प्रज्ञापारमिता

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W杯と朴容夏

2010年06月30日 | 時事関連
サッカーのワールドカップ、日本は残念ながらベスト16止まりでしたけれど、全体を通じて大健闘だったと思います。戦前の予想は最悪でしたが、選手はそれを撥ね返すだけの強さを持っていた、ということなんでしょう。

で、今回はサッカー自体のことではなくて、ネットの話です。

決勝トーナメントのパラグアイ戦はPK勝負。三人目の駒野選手が外して負けたわけですけれど、彼に対してネット上の一部(…2chですが)では「戦犯」だの「クズ」だのという中傷・暴言が匿名の人間によってなされています。
これが、必死の努力をして来た人間に対して言う言葉でしょうか。まったく残念です。匿名で安全地帯にいながらそういう言葉を吐く卑怯な輩は、きっと何かを成し遂げたいと思う気持ちすら理解できないのだろうなと、やるせない気持ちになります。
反倫理的行為・犯罪行為をしたわけでもないし、懸命に努力して失敗した人間は、称えられこそすれ、罵倒される謂れはまったくありません。
あと、「朝ズバ」とかいう番組で、駒野選手の親に無神経なインタビューして謝罪の言葉を引き出させた、という情報もあります。私は見ていないのですが、こういう下品な放送はよくありますので、きっと私の想像通りのものだったのでしょう。

また、今日、韓国の俳優の朴容夏(パク・ヨンハ)が自殺しました。
ネット上では、ここに引用するのに憚られるような言葉で中傷がなされています。確かに韓国の歴史問題や領土問題などに関する勝手な主張や執拗な国家的ストーカーまがいの行為に対するフラストレーションがあるのも事実でしょう。
ですがそのことと、この俳優と何の関係があるのですか。彼にも竹島等について政治的な発言が過去にあったらしいですが、どのような考えを述べるかは自由であり、それをもって差別的表現でネット上で罵倒していいだなんて、そんな理屈は金輪際成立しません。
そんな「言論」が愛国心なのだとすれば、そんなもんクソ喰らえ、です。
死んだ人間に鞭打つ行為は、彼らが忌み嫌う「第三国」儒教文化圏の特徴ではなかったでしょうか?
批判なら論理的になされるべきであり、自らに理があると信ずるのなら、中傷的表現はまったく必要ないはずです。大声で議論を潰すのは、常に自らに理・大義のない側の行為です。

久々に巨大掲示板サイトを覗いてみたのですが、暗澹たる気持ちです。
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水のこころ

2010年06月20日 | 仏教・思索
日蓮聖人の御遺文である『上野殿御返事』に、

今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。

という言葉があります。
もちろん日蓮聖人の言わんとするところは「法華経の信心」のことですので、私が今から言う事と違うと言えば違うのですが、一般論としての「信じる」ということに関して、この言葉は非常に大切なことを述べていると思います。

私はご存知の通り(?)、福音派の元クリスチャンです。
クリスチャンとしては20代の前半数年間の信仰生活でしたけれど、今にして思い起こせばまさに「火の如き信仰」で、短期間に燃え上がり・一気に燃え尽きました(笑
それこそ毎日毎日聖書を読み祈り、日曜礼拝はもちろん水曜聖研にも出席し…恐らく当時の私は精神的危機にありましたので、無意識のうちにその穴埋めをイエス・キリスト、或は教会自体に求めていたのかも知れません。
私の体験を一般化して語る事は危険ですが、「火のような信仰」は往々にして、「人間的な弱さを外部的な何物かで埋め合わせようとする行為」と同一の心根ではないかと、そう思います。その弱さの闇が深く濃いほどに、益々「埋め合わせの火」は燃え盛る…。キリスト教という宗教自体にその傾向が無きにしも非ず・と思うのですが、やはりそれは非常に人間のある種の琴線に触れる部分なのかも知れません。だから私は火のような信仰を否定はしませんし、火を燃やし続けることで、まったく異次元の境地に達する方々もいる筈だとは思います(諸聖人の燃えるような純粋の信仰!)。

