらに牛にやる水は実際に自分たちと同じ地下水を与えるように、その日から変えています。

そうすると、我々が見るのは何をやらなければいけないかというとまず、汚染地で徹底した測定が出来るように
するという事を保証しなくてはいけません。我々が5月下旬に行った時、先ほど申し上げたように1台しか南相馬に無かったというけれど、実際には米軍から20台の個人線量計がきていました。しかし、その英文の解説書を市役所の教育委員会で分からなくて、我々が行って教えてあげて実際に使いだして初めて20個の測定が出来るようになっている。これが現地の状況です。
そして先程から食品検査と言われていますが、ゲルマニウムカウンターというものではなしに今日ではもっと、イメージングベースの測定器というのが遥かに沢山、半導体で開発されています。

何故、政府はそれを全面的に応用してやろうとして全国に作るためにお金を使わないのか。3か月経ってそのような事が全く行われていない事に、私は満身の怒りを表明します。

第2番目です。
私の専門は、いわゆる小渕総理の時から内閣府の抗体医薬品の責任者でして、今日では最先端研究支援というので、30億円をかけて抗体医薬品にアイソトープをつけて癌の治療にやる。すなわち人間の体の中にアイソトープを打ち込むという仕事が私の仕事ですから、内部被曝問題に関して一番必死に研究しております。そこで内部被曝がどのように起きるかという問題を説明させていただきます。

内部被曝というものの一番大きな問題は癌です。癌はDNAの切断が行われることによって起きます。ただし、ご存じのとおりDNAというのは二重らせんですから、二重らせんの時には非常に安定的です。これが、細胞分裂をする時は、二重らせんが1本になって、2倍になり4本になります。この過程のところが、物凄く危険です。そのために妊婦の胎児、それから幼い子供、成長期の増殖が盛んな細胞に対しては放射線障害は非常な危険を持ちます。
さらに大人においても増殖が盛んな細胞、たとえば放射性物質を与えると髪の毛、貧血、それから腸管上皮のこれらはいずれも増殖分裂が盛んな細胞でして、そういうところが放射線障害の「いろは」になります。それで私どもが内部に与えた場合に具体的に起こるので、知っている事例を上げます。

これは実際には、1つの遺伝子の変異では癌は起こりません。最初の放射線のヒットが起こった後にもう1個の別の要因で癌の変異が起こるという事。これはドライバーミューテーションとかパッセンジャーミューテーションとか細かい事になりますが、それは参考の文献を後ろに付けてありますので、それを後でチェルノブイリの場合やセシウムの場合を挙げてありますので、それを見ていただきますが、まず一番有名なのはアルファ線です。
プルトニウムを飲んでも大丈夫という東大教授がいるというのを聞いて、私はびっくりしましたが、アルファ線はもっとも危険な物質であります。それはトロトラスト肝障害ということで私ども肝臓医はすごくよく知っております。要するに内部被曝というのは、先程から一般的に何ミリシーベルトという形で言われていますが、そういうものは全く意味がありません。

I131は甲状腺に集まります。トロトラストは肝臓に集まります。セシウムは尿管上皮、膀胱に集まります。これらの体内の集積点をみなければ全身をいくらホールボディースキャンやっても全く意味がありません。
トロトラストの場合の、このちょっと小さい数字なんで大きい方は後で見て欲しいんですが、これは実際に、トロトラストというのは造影剤でして、1890年からドイツで用いられ、1930年ごろからは日本でも用いられましたがその後20~30年経つと肝臓癌が25%から30%に起こるという事がわかってまいりました。

最初のが出てくるまで20年というのは何故かというと最初に、このトロトラスト、アルファ線核種なんですがアルファ線は近隣の細胞を傷害します。その時に一番やられるのはP53という遺伝子です。
我々は今ゲノム科学というので、人の遺伝子を全部配列を知っていますが一人の人間と別の人間は大体300万箇所違います。ですから人間同じとしてやるような処理は今日では全く意味がありません。

いわゆるパーソナルライフメディスンというやり方で、放射線の内部障害をみる時にも、どの遺伝子がやられて、どういう風な変化が起こっているかという事をみるということが原則的な考え方として大事です。
トロトラストの場合は、第一段階ではP53の遺伝子がやられて、それに次ぐ第二第三の変異が起こるのが20~30年後かかり、そこで肝臓がんや白血病が起こってくるという事が証明されております。

