प्रज्ञापारमिता

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井筒俊彦/原典

2011年05月28日 | 仏教・思索
最近、慶應義塾大学出版会から、故・井筒俊彦先生の著書が続々と復刊されています(慶大出版会「井筒俊彦」特設サイト)
もちろん直接にお会いしたことなどないまったくの私淑ですけれど、私がもっとも尊敬する学者が、井筒俊彦先生です。もちろん教祖ではないので、すべての井筒説を金科玉条として奉ずるわけでもありませんけれど(たとえば井筒先生の大乗起信論理解に関しては特に、今後は批判的に検討したいと考えています)、その学問的情熱、その博覧強記、その学者的品格、どれをとってもまさに雲上の憧れです。

思えば井筒先生との出会いは、十代の終りの『マホメット』でした。
今、amazonからそのキャッチを紹介すると…
【イスラームとは何か。マホメットとは誰か? 根源的な謎に答えるため著者はマホメット出現以前のアラビアの異教的文化状況から説き起す。沙漠を吹暴する烈風、蒼天に縺れて光る星屑、厳しくも美しい自然に生きる剽悍不覇の男たちの人生像と世界像。魅力つきぬこの前イスラーム的文化パラダイムに解体を迫る激烈な意志としてマホメットは出現する。今なお世界史を揺がし続ける沙漠の宗教の誕生を、詩情豊かに描ききる名著の中の名著】

どうですか、これ。このキャッチだけでも、もうメロメロです。
とりわけアラビアン・ナイトを読んで育ち、インディ・ジョーンズに憧れて考古学者になりたいと思い、『アラビアのロレンス』を観て中東に想いを馳せ、中央アジアやアフリカ探検物・紀行物を通して子供の頃から古きオリエンタリストの薫陶を書物から受けて来た私には、この本は小品ながら素晴らしい輝きを持っていました。
以来、『イスラーム哲学の原像』『イスラーム生誕』『イスラーム思想史』などを通し、「井筒俊彦」という名前は特別のものでしたが、仏教の道に進んで『大乗起信論』に辿り着いた時、驚くべきことに「偉大なイスラーム学者」だと思い込んでいた井筒先生の遺作が、まさにこの『大乗起信論』についてだったことを知りました(『意識の形而上学』)。そしてかの大著『意識と本質』を読むに至り、井筒先生は単なるイスラーム学者ではなく、東洋思想学者・言語学者・形而上学者・哲学者としても偉大な…とにかく、私のイメージするゼネラリスト的学者そのものであるとわかったわけです。

井筒先生の著書を読んでしまうと、他の「一般啓蒙書(特に新書系宗教書)」の何と低俗で低レベルなものが多いか、書棚の大半が粗製乱造の知的怠惰の森にしか見えなくなってしまいます。

まぁ、それはそれとして…。

井筒先生の本を読むにつけ思う事の第一は、とにかく原典の大切さ、です。原典と言っても原書そのものではなくて、もちろん訳本でもいいのですが、とにかく「入門書」だの「概論書」だのばかり読む愚を捨て、ともかくも原典・古典そのものを読むことが最も大切です。
世の中の坊さんですらも、下らない仏教書を付焼刃的に読んで済ませている人は多いのですが、国訳経典自体をまずはしっかりと読むこと、これを怠っていては、何の益もありません。オレンジを絞った残り滓を舐めてるだけです。
これは文学にしても思想にしても歴史にしても同様で、ともかく原典を読む。そこにしかない輝きが、必ずあります。「知識」だけなら概論書に書いているかもしれないですが、そこには生々しい感動がありません。
井筒先生の著書には、先生がそれまで読んで来た原典(そして大部分は原語で)に対する感動が溢れ出ています。先生が感動したものを研究し、考え、著しています。だから私も読んでいて、感応するわけです。そうして、井筒先生を通してすら感じられる感動は、私自身が直接に原典に接することでどれ程の凄いものになるのだろうか…と。

最近、「~分で読める世界の古典」「マンガでわかる~」的な本がたくさん出ています。マニュアル的な本も氾濫しています。
もちろんそういう本も結構でしょう。ホントの初門には良いと思います。私も嫌いではありません。ただ、そこで終わってしまっては、勿体ない。それだけを読んで「まぁ、大体わかった」と思わないで欲しいんです。そこから、原典に進んで欲しいんです。
特に仏教は、経典そのものに「呼吸」があります。仏陀のリズムが(漢訳・国訳であっても勿論)あります。それを感じなければ、仏教は知識でしかありません。自分で読まずに、誰かの指南に頼ろうとすると、間違えます。教条主義的な道に嵌まります。