しかし今、私は仏教に対して、燃え盛る熱情によって信仰する…という気持ちにはなっていません(し、その必要も感じません)。クリスチャンだった昔よりももっと、目線が下向きです。
それは天に向かって上昇していく絢爛たる救いの喜び…ではなく、深い海に潜り、徐々に深い青に包まれていく静寂との全的一致のようで…その方向にこそ、私は寄る辺を求めたいと、心からそう思います。その深い海につながる、細い細い川の途上に私はいますけれど、いずれ海に達し・潜っていくことで、海も川も「私」も、本来一致した不可分の全体であったのだと、それを覚せる確信だけを、静かに・静かに持って、この世界を渡って行きたいと思います。

思えば、キリスト教で粉飾される以前の素のイエス・キリストも、実は静かな水の人であったのではないかと、そう私は感じることがあります。
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文語と口語

2010年06月16日 | 閑話休題
前回の記事で、

>わずか100年前の通俗小説ですらほとんど読めなくするような、日本語敵視・伝統継承無視の国語教育政策による云々

と書いたのですが、100年前というのは大体、文学も新聞も軒並み文語文から口語文に変わってしまった時代で、リズムと格調のある文語日本語文が消滅し、(とりわけ文末が)べったりだらだらした口語日本語文だけが通用するようになりました。
おかげでそれ以前の文章語であった文語文・和漢混交文は現在、書くのはもちろん読むことすら出来なくなりつつあります。これは古典からの断絶を意味し、文化伝統の継承が出来なくなる事を意味します。
とりわけ戦後の当用漢字政策によりそれは一層加速されるに至り、今の日本人にとって、文語文あるいは明治以前の精神文化は、恐らく欧米諸国のそれよりも遠い存在になりつつあるるように感じます。『源氏物語』はおろか、樋口一葉や泉鏡花辺りの作品も恐らく、ほとんどの人は既に読めないのが現実だと思います。

さて。
まだギリギリ文語の時代・明治36年、一高の藤村操が日光の華厳の滝で自死したのは有名ですが、その時の言葉を本記事の最後に記します。彼は十六歳だったのですが、果たしてこの文語文をきちんと読める高校生がどれだけいるでしょうか。
まして遺書としてこれだけの文章を書ける現代人がどれだけいるでしょう(もちろん私も書けません)。この文章を口語体で書いてもマヌケです。
言文一致も良いですが、文章語である文語調というものをもっと見直して、現代口語文にある程度フィードバックさせて、日本語文を多少なり洗練させていく必要があるのではないかと思います。
私の場合は高校時代に古典文学をそれなりに読む機会には恵まれたので、本居宣長前後の江戸古文や和漢混淆文くらいなら多少は何とか読めます(内容にもよりますが)。やはり学校教育というのもバカには出来ないので、古典教育・明治文語文の読解というものをもっと時間をかけて教えていって欲しいなぁ…と、切に願うものです(ただあまり文法偏重だとツマラナイですから、文法はそれなりに、基本どんどん読んでいく方向のカリキュラムになって欲しいですね)。

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす、ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチイを価するものぞ、万有の真相は唯一言にして悉す、曰く、不可解。我この恨を懐きて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
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目先のカネ

2010年06月14日 | 時事関連
はやぶさ、後継機の予算3000万に縮小…着手できず

17億円から3000万円減額したのかと思ったら、17億円を3000万円まで削減したんですね。凄まじい。
科学技術立国、とかいうスローガンは何処へ…。

確かに財政難はわかるんですが、こういう分野を経済効率優先で軽視していくと、科学に夢を持つ子供も減り、ますます科学技術の裾野は崩壊するだけだと思うんですが。
自然科学、それにも増して人文科学などは、経済第一主義で考えたら無駄なものがおおいのかも知れませんが、それを追求するあまり文化四流国家に転落して日本の背骨は溶けてしまい、或は古き伝統の街並みを端から効率主義で破壊し尽くし…等々の愚挙に「痛み」はまったく感じないのでしょうか。…政治家も国民も、恐らくあまり感じていないんでしょうね。

わずか100年前の通俗小説ですらほとんど読めなくするような、日本語敵視・伝統継承無視の国語教育政策による、日本人の精神的無内容化が根本の問題だと思うのですが、今の日本は、政治も国民も(もちろん全員でないにせよ)、あまりに目先のことだけですべてが動く社会になり過ぎのように思います。
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仏教と道徳

2010年06月07日 | 仏教・思索
・質問

仏教は人生訓や道徳とどう違いますか?

