प्रज्ञापारमिता

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戒名について

2011年06月29日 | 仏教・思索
・質問

戒名は自分で付けていいのですか?

・答え

結論から言うと、「別にいいですが、仏教的には無意味」ということです。

戒名とはその名の通り、「戒の名」つまり「受戒をした証として師より授けられる名前」です。私は智史(さとし)という名前ですが、僧侶になった時に師僧から「智秀(ちしゅう)」という僧名=戒名を拝受しました。
戒名は受戒とセットで授けられるべきものです。
仏教において、戒は必ず師より授かるものですから(自誓受戒というものもありますが、あれは直接に仏菩薩から授かることを目指すもので、いずれにしても授かることが前提です)、その証としての戒名も無論のこと、釈尊の代理人としての戒師より授かるべきものです。そしてその名前に関しては、注文をつける筋合いのものではないことは当然です。

とはいうものの、釈尊の時代には別に戒名というものはありませんでした。この習慣自体は中国で始まったものです。ですから仏教的には、戒名は無くても構わないと言えるでしょう。
ただ、受戒の証(仏教徒の証、仏弟子となった証、法脈に入った証)としての意義はあると私は思います。仮にそういう意味合いとして考えるのなら、戒名は必ず「師より授かる」ものです(そして出来れば、仏教徒としては生前に受戒して戒名を授かるべきです)。

つまり戒名は、自分でつけてもまったく意味がありません。
俗名のままでやるか、戒名を授かるのか、ふたつにひとつだと思います。


尚、「高額な戒名料」などという問題が「自分でつける戒名」を主張する根底にあるのかも知れません。「戒名料」の問題は(仏教に対する不信感を助長しているという点で)私もとても心を痛めるところですが、この問題はまた別の機会に検討したいと思います。
ただ、「布施」というものは「料金」とはまったく概念が違うものであり、「料」という単語自体が布施には馴染まないし、「定価」の如き相場を掲げて「徴収」すべきものでもないことは、声を大にして言っておきたいと思います。
布施の基本については、下のにリンクしている過去記事をご覧ください。

過去記事 … 「布施」

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論理学で起信論を

2011年06月28日 | 仏教・思索
ウィトゲンシュタインや西田幾多郎の研究で有名な(もっとも私にとっては、法蔵館『東洋の合理思想』の方が親しいですけれど)論理学者の故・末木剛博博士に、「大乗起信論の論理」という論文があります(平川彰編『如来蔵と大乗起信論』(春秋社)所収)。
学者にはともかく、一般にはあまり知られていない論文ですが、起信論を現代的文脈で読み解いたものとして、井筒俊彦『意識の形而上学』と並んで、非常に有益な論文です。

末木博士の論文を読むと、(それこそ論理学者だから当然の帰趨かも知れませんが)『起信論』を徹底した主知主義の立場として読むことで、「言に因って言を遣る」事が、単なる思考放棄ではないことを再確認させられます。非常に面白いです。
論文末尾「五 附説 「離言・依言の論理」の定式化」は、前節「四 離言・依言の論理」を論理式で再説したというもので、論理記号・論理式がわかる人は是非(私は論理記号の知識あやふやで、ちょっと歯が立ちませんけれど)。

惜しむらくはこの論文、『起信論』の全体を釈したものではなく、主に真如論に限定しているだけです。出来れば薫習論と発心論も簡単にでも釈していただければ非常に助かったのですが(なにしろ論理学者の著だけあって、極めて論旨明快なので)…残念。

 
因みに末木剛博博士の御子息は、日本仏教思想の分野における代表的仏教学者・末木文美士博士です。最近まで知らなかった。
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映画『ブッダ』

2011年06月23日 | 閑話休題
ヤフオクで380円のチケット落札して見に行きました。

正規の1800円だったら、途中でモノ投げてますな。
380円でも、行き帰りのガソリン代が勿体なかったくらい。
いずれにしても、時代考証も学問的裏付けもへったくれもないのはわかりました。
原作自体が近代欧州の社会事情に依存して形成された100年前の胡散臭い「理知的・近代的ブッダ」+左がかった進歩的合理主義に依拠したアレな本だから致し方ないのかも知れませんが。


