प्रज्ञापारमिता

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尼僧学院から

2010年07月29日 | 閑話休題
妻が尼僧学院から、暫時の休暇で24日から月末まで戻っています。
うちの寺で27日に開山忌がありましたので、その準備と当日の仕事で「休む」というには程遠い状態でしたけれど、まぁ、昨日・今日はゆっくり片づけをする程度ですから、何とか「休暇」と言えるような状態にはなったかな、と(とは言え何やら写経の「宿題」があるらしく、これから数日で結構な量をしなくてはならないようですが…)。
8月には愈々加行開白のようですが、何とか頑張って、他の行者ともなるべく円満にやって、無事に成満して欲しいものです。
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清盛

2010年07月23日 | 閑話休題
NHK大河「江」の次は平清盛40年ぶり

再来年の大河ドラマが、「平清盛」に決まったようですね。
ここのところ幕末・江戸ループが続いていたので、ちょっと時代を遡らせた、とのことです。個人的には源平時代が一番好きなので、これは嬉しいニュースです…とか言いつつ、ほとんど大河ドラマは見ないのですが…。
でも、数年前の『義経』はほとんど見ました。面白そうな時代やテーマなら、取り敢えずはいつも最初は見るんですが、大抵は途中で見なくなりますね…(理由は色々)。

ところで源平モノの作品は、先般の『義経』はじめ基本的には源氏押しが多いわけですけれど、根っからの平家派の私としては(母方の家伝では一応、うちは平家だそうです。ホンマかいな…)、平家に焦点を合わせたこの大河ドラマには非常に期待しています。
そもそも私は、ビザンツ帝国、フランス革命、ロマノフ朝、ナチス、大日本帝国、ソビエト連邦…「崩れゆく王朝・帝国」というテーマにはとことん弱いので、平家崩壊の過程も涙なしには見られません。特に源平モノの場合、壇ノ浦の建礼門院と安徳天皇の悲劇をどのように描けるか…が個人的にはポイントなんですけれど、さて、どうなりますやら。

ま、清盛もいいんですが、実を言うと平維盛・平敦盛・熊谷次郎直実あたりを軸にして、瀬戸内・高野山・熊野を舞台とした人情物も見てみたいなぁ。源平モノにしては湿っぽ過ぎるかも知れませんが…。


あと、近いうち、聖徳太子やって欲しい…。
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暴力団排除?

2010年07月22日 | 時事関連
暴力団と言うと、最近は相撲界との関係が取り沙汰されていますけれど、実はお寺もこの問題とはまったく無関係ではありません。

暴力団の法要引き受け、葬祭場責任者に警告 ~北九州~

上の記事によると、北九州の葬祭業者が山口組系暴力団の三回忌法要を引き受けて市と警察に警告を受けた、ということです。この記事には出ていませんが、北九州市は今後、市の慰霊祭などの行事ではこの業者を排除する、とのことです。

さて、これはなかなか難しい問題ですね。

葬祭業者は北九州の暴力団排除条例に違反した云々、ということで処分されても致し方ないのかも知れませんが、これが業者ではなくて、寺院であったならどうでしょうか。
数年前、山口組の法事を延暦寺で行った時に問題となり、延暦寺執行が辞任にまで追い込まれるという「事件」がありました。全日本仏教会は「暴力団排除」宣言を出しており、これとも抵触する行為であるとの指弾を受けたようです。
ま、全日仏などはアレな組織ですからあまり考慮しなくてもいいとして、暴力団と仏教の関係については、ちょっと真剣に考える必要があるかと思います。

でも、結論はもう出ていると思うんですけれどね。

釈尊はアングリマーラを排除したでしょうか。

これがすべてでしょう。

法事や葬儀を暴力団の示威に利用される場合ももちろんありますし、香典名目での資金調達の場にされる可能性も高いとは思います。しかしだからと言って、暴力団構成員であれば、問答無用に寺院の扉を閉ざし、仏法に触れる機会すらもなくしてしまうのが、仏教者として取るべき道であると、私には思えません。
せめて仏教界くらいは、世俗の機関と同じような「排除の論理」で動くのではなく、自らの宗教的役割をもっと自覚して、世俗的価値観を超えた「万人に仏性あり」との価値観で行動できないものでしょうか。暴力団構成員であれ誰であれ、仏の慈悲の対象からは絶対に漏れていないですし、万人はひとり残らず自性清浄な如来の法身なんですから。