・答え

人生訓や道徳というのは、基本的には「この世界は確固とした秩序のもとに実在している」ことを前提に組み上げられた、社会的関係を円滑に進めていくための技術あるいは心の持ち方、ということなんだと思います。
たとえば道徳的な意味での「善悪」にしても、何らかの普遍的(と設定・盲信された)基準を立てて、それによって行為思考の善悪を判定して振り分けていく、ということなんではないでしょうか。
それら様々な基準に拠って成立する世界体系の中で、我々がどう「善く生きるか」ということが道徳であり、それをスローガンにしたら人生訓となるのでしょう。
しかしそれは結局、時代・民族・文化・世俗的イデオロギーによって相違していく不完全なものです。

仏教というのは、そもそもその「実在する世界」というものを認めません。「普遍的」道徳というものも「仮立」であり「幻想」であり、あくまでも仮の世界を渡るための仮初の暫定的概念でしかない、ということです。

実在としてこの世界も私もない、しかし現象としては取り敢えずある。

この事態はいったい如何なることなのか、「しっかりとした実在」を想定(妄想)してしまい、皮肉にもそれによって引き起こされる終わりなき概念の相克の内に生きるのではなく、実在性のない世界を実在性のない自分が生きるとはどういう事なのか、それを体全体・宇宙全体で目覚めていく道…これが仏教です。
ですから仏教はスローガンでもなく、理論ですらありません。その極点においては言語的概念などというものはあり得ないからです。歩き、そして「それになる(否、それである)」ことだけです。

先覚者である釈尊以来の先徳たちは、その道こそは智慧であり、慈悲である、と言っています。先覚者達の示されたこの指針を(ドグマとして盲信するのではなく、常に様々な方法で確認しながら)法の灯として、ア・プリオリに前提された世界の中で道徳的に生きるのではなく、世界自体として非実在的に生きる道をこそ求め歩むのが、仏教なのです。

恐らくその究極の地平に至れば、もはや「そこ」も「ここ」もなく、「実在」も「非実在」もない、永遠の真如だけが絶対的に「ある(…とも表現できませんが…)」、そして「私」と「真如」の絶対的同一だけが認識なき認識のうちに……

嗚呼…言語道断…。

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衆愚政治

2010年06月06日 | 時事関連
菅直人総理になり、内閣支持率・民主党支持率が爆上げだそうです。

私は個人的に菅直人という政治家をまったく信用していないのですが、それは脇に置いておくとしても、この有権者の支持行動はあまりにも軽薄ではないでしょうか。
小泉、安倍、ふ…はまぁともかく、麻生、そして鳩山、菅。
就任直後に支持率がアホみたいに上がり、半年もすれば尻すぼみ…という光景、どれだけ繰り返すのでしょう。マスコミの垂れ流すイメージによって数十パーセント単位で支持率が上下し、真っ当な政策ではなくて朝三暮四的政策やフィーリングで支持するかしないかを決める…これを衆愚政治と言わずして何をそう呼ぶべきか…。
どうせ菅政権も夏頃には支持率爆下げだと思います。

政治家がダメだダメだと言いますが、それを選択するのは国民です。国民のレベルが低いと、政治家も当選するためにそのレベルまで堕落します。耳当たりのいい理想論だけが跋扈し、政治に対しては期待と失望の連鎖だけになり、気付いたらすべてが機能不全に陥るのみ、でしょう。
別に民主支持でも自民支持でも共産支持でも構わないのですが、要は「理想を見失わない中でも」現実に立脚した建設的かつ中長期的視点に立った政策論争によって、我々は支持不支持を考えるべきです。

私は無条件の普通選挙制には反対の立場ですが、残念ながら現実にはそういう制度なわけですので、なるべく傷口を広げないように、もうちょっと国民も賢くならなきゃいけませんよね。
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