次にヨウ素131。これはヨウ素は皆さんご存じの通り甲状腺に集まりますが、甲状腺への集積は成長期の甲状腺形成期が最も特徴的であり、小児に起こります。
しかしながら1991年に最初ウクライナの学者が、甲状腺癌が多発しているというときに、日本やアメリカの研究者は『Nature』に「これは因果関係がわからない」ということを投稿しております。

何故そんな事を言ったかというと1986年以前のデータがないから、統計学的に有意だという事を言えないということです。しかし、統計学的に有意という事がわかったのは、先程も長瀧先生からお話しがありましたが20年後です。20年後に何がわかったかというと86年から起こったピークが消えたために、これは過去のデータが無くても因果関係があるという事がエビデンスになった。いわゆる、ですから疫学的証明というのは非常に難しくて、全部の事例が終わるまで大体証明できないです。
ですから今、我々に求められている子どもを守るという観点からは全く違った方法が求められます。そこで今行われているのは、ここには国立のバイオアッセイ研究センターという化学物質の効果をみる福島昭治先生という方がずっとチェルノブイリの尿路系に集まるものを検討されていまして、福島先生たちがウクライナの医師と相談、集めて500例以上の前立腺肥大の時に手術をしますと、膀胱もとれてきます。これをみまして検索したところ、高濃度汚染地区、尿中に6ベクレル/リットルという微量ですが、その地域ではP53の変異が非常に増えていて、しかも、その増殖性の前癌状態、我々から見ますとP38というMAPキナーゼとNF-κBというシグナルが活性化されているんですが、それによる増殖性の膀胱炎というのが必発でありまして、かなりの率に上皮内の癌ができているという事が報告されております。

それで、この量に愕然といたしましたのは福島の母親の母乳から2~13ベクレル、7名で検出されているという事が既に報告されている事であります。
次のページお願いします。

我々アイソトープ総合センターでは現在まで毎週700キロメートル、大体一回4人づつの所員を派遣しまして南相馬市の除染に協力しております。
南相馬でも起こっている事は全くそうでして、20キロ30キロという分け方が全然意味がなくて、その幼稚園ごとに細かく測っていかないと全然ダメです。

それで現在20キロから30キロ圏にバスをたてて1700人の子どもが行っていますが実際には避難その、南相馬で中心地区は海側で学校の7割で比較的線量は低いです。
ところが30キロ以遠の飯館村に近い方の学校にスクールバスで毎日100万円かけて子どもが強制的に移動させられています。このような事態は一刻も早く辞めさせてください。

今その一番の障害になっているのは強制避難でないと保証しないと参議院のこの前の委員会で当時の東電の清水社長と海江田経済産業大臣がそういう答弁を行っていますが、これは分けて下さい。
保障問題とこの線引きの問題と子どもの問題は直ちに分けて下さい。子どもを守るために全力を尽くすことをぜひお願いします。

それからもう一つは現地でやっていますと除染というのの緊急避難的除染と恒久的除染をはっきり分けて考えていただきたい。緊急避難的除染を我々もかなりやっております。たとえばここの図表に出ておりますこの滑り台の下。滑り台の下は小さい子が手をつくところですが、この滑り台に雨水がザーッと流れてきますと毎回濃縮します。

右側と左側とズレがあって、片側に集まっていますと平均線量1μのところだと10μ以上の線量が出てきます。
それで、こういうところの除染は緊急にどんどんやらなくてはいけません。それからこういうさまざまな苔が生えているような雨どいの下。これも実際に子どもが手をついたりしているところなのですがそういうところは、たとえば高圧洗浄機を持って行って苔を払うと2μシーベルトが0.5μシーベルトまでなります。
だけれども0.5μシーベルト以下にするのは非常に難しいです。それは建物すべて、樹木すべて、地域すべてが汚染されていますと空間線量として1か所だけを洗っても全体をやる事は非常に難しいです。

ですから除染を本当にやるという時にいったいどれくらいの問題がかかりどれ位のコストがかかるかという事をイタイイタイ病の一例で挙げますとカドミウム汚染地域、だいたい3000ヘクタールなんですが、そのうち1500ヘクタールまで現在除染の国費が8000億円投入されています。もし、この1000倍という事になれば、いったいどのくらいの国費の投入が必要になるのか。(編注:800兆円)
ですから私は4つの事を緊急に提案したいと思います。