そもそも檀家が組の構成員であれば、その葬儀や法事もしてはならないのでしょうか。一々警察にお伺いを立てて、市の条例のチェックをして、仮にそれらをクリアしなければ、仏法を説く対象から彼らを排除しなくてはならないのでしょうか。
それが私たちが説いている筈の「慈悲の心」なんでしょうか。

もちろん暴力団の示威行為に利用されたり、資金調達に利用されるのは避けるべきです。
しかしそれは知恵を出すべきでしょう。解決策はあるはずです(本山等で法事を大々的にするのではなく、個々に菩提寺がある筈ですから、そこで親族中心にして、地域の常識的な規模でやるようにする等…一例ですが…)。
その努力もせずに、排除してしまえばトラブルもなくて宜しい…というのであれば、それは仏教者としての責務を放棄しているとしか思えません。
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仏道の基本

2010年07月21日 | 仏教・思索
仏教の実践・生活で大切なことは、懺悔・誓戒・誓願。
戒・定・慧の三学で言えば、摂善法戒に「修」の項目があるものの、
基本的に懺悔・誓戒・誓願は戒学に属するものになる。

●懺悔 … まず第一に、自分の悪い行い・言葉・思いを振り返り、懺悔する。
   我昔所造諸悪業   私が昔から行ってきた様々な悪い行いは、
   皆由無始貪瞋痴   すべて始まりもない昔からの貪りと怒りと愚かさを原因として、
   従身語意之所生   身体と言葉と心によって積まれてきたものです。
   一切我今皆懺悔   それら全てを私は仏前で、今みな懺悔します。

●誓戒 … どのように生きるのか。まずは戒めをしっかりと守り、自分を律する。
 三聚浄戒=仏教徒の三つの戒め。
  1.摂律儀戒……悪を止める戒め。身三・口四・意三の十善戒。 
     不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。
     不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
     不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
     不妄語…嘘をつかない。
     不綺語…きれいごとを言わない。
     不悪口…悪口を言わない。
     不両舌…二枚舌を使わない。
     不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
     不瞋恚…怒らない。イライラしない。
     不邪見…仏教の教えを正しく学び、正しいものの見方をする。
  2.摂善法戒……善の行いをする戒め。正法・仏法を受持し学ぶ(聞・思・修)
  3.饒益有情戒…他者に尽くす戒め。四無量心(慈・悲・喜・捨)
         
●誓願 … ひとりの人間として、誓いを立てて必ず守ると誓う。
 ・総願…すべての仏教徒が持たなくてはならない願い。
    衆生無辺誓願度  衆生を誓って救います。
    煩悩無尽誓願断  尽きる事のない煩悩を断ち切ります。
    法門無量誓願学  膨大な仏法の教えをすべて学びます。
    仏道無上誓願成  清浄な仏性に目覚めて仏の自覚を得ます。
 ・別願…ひとりひとりが自覚して立てる願い。
    例:『勝鬘経』の三大願
       此の善根を以て一切の生に於て正法智を得ん。是を第一の大願と名く。
       我れ正法智を得已りて無厭心を以て衆生のために説かん。是を第二の大願と名く。
       我れ摂受正法に於いて身と命と財とを捨てて正法を護持せん。是を第三の大願と名く。
    例:『無量寿経』四十八願の第十八願 
       たとい我、仏を得んに、
       十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。
       もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
    例:伝教大師『願文』中の「心願」
       ・我れいまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた出仮せじ。
       ・いまだ理を照らす心を得ざるよりこのかた才芸あらじ。
       ・いまだ浄戒を具足することを得ざるよりこのかた檀主の法会に預からじ。
       ・いまだ般若の心を得ざるよりこのかた世間の人事の縁務に著かじ。相似の位を除く。
       ・三際の中間に修する所の功徳は独り己が身に受けず、
        あまねく有識に回施して、悉く皆無上菩提を得せしめん。
    例:宮澤賢治『農民芸術概論綱要』
       世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
       自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
       この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
       新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
       正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
       われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
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維摩の黙雷