◆ 監 修 … ひ ろ さ ち や
◆ 後 援 … 全 本 仏 教 会


已んぬる哉。
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乙嫁語り

2011年06月16日 | 閑話休題
私、普段あまり漫画は読まないのですが、ふとした事で『乙嫁語り』という作品があることを知りました。
19世紀・帝国主義全盛の列強による<グレートゲーム>の舞台となった中央アジア、しかも西域の風俗満載(特に布)のこの漫画、読むなという方が無理な相談です。子供の頃から憧れていた舞台と時代…まさに「どストライク」です。

まだ3巻までしか出ていないのですが、今後に大いに期待しています。スミスは果たして無事にアンカラに着けるのでしょうか(←え、そこか?)。

それにしても、西域は本当に興味深い地域です。
悲しいかな、語学の才能に恵まれない私には、それだけに却って憧憬の地(この地域、とりわけ西トルキスタンを学ぶには、一にロシア語、二にチュルク系言語、三にペルシャ語&ペルシャ系言語が必要…)。
まぁ今もぼちぼち勉強している漢文をもう少し頑張れば、東トルキスタン系の記録ならいつか辿れるかな…と思ってはいるのですが…西にも少しは行けるかな…。
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漢字、漢文

2011年06月14日 | 仏教・思索
韓国の漢字教育最後の牙城・高麗大学は全学部で漢字検定2級の取得を義務付けていたのですが、今後は廃止される方向のようです。学生の負担が多くて研究に支障を来す…というのが理由だそうです。いよいよ韓国は漢字不毛の地になりそうですね。
漢字復活の論調も一部にはあるそうですが、易きに流れる風潮には抗えない、ということでしょうか。

日本では戦後、漢字廃止論(や日本語廃止論)が色々な方面から出ては消えして来ましたが(当用漢字という考え方はその延長戦上にあります)、現在もまた田中克彦という言語学者が、「漢字こそ参入障壁だ」と、漢字廃止論をぶち上げています(『漢字が日本語をほろぼす』)。
しかし、漢字の学習は過大な負担で、学生は漢字の学習に忙殺されて他の事が出来ない…なんてことはないです。そりゃ高校大学でゼロから始めたら難しいでしょうが、小学生のころからやればそんなに負担にはならないでしょう。
事実、漢字が貧弱化・簡略化している現在、明治大正戦前と比較して飛躍的に日本の知的レベルが向上した様子もないですし、それは韓国だって中国だって同様です。ハングル一辺倒にしても、簡体字にしても、ノーベル賞には届かないようですから(あ、中国人は平和賞取りましたね。おめでとうございます)。

大体、いまでも過去の古典を読めるだけの教養は死につつあり、過去と現在の文化的断絶は深刻化しつつあるのに、ここで漢字廃止などしたら、完全に日本文化は死に絶えます。沖縄やアイヌが「自分たちの歴史」として日本史を学ぶように、私たちも西洋に接木された「世界史」を、「自分たちの歴史」として学ぶ日が来るかも知れません。現に、生活文化的に我々の基盤が曖昧になりつつありますし、その素地はないとは言い切れません。
かな文字だけの本を読むくらいなら、英語の方が楽でしょうしね。

試みに、かなだけで芥川龍之介「アグニの神」冒頭を書いてみましょう。


しな の しゃんはい の あるまち です。
ひる でも うすぐらい あるいえ の にかい に、
にんそう の わるい インドじん の ばあさん が ひとり、
しょうにん らしい ひとり の アメリカじん と 
なにか しきり に はなし あって ゐました。
「じつ は こんど も おばあさん に、
うらなひ を たのみ に きた の だが ね、――」
アメリカじん は さう いひ ながら、
あたらしい たばこ へ ひ を つけました。