第1番目に国策として食品、土壌、水を日本が持っている最新鋭のイメージングなどを用いた機器を用いてもう半導体のイメージかは簡単です。イメージ化にして流れ作業にしてシャットしていってやるということの最新鋭の機器を投入して抜本的に改善して下さい。これは今の日本の科学技術力で全く可能です。
2番目。緊急に子供の被爆を減少させるために新しい法律を制定して下さい。私が現在やっているのはすべて法律違反です。現在の(放射線)障害防止法では各施設で扱える放射線量、核種等は決められています。

東大の27のそのいろんなセンターを動員して現在南相馬の支援を行っていますが多くの施設はセシウムの使用権限なんか得ておりません。車で運搬するのも違反です。
しかしながら、お母さんや先生たちに高線量のものを渡してくる訳にはいきませんから今の東大の除染ではすべてのものをドラム缶に詰めて東京へ持って帰ってきております。受け入れも法律違反、全て法律違反です。

このような状態を放置しているのは国会の責任であります。全国には例えば国立大学のアイソトープセンターというのはゲルマニウムをはじめ最新鋭の機種を持っているところは沢山あります。そういうところが手足を縛られたままでどうやって国民の総力を挙げて子どもが守れるでしょうか。これは国会の完全なる怠慢であります。

第3番目。国策として土壌汚染を除染する技術を民間の力を結集して下さい。これは、たとえば東レだとかクリタだとかさまざまな化学メーカー。千代田テクノルだとかアトックスというような放射線除去メーカー。それから竹中工務店なんか様々なところは放射線の除染などに対してさまざまなノウハウを持っています。
こういうものを結集して現地に直ちに除染研究センターを創って実際に何10兆円という国費がかかるのをいまだと利権がらみの公共事業になりかねない危惧を私すごく持っております。
国の財政事情を考えたらそんな余裕は一瞬もありません。どうやって除染を本当にやるか。7万人の人が自宅を離れて彷徨っている時に国会は一体何をやっているのですか。以上です。
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仏教、最初の一冊

2011年07月16日 | 仏教・思索
・質問

初心者向けの、仏教の入門書「最初の一冊」を教えて欲しいのですが。

・答え

これは、色々とあります。
どういう傾向の本を求めているのかがわかれば、適切な提示ができるのですが、ここでは一般的なものをということで、述べて見たいと思います。
ただ、私の個人的な好みもありますので、あくまで参考程度に、ということで。


【仏教全般】
高崎直道『仏教入門』(東京大学出版会)

【釈尊】
渡辺照宏『新釈尊伝』(ちくま学芸文庫)

【経典全般】
金岡秀友『仏典の読み方』(大法輪閣)

【日本仏教】
末木文美士『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)

【般若心経】
諸橋精光『般若心経絵本』(小学館)


上の五冊ならば、まず間違いないですし、最初の一冊として不足は無いでしょう。
あとは関心が出た方向で、インド仏教史なり中国仏教史なり、あるいは様々な経典を直接(現代語で)読んでみたり、日本の各宗派の勉強をしてみたり、色々です。
仏教書は、本当に色々なものがあり、不覚掘り下げれば掘り下げるほどに素晴らしい世界が広がっています。一歩一歩、基本的な知識を得て、出来れば専門的な本にまで進んでいって欲しいと思っています。
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真如への道

2011年07月11日 | 仏教・思索
高野山でチベット式潅頂を行うそうです。

さて。
真如、あるいは実相、あるいは一大界、あるいは法界、あるいは一元的神…なんでもいいのですが、主客未分の絶対的全体を、仮に「ケーキ」だとします。
言葉は無言語・無分節的全体を切り分けて主客の世界を現し、客体化して認識可能の次元に下ろす働きを持つものですが、そうやって概念化・客観化して記述された言葉・認識によって、私たちは思考しています(そしてそれは、全体的認識ではあり得ない以上、妄念です)。