なんだか井筒先生とは直接関係なくなってしまいましたけれど、井筒先生の著書を読みながら、つらつらと考えた事でした。
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久々に

2011年05月21日 | 閑話休題
久しぶりに本格的な風邪。
だるい。
一週間くらい前から微妙にヤバかったんですが、
先日、山仕事をしてドカンと来た。
週末、ヒマで良かった。
それにしてもだるい。
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起信論と地論宗

2011年05月10日 | 仏教・思索
私は大学四回生以来、『大乗起信論』を読み続けて自身の仏教的立場の根底にしているのですが、近々に法蔵の『大乗起信論義記』の現代語訳が遂に出版されるとのことで、この際、改めてしっかりと『大乗起信論』に向き合おうかと考えています。

『大乗起信論』には「撰述問題」というのがあります。インド撰述か中国撰述か、という論争ですが、私にはこの方面での専門的知識はないものの、個人的な感覚として、インド人か西域人が中国で口述したものではないか、と思っています。
だからこそ根本的な部分ではインド大乗仏教の知見がありつつ、一書として成立した中国仏教の影響も見られるのではないか…と。
その「中国仏教」とは具体的には地論宗のことですが、中国において『大乗起信論』が華厳宗の系統で重視されたのも、そもそも地論宗との関係が契機だったのでは…と推測しています。

そういう事を含め、『大乗起信論』をより深く学ぶためには、もちろん『大乗起信論』そのものをそれ自身として読み実践することが第一で最重要ですが、それと同時に、地論宗近辺の勉強もやって行く必要があるだろうな…と、これは以前から漠然とは考えていたのですが、ちょっと真面目にやろうと思っています。
ということで、『十地経』『十地経論』『大乗義章』『義記』…このあたりの経論疏を、ぼちぼちと読み始めようかな、と考えています。もちろんすべて一度には無理なので、少しずつ、ですが。

しかし、独学はキツい。こういう方面での師がいたら良いのですが、なかなか…。
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仏教サロン

2011年05月02日 | 仏教・思索
東日本大震災を機に、改めて社会に対して、法師としていったい何ができるだろうかと、この頃よく考えます。
確かにNPOなど作ってボランティアも良いだろうし、募金やその他の社会活動も結構なこととは思うのですが、ただ、それは法師でなくても出来ることです。2500年の法灯の末端にぶら下がっている仏教法師としては、やはり仏教の本筋で、何かやりたいものだな、と。

実は以前から考えている事ですが、例えば都市部の商店街などの小さい店舗を手に入れて、そこで出入り自由の「仏教サロン」的な事ができないだろうか…簡単な喫茶も出来て、曜日と時間を決めて勉強会や信行会、よろず相談等等。
何かの相談をしに寺に行く、というとなかなか思い切りが必要でしょうし、ちゃんと対応してくれる寺ばかりではありません。また、仏教の勉強をしてみたいと思ってもどこにも場所がない、という現実もあります。
そういう時、気軽に入れて(気軽に出ていけて)、ちゃんと仏教の事が話せる場所が商店街なんかにあればなぁ…と。
そう思っていたら、奈良に私のイメージと比較的近い場所がありました。十輪院という寺だそうです(http://www.jurin-in.com/minna.html)。
商店街に占い屋があるんですから、仏教の「お寺カフェ」的な場所があってもいいと思うんですよね。もちろん「入場料」だの「料金」なんか取るつもりはないので、すべて持ち出し覚悟です。

今のところ資金的な問題もあって実現には時間がまだまだかかりそうですが、いずれそういう場所を作ってみたいと思います。場所は、出来るだけ繁華街で(笑
いつか関西でこういう場所を作ってみたいという気持ちもあるのですが、今のところは出来そうもないです。現状では山口市内か防府市か…少し遠い場所であれば北九州あたりまでかな…。

賛同者がいましたら、激安物件の紹介をおねがいいたします
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古事記の『語り』

2011年05月01日 | 閑話休題
今日の夕方、防府天満宮で「古事記の『語り』」というイベントがあり、行ってきました。語り手は平野啓子さん(平野啓子オフィシャルサイト)です。
運営に若干の不満はありましたけれど、平野さんの舞台自体はとても面白かったです。古事記の朗読をするだけかな、と思っていたのですが、原文・現代語・トークに振付を織り交ぜながら、国生み神話~国譲り、仁徳天皇あたりのお話を一時間ほど聴かせて頂き、流石に話のプロは違うな…と。これで入場料500円は激安です。

法話もこのくらい喋れればなぁ…と思いつつ、なかなかねぇ…。
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