2010年07月20日 | 仏教・思索
真理とは客観的なものかどうか。
仏教において、純客観というものは存在しない。無明妄念の生起の端緒に、主・客の分別が起こる以上、客観は妄念による概念であって、それは決して真理ではあり得ない。もちろん主観的なものでは、更にない。

記述する事。
それは言語である以上、事物・現象の客体化が必要であり、また言語自体が分別をその本質としているわけであるから、それによって真理自体を表す事は絶対にできない。その周縁をぐるぐる廻り、その影をカーテン越しにおぼろげに描く事…すら、実はおぼつかない。

では何故、それでも仏教は言葉を捨てないのか。

真如者亦無有相。謂言説之極、因言遣言。

言に因って、言を遣る…言葉によって言葉を超える…?
しかしそれは、キリスト教における神の記述と、どう違うのか。
言説の極限を、不完全な言葉で懸命に記述するとは、仏教の専売でもない。

おそらくそれは、不完全な言語でもって、いったい真理の何をどう語ろうとするのか、その部分に仏教の独自性があるのだと思う。
他の宗教、たとえばキリスト教は、絶対的な客観・つまり神を語ろうとしている。しかし仏教は、主客の彼方を指し示すに当たり、主客分離・分別を宿命とする言語によって、どちらかと言うと客観ではなくて主観の問題に焦点を当てている。
だから仏教においては、他の宗教におけるような、言説化された絶対的なドグマは成立し得ない。それは客観の絶対性・独存を前提にしなければ成立しないのだから。
仏教の経典がこれほど多様でありながら、しかしそれでも「仏教」と言うひとつの経糸によって繋がれているのは、そういうわけだ。主観の問題を、外堀を埋めていくことで暗示し、指し示し、「外堀の構図を理論化していく」。
外堀の埋め方には、色々な方法があり得る。

その後に来る「本丸」は…遣言。絶対の無分別。

さて。

などと「妄想」してみるにつけ、やはり仏教の基本は八宗兼学・諸経横断。セクト主義は仏教に馴染まないとの思いは更に募る。
真理は主客以前の彼方にあるのに、どうして無明妄念により分化した挙句に立ち現われる「客観」だけで真理を語れると思うのか、私にはわからない。どうせ言葉を使うなら、何かを語ろうとしている「あなた自身の主観」の問題の考察こそが、客観として目前している経典・言説を説くキーであることに気付くべきだ。なぜ主観というものを考慮せずに、あたかもキリスト教の神のような独存する純客観的な真理があると信じられるのだろうか。

主客未分の境地が言葉では記述できないのは不安定に思えるので、客観は妄念ではないと信じて、そこをスタート地点に設定してしまいたいと言う「常識的な思想」に仏教もいつしか巻き込まれてはいないだろうか。

もしそうならば、もはや仏教はそこにはない…。
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英語公用語化

2010年07月18日 | 閑話休題
ユニクロと楽天が、社内公用語を英語にするそうですね。
最近、ちょくちょくこのニュースを見ます。

私はこれ、ナンセンスだと思うんですけれどねー。

明治維新以降、富国強兵、大正民権運動から列強時代、戦後の高度経済成長に至るまで…果たして日本は、英語ができたから世界の舞台で主要なプレイヤーとして活躍できたのでしょうか。まったく違う筈です。
どうして日本が他のアジア各国と違い、高等教育機関レベルでさえ英語を使わなくても済んでいるのか、もう一度よく考えてみるべきでしょうね。

英語栄えて、文化・国家が滅ぶ。

本当の国際化とは、日本人が外国人になってしまうことではなくて、日本人が真に日本人であることでしか達成できないのに…。
日本は制度的にも、精神的にも、崩壊過程にあるのかも知れませんが、私は日本・日本文化の蓄積が好きですので、何とかこれ以上は沈まないように、この地で頑張りたいと思います。