比較の為に原文。


支那の上海の或町です。
昼でも薄暗い或家の二階に、
人相の悪い印度人の婆さんが一人、
商人らしい一人の亜米利加人と
何か頻に話し合つてゐました。
「実は今度もお婆さんに、
占ひを頼みに来たのだがね、――」
 亜米利加人はさう言ひながら、
新しい煙草へ火をつけました。


難しい漢字にはルビを振れば済むのです。
漢字を全廃した小説を一冊まるまる読む気力がありますか?
慣れる慣れない以前に、視覚情報が表音文字と比べて格段に充実している漢字表記を基本とする漢字かな混じり文を、すべてかなに変えると途端に意味が取りにくくなります。それは日本の書き言葉が、漢字を前提として成立してきたからで、口語体になっても事情は一緒です。口語体は会話体とは違うわけで、もしかなだけになると、口語体も死んでしまって、日本語文はすべてケータイ的会話体に変質していくでしょう。
それで複雑な概念を伴う文章が書けますかね? その類のものは英語で記述するのが当たり前、ということになるんだと思います。 

語彙に科学用語や近代的事物・概念的用語に相当するものが決定的に不足している言語話者が、高等教育段階で英語を選択するのは不可避なことかも知れません。そういう国はアジア・アフリカには多々あります。
その故に「国際的」と評価される場合もありますが、その陰で、彼らの保持してきた伝統文化は捨て去られつつあります。エリートレベルで捨て去られた文化は、「遅れた文化」と見做され、その忌避は時間を置いて必ず末端にまで及びます。
日本は先人の努力で、あらゆる概念的・科学的言説が日本語で可能なようになっています。これは驚異的なことですが、その根源的な力は漢字文化から得ているのです。

漢字を捨てるということは、日本語を捨てることにつながり、日本文化を捨てることにつながり、先人の古典的叡智を忘却することにつながります。現今、漢字運用能力・漢文能力の決定的な衰退とともに、徐々に日本文化自体が衰弱しつつあります。国籍不明の経済至上主義者・立ち位置の曖昧な世界市民主義者が跋扈しています。
漢字廃止論は、単に言葉だけの問題ではないのです。


【追記】

漢訳仏教の偉大な伝統と蓄積についても、僧侶自身が漢文を読めないが為に、その膨大な法宝が死滅しつつあります。大正蔵も学者以外には、ただの「飾り」です。
19~20世紀の欧州仏教学の方向性(時代遅れの近代合理主義と印欧語中心主義)に則って、いまだに梵巴蔵訳仏教を称賛して漢訳仏教を否定する方もいますが、そういう人も大抵は、漢訳仏典を読んでいません(読めません)。それが現実です。
私たちは、変わりつつある日本語に対応した「現代語による法宝」の提示に努力すべきなのは当然ですが、同時に、漢訳仏教の真価を見極めるためにも、漢訳仏典を生きた聖典として読めるように、僧侶教育のありかたを考えていく必要があるのではないでしょうか。
日台中韓越の五カ国の僧侶は共通の聖典を持っていたのです。今ならまだ、ギリギリ間に合うでしょう。韓国でも僧侶は漢文仏典を読んでいます。ベトナムでも読める僧侶はまだいるようです。日本にもいます。台湾にも中国にもいます。
東アジア仏教圏は協力して漢文復興に努め、僧侶の漢文教育を推進してシステム化していく必要があろうかと思います。共同の研修施設なども作れば良いのです(共通語は「筆談」で)。
一般レベルでは望むべくもないですが、東アジアの僧侶の共通語としての漢文は殺してはならない。そろそろ死にそうですが、まだ何とかなります。何とかしましょう。
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Piece of my Heart

2011年06月11日 | 閑話休題
superfly越智志帆の、ジャニス・ジョプリンのカヴァー。
あんまりsuperflyって知らないんだけれど(ワールドカップの時の「タマシイレボリューション」はテレビで知ってる)、この曲に関しては、非常に素晴らしい。
ジャニスと声質はちょっと違うんだけれど、声量もあって良いですねぇ。

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