その「言葉」が、ナイフです。

ナイフによって、ケーキである真如に切れ目を入れて私たちは日日に様々な「理解・記述・認識」をして生活しているわけですが、全体性を実現した方の指南に従い、また論理的な切れ目を入れ、その入れ方や個数、角度などをしっかり検討する事で、個別のピースを通して、全体的ケーキの認識に至ろうとするのが、仏教の教学・実践の意義であり、意味です。
その場合、真言教学の切れ目の入れ方、浄土・天台法華・禅・念仏、あるいはチベット仏教の入れ方、様々な切れ目の入れ方がありますが、どれも一貫性を持ってきちんと入れていれば、どれも全体的ケーキ認識に至るであろう、というのが取り敢えずの見通しです。
私たちは、そういう様々な教学的モデルに完全に則っていくもよし、それらを参照・参究しつつ、自分自身で試行錯誤しつつ切り方を模索して行くもよし、それは自由です。

宗派・伝統教学というものは、そういう「モデル」を提供する存在です。
個々人がそれをどう「利用」するかは自由ですけれど、宗門全体としては、その「モデル」をしっかりと維持継続・また改善して行く義務があります。それは、「様々な教学的モデルに完全に則っていく」ことを旨とする宗門プロパーの重大な役割だと思います。
私はかなり自由気儘に諸宗兼学で切り口を試行錯誤するタイプですから、伝統宗学の傾向に一々「内部的視点で」口出しは致しませんが、しかし原則論として、長い年月をかけて練られた伝統的切り方を、安易に改変していく事は許容できないことです。改変する場合は、徹底的な教学的検討がなされなくてはなりません。
南都の「八宗兼学」も、僧侶はそれぞれ自分の問題意識や実践によって横断的にそれを学び・吸収していったわけですが、しかしそれぞれの「学派」が融合して見境がなくなったわけではありません。あくまでも、個人の立場と、学派・宗団・教派教学の立場は違います。

たとえば、真言密教の教学と実践を行う高野山に於いて、「本山が絡む形で」チベット密教の潅頂を行うというのは、1200年熟成されて完成されて来た真言密教というケーキの切り出されたピースの上から、ざっくりと無邪気に他の伝統のナイフを入れてしまう、ということです。これは混乱のもとになります。
違う伝統で、違う論理のナイフの使い方をしているわけですから、同時にふたつの論理をひとつのケーキにかぶせることは、ナンセンスでしょう。

確かに「ルートは多様でも頂上はひとつ」と言いますが、ひとりの人が歩けるルートは、(既定ルートにしろ自分で切り開くにしろ)一本だけです。そしてその定式化・定型化されたルートを提示するのが、宗団の役割です。
個人的には真言密教とチベット密教を合した切り口を模索する事は良いし、新しい可能性を齎すとは思うのですが(私も似たような事をしています)、しかし宗門レベルではそういうわけには行きません。「モデル」を提示するのが、伝統宗門の役割で、その役割を放棄するとすれば、もはや「宗団」としての意義はなくなります。
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仏教徒になりたい

2011年07月09日 | 仏教・思索
例えば普通の大学生が、自覚的に「仏教徒になりたい」と思った場合、彼はいったいどうすれば良いのでしょうか。

キリスト教であれば、ウェブサイトや電話帳を繰れば、近所に教会がいくつか見付かるでしょう。そしてそこに連絡すれば、日曜礼拝には誰でも自由に参加できます。そして牧師あるい信徒リーダーが、「彼」の思いを聴き、相談に乗ってくれるでしょう。
そして数ヶ月か数年か、いずれにしても「求道者」という立場で毎週日曜日に教会に通い、聖書の勉強をもっとしたいと思えば、水曜夜に聖書研究会や祈りの会があったりします。そして時期が来れば、洗礼を受け、クリスチャンとなります。慣れて来れば、礼拝の奉仕活動に参加したり、日曜学校の手伝いをしたりするかも知れません。

イスラームであれば、各地にモスク(マスジッド)があります。あるいはこれもウェブ上等でムスリムに相談すれば、親切に方法を教えてくれます。そしてどこかのモスクに行き、信仰告白の文を申し述べれば、それで「彼」はムスリムとなり、各地に点在するムスリム・コミュニティーの一員となり、毎週金曜日に集いつつ、神・同胞とともに生きていきます。