もちろん英語にしろ何にしろ、出来るに越したことはないですけれどね。必要な人には。
私も必要だから、漢文も古文も多少は読みますし、サンスクリットや英語について調べることもあります。そういう意味で、外国語は必要なら必要な分だけはやるべきですが、どうせ話すべき内容もないのに、猫も杓子も「とにかく英語をやらなきゃ乗り遅れる」というのはあまりにも貧しい。もっとやるべきことはたくさんあるでしょう。
特にガキは英語だの株式教育だのの前に、ちゃんとした日本語と礼儀作法を学ぶべきだし。


因みに余談ですが、日本語は非論理的言語だからダメだ、という言葉をよく聞きます。
果たしてそうでしょうか。それは多分、その人が非論理的なだけであって、日本語の問題とは別のような気がします。
「日本語は主語が曖昧だ」という指摘にしても、果たして主語の有無が論理性の担保として絶対的に重要であるかどうか…第一、そういう批判は日本語が「主語・述語の構文ではなく、主題の提起と、その主題の記述による文構造である」という理解もなく、単に英語と違う、というだけで非論理的と言いたいだけの、非常に「非論理的な」理屈でしかないような気もしますし…。
いずれにしても、日本語で論理的に考えられない人は、英語でも本当の意味で論理的に考える事はできないでしょう。

日本語と論理については言いたい事が他にも色々ありますが、書くと長くなるのでやめときます。
が。
要は日本語の多様な表現方法を整理して読み解けば、そこは非常に論理的な構造があるのではないか…ということです。英語の方が形式的で単純な言語だから論理・筋道が見やすい「算数言語」というだけで、日本語はもうちょっと高等数学言語になるので、一見するとよくわからんのではなかろうか、ということ。簡単な算数しかできない人から見れば、非常に曖昧に見える。
それを読み解けないのは日本語の責任ではなくて、人間の側の問題です。
丁寧に筋道立てて読んで行けば、揺るぎない論理性が、そこにはあるはずです。


ま、私は言葉の専門家でもないし、実際の外国語運用能力もほとんどないので、上の文章は勝手な「信念」でしかないのですが、あながち間違った事を書いているとも思っていません。
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豪雨被害

2010年07月15日 | 閑話休題
昨年に引き続き、今年も全国で豪雨被害。
当初は南九州がひどい被害だったのですが、ここに来て全国に被害が拡大し、特に北部九州~中国地方がやられています。当寺も昨年と同じ部分が雨漏り、そして新規の場所でも雨漏り…若干の白アリ被害も確認しまして、ちょっとヤバいです。
早めに処置しなくてはなりませんが、総代会をしないと手が出せないので、今月下旬の開山忌で話し合いをして、出来れば8月上旬には手当したいものです。別棟倉庫の屋根がもう古くてダメなので、もしかしたらすべてやり換える可能性もあり、そうするとまた費用が…。
一番費用がかかりそうな倉庫の屋根は、ほとんど瓦の経年劣化ですから、保険も使えないでしょうし…毎年毎年こんなんじゃ「倒産」しそうです(泣
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罰ゲーム?

2010年07月12日 | 時事関連
冷ややかに「こんなに負けたら、お遍路行くべき」

いったい四国遍路を何だと心得ているのか。
ちゃんと信仰している人に対しても失礼。
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推薦図書

2010年07月10日 | 仏教・思索
仏教初心者の方から、たまに「良い本はありますか?」と聞かれます。
一般書店に並ぶ「仏教書」の半分は悪書で、残りの8割は毒にも薬にもならない無内容な本ですから、そのような質問も理由のないことではありません。書店に良書ばかりなら、端から読んでいけばいいだけですし。

今回は私がお薦めできる入門書を定番書のみ20冊、紹介します。
が。
人によって合う合わないもありますし、関心の方向によって読む本も変わるわけで、万人向けの「決定版」というものは多分、ありません。ので、あくまで参考程度、というくらいです。
少なくとも「トンデモ本」の類は紹介しませんので、内容については安心して読めるものだけをあげていますから、そこは安心してください。
初歩の方には、★印が特にお薦めですので、迷ったらこれから始めてください。


【総合】
渡辺照宏『仏教』岩波新書
渡辺照宏『仏教を知るために』大法輪閣
松尾剛次『仏教入門』岩波ジュニア新書
高崎直道『仏教入門』東京大学出版会 ★
水野弘元『仏教要語の基礎知識』春秋社
城福雅伸『【明解】仏教入門』春秋社

【仏教史】
渡辺照宏『日本の仏教』岩波新書
平川彰『インド・中国・日本 仏教通史』春秋社
水野弘元『経典はいかに伝わったか』佼成出版社
大正大学仏教学科『仏教とはなにか―その歴史を振り返る』大法輪閣
末木文美士『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』新潮文庫 ★

【教え】
渡辺照宏『お経の話』岩波新書
金岡秀友『仏典の読み方』大法輪閣 ★
友松円諦『法句経を読む』大法輪閣
諸橋精光『般若心経絵本』小学館 ★
大正大学仏教学科『仏教とはなにか―その思想を検証する』大法輪閣
横山紘一『仏教思想へのいざない』大法輪閣

【釈尊の伝記】
渡辺照宏『新釈尊伝』ちくま学芸文庫 ★
水野弘元『釈尊の生涯』春秋社
増谷文雄『阿含経典による仏教の根本聖典』大蔵出版


他にも色々、お薦めしたい本は多数ありますが、今回はあくまでも初心者向けということで、初歩的・全体的なものだけを掲げました。特定の宗派・学派に関するものや、テーマを狭く絞った専門書の類は一切、取り上げていません。
また、例えば岩波全書の『インド思想史』などは定番ですが、初心者の方に薦めるには記述が簡潔過ぎて却ってわかりにくかったり、初歩段階ではちょっと細か過ぎる部分もあったりします。
勿論こういう本や、もっとテーマを絞った専門書にも素晴らしいものが多いですから、いずれ読んでください。

今回上に挙げた入門書の数冊だけでもしっかり読み込んでいただければ、巷に溢れるいい加減な「トンデモ本」にひっかからい為の基本的な素養は身に着くかな、と思います。
是非時間のある時にでも、目を通してみてください。
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暴力

2010年07月08日 | 時事関連
SS代表、ベスーン被告の「除名」撤回 「法廷戦術にすぎない。彼の復帰を歓迎する」

ヤクザ顔負け、もうメチャクチャですね。
警察もテロリストの頭領であるポール・ワトソンをやっと国際指名手配したわけですが、こうも堂々と「再犯予告」する以上、少なくともピーター・ベスーンの執行猶予は取り消すべきではないでしょうか。
ピーター・ベスーンも釈放されれば日本批判を展開していずれ活動に復帰し、「現代のKKK」であるSSも彼を戻すなんて事はわかりきった事でしたけれど、実際に国外退去になる前に言い切ってしまうとは予想外の速さでした。

環境保護や、かわいいクジラ・イルカを守れとか、その主張は別にいいんですが、それをレイシズムや募金ビジネスの隠れ蓑にするのは人間として最悪です。環境保護を真剣に考えている人間が、海に劇薬をぶちまけるわけないでしょう。

だいたい、彼らのその言い草が明らさまに自文化中心・他文化蔑視、自己神格化の傲慢極まりない主張で、聞いてて呆れますし、これを支持する人(いわゆる「善人」ですが…だからより難しい)が欧米を中心にかなりの数に上ると知って、私は暗澹たる気持ちになります。
欧米キリスト教文化圏の人たちとの、本当の意味での対等な相互理解など、永遠に来ないのではないかと。英語帝国主義然り、常に「私たちが彼らに学び、近づき、出来れば憧れる」形が基本的には必要なようですが、これは果たして「相互理解」なのでしょうか。
この暗い絶望感は、教会にいた頃から感じていたのですが…。

もっとも、相互理解の場で自己中心的に相手に特定の価値観を押し付け、相手を理解するより先に自分たちの価値基準に適合させようという貧しいメンタリティーは、どの国や民族にも見られるものですけれど(たとえば仏教で言っても、特に南方上座部系の一部にその傾向を感じます)、現代では世界の欧米化が著しいために、とりわけ彼らの言動が無意識の暴力と化してしまっています。
これは、殴られているほうも気付かない暴力、です。だから恐ろしい。

まぁ、SSの場合は確信犯的なところがあるようにも思えますけれども。
おまけに直接の暴力も使うし。
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