創価学会であれば、聖教新聞の販売所にでも行けば、地区の責任者を紹介してもらえるでしょうし、どこにでもある会館に電話をすれば、詳しく案内をされるでしょう。地区の会合に参加させてもらい、御本尊を受けて立派な学会員となり、御書を学びつつ座談会等に参加し、信心を深めるわけです(選挙運動を通して組織の一員である自覚は益々、強くなります)。

エホバにしても他の新興宗教にしても、事情は似たようなものだと思います。

翻って、仏教はどうでしょう。

これが実はなかなか、難しい。

近くの寺に行って、「仏教徒になりたい」と言っても、「うちは檀家寺だから」と断られるか、信者寺だと御祈祷の申込用紙を渡されるのが関の山。檀家になりたいと言えばなれるかも知れませんが、どうも「仏教徒になりたい」というのとは違う…。
勉強会をやっている寺もあまりないし、やっていたとしても檀家向けだったり、ただの法話会で、その後の展開と言うか、特に何かがあるわけではないし。自覚的に「仏教徒」として日々に実践し・学び・大乗菩薩サンガの一員として生きていきたい…という「彼」は、そこで途方に暮れるでしょう。
オウム真理教に入信した人のうちにも、最初の段階で伝統仏教寺院が彼らをどこも受け入れず(そして話を聴いてくれたとしても、そこに「信仰」などなかったが為に)、「難民」となった彼らがオウムに流れた、という事もあったようですが、そうなる原因は寺院サイドにも多々あったわけです。


仏教の教会。大乗仏教の開かれた教会が、絶対に必要です。
定期的に、毎週、きちんと集会を持ち、法が語られ、実践があり、大乗サンガが成立している、そういう場所が絶対に必要です。
誰であれ、仏教徒になりたいと願う人に対し、仏法僧がきちんと揃い、みんなが僧(大乗サンガ)の一員として、自覚的に仏教徒として、支え合いながら生きていける、そういう場所。

いつか機が熟せば、必ず、そういう場所を作りたいと思います。
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お盆の期間

2011年07月08日 | 仏教・思索
・質問

お盆はいつからいつまでですか?

・答え

お盆は、正確にはいつからいつまでか、という質問を昨年もいくつか受けたので、改めて確認しておきたいと思います。地域性もあり、例えば東京は七月ですし、沖縄は九月ですが、西日本の場合は八月です。

で。

よく「盆は八月十三日から三日間」という言い方をされるようで、十五日で終わると勘違いしている人が多いようです。でもお盆は、十六日までです。
十三日の夕刻に迎え火をして、そこから丸三日間がお盆ですから、十六日の夕刻に送り火をするまでが、「お盆期間」です。

これでお盆の期間についてはわかっていただけたと思いますが、そもそもお盆って何だ、精霊って何だ、先祖供養って何だ、というような疑問も多々あろうかと思います。
またそれは機会がある時にでもお話しましょう。
今は、「法事の意味」についての記事を下にリンクさせておきますので、それを参考にしてください。お盆の御供養も、結局は日々の先祖供養の延長線上ですから。


参考リンク … 法事は何のため?
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日本仏教の未来

2011年07月02日 | 仏教・思索
30年後、果たして日本に「日本仏教」は残っているだろうか。
私はかなり悲観的です。

まず、現状の習慣的葬祭業仏教は壊滅しているでしょう。あるいは著しく形骸化し、結婚式におけるインチキ牧師程度の存在として、葬儀業者の一演出部門として存在はしているかも知れませんが、その頃には「布施」などは葬儀屋の請求書に「司会料」の下に「儀礼費」として顧客に提示され、その類の専門事務所が派遣をするようになるかも知れません。

しかしそれは本質的な事ではなく、問題は、仏教が宗教として日本にあるかどうか、ということです。今、「論語」などがブームとして色々と本も出ていますが、そういう「修養書」「啓発書」としての仏教書は存在し続けるでしょう。
しかし、そんなつまみ食い的な仏教ではない、ある種の真剣な信仰として、自分自身の実存的な問題を、人生を賭けて追及する「場」としての日本仏教は、(今も気息奄々ですが)恐らく消滅しているのではないかと危惧します。

世界的に見れば、チベットや台湾・上座部の仏教は各地で着々と地歩を固め、もしかしたら「新中国」の仏教もいずれ台頭してくる可能性はあります。
それに比べ、世界は言うに愚か、この日本においてすら、他の伝統と同じように日本仏教には社会に台頭して行くだけの能力と魅力が、果たしてあるのでしょうか。
これは、「教義の内容」云々ということではありません。
教義的な問題で言えば、日本仏教はかなり、魅力的です。問題は、その魅力的な内容を(誤解を恐れずに言えば)より効果的に修飾しつつ、一般に発信して行くだけの能力があるのかどうか、ということです。

現状、私は「ない」と思います。

その要因はいくつも指摘出来ますが、まずは僧侶における信の薄さ、学の薄さ、行の薄さ。家業あるいはサラリーマン的な意識で僧侶をやることが常態化している現状では、とてもまともな求道的人間を惹きつけることは出来ません。
檀家制度的慣習に乗っかった寺院・僧侶が、徐々に衰退しつつも、自分の生活が崩壊しない限りは現状で良しとする態度(これがまさにサラリーマン的)で、法師たる自覚など瞬時も意識せず惰性に住するなら、宗教としての将来などないのは当然でしょう。

また、僧侶の資質だけではなく、聖典の問題もあります。
明治以来、日本ではキリスト教は人口1%の壁を破れない弱小宗教でありますが、聖書は文語訳・口語訳・共同訳・新共同訳・新改訳・バルバロ訳、あるいは新約だけに限れば正教会訳など、様々なものが出されています。文語訳・正教会訳は文語調ですが、他のものはすべて現代口語訳です。
これらの聖書を基準に信仰生活が行われ、講解され、説教がなされます。
イスラームなどはキリスト教に遥かに及ばない人口しかありませんが、ムスリム協会などが口語釈の立派なクルアーンを出しています。
翻って、日本に於いて1500年の伝統を誇る仏教はというと、いまだに漢文そのままか、あるいは訓読国訳、あとはゲリラ的に試訳的口語訳がばらまかれている程度で、「聖典」として「これだ」と言えるものは皆無に近い状況です。
確かに木津仏典や伝道協会仏典などもありますが、前者は訓読をひきずった数十年前の雅文風で現代人には馴染めないし、後者はあまりにも貧弱な内容です。これでは話になりません。
漢文が読める層が厚かった時代ならともかく、現代は漢文はもとより訓読文すら読める人がほとんどおらず、30年後ともなれば、少なくとも中年以下の世代には訓読文など英語以上に読解不能なものになっているでしょう。僧侶であっても、今のままの体制だと漢文・国訳など読めなくなることは明白です(今でも読めない僧侶だらけなのに)。そうなると、もはや日本仏教の法の継承や伝道など、不可能になります(精々、僧侶も入門書や啓蒙書を読んで重々しく受け売りするだけ…)。
そうなることは自明であるにも関わらず、いまだに現代語に依る、学問的にも正確な大蔵経の出版が企画もなされないということは、非常な懸念を抱かざるを得ません。
仏教を求める者は、英語で伝道するチベットや上座部、あるいは現代語で語る新興宗教に流れ込み、日本仏教(というか、漢訳仏教の伝統)は完全にお終いです。

日本仏教の終焉。
日本仏教が大して価値のないものであれば、それも致し方ないでしょう。しかし、私はそうは思いません。まして漢訳仏教の伝統は、世界に冠たる思想的・宗教的な一大宝蔵です。この伝統を受け継いでいる我々としては、何とか現状を打開する方策を探さなくてはなりません。
とは言え、私個人の能力など多寡が知れています。戦後教育世代として漢文能力も貧弱、サンスクリットは2年かじった程度、蔵巴に至っては文字も読めないという体たらく、教義的知識も好事家程度で実践も満足に伴わない…と来ては、まさに自分こそサラリーマン的で檀家寺院に惰眠を貪る悪法師の典型ですが、それにしても何とかしたい。
現代語訳大蔵経の実現に関しては、ともかくも学者先生の中からそういう機運が出てくることを祈りたいと思いますが、私個人としては、(習慣的仏教世界に足を突っ込んだままで、まだ明確な形が見えてこないのですが…)今はしっかりと基礎的な仏教学を勉強し自行を重ねつつ、中期的な将来、縁が熟せば必ず何らかの「新しい仏教のかたち」を提示し、動き出したいと思います。
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