प्रज्ञापारमिता

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台湾の心経

2010年05月27日 | 仏教・思索
台湾の仏生会での般若心経。
日本とはまったく違った感じで、まるで声明のような読経ですが、一音一拍なので唱和できます。日本でもこういう感じの読経、できないでしょうかねぇ。「雨だれ」にももちろん良さがあるのですが…。

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動物の盾?

2010年05月26日 | 時事関連
「ノアの箱船」は北朝鮮へ ジンバブエが希少動物移送計画

「協力関係の拡大」…だなんて、そんな長閑な意味合いではないでしょう。

しかしまぁ、北朝鮮も色々と考えますな。
外交下手なのか上手いのか…でも、「策士、策に溺れる」という諺(?)もありますね。

いずれにしても戦争は避けるよう事態が推移することを祈りますが、北朝鮮の無法ぶりにはいい加減、隣国国民としてはウンザリしてしまいます。早いところ金王朝独裁体制が崩壊して、北朝鮮国民にももうちょっと自由と民主のバランスが取れた(…自由と民主はその極点においては両立不可能な概念ですから…)、ちっとは安定した生活が訪れますように。
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2010年05月23日 | 仏教・思索
この世は橋である。だから渡っていきなさい。そこに家など建ててはならない。

インドのデリー郊外にあるアクバル大帝の旧都、ファティープル・シークリーに碑文があり、上記の言葉が刻まれているそうです。私も一度、そこを訪れたことがあるのですが、この碑文の事をその時はすっかり忘れていて、きちんと確認するのを忘れていましたが…。

家というのは、もちろん比喩的な表現です。

いったい家とは何か。

恐らくそれは、執着・未練…渇愛・無明によって作り出される、この世の諸々のこと。お金やステイタスはもちろん、愛する人やこの世の「生き甲斐」があるのは勿論良いし必要なことだけれど、それを永遠のものと思ったり(或はいずれ消えていくという事実から目を逸らしたり)、それを失ってしまった後もその幻影にしがみついていくこと。

橋を渡るときは懸命に渡らねばならないでしょう。そうでないと、落っこちます。この橋は恐らく、手摺や安全装置がついていない。だから彼岸に渡るまでは、一心に渡らなくてはならない。
そこに立ち止まり、家を建てるとたちまち橋ごと崩れていく。

人はこの橋をそそくさと渡って行くしかない。橋の終りは靄がかかって見えず、長さは渡っているうちはわからない。ある日突然、人は最期の一歩を踏み出しているのです。

でもこの橋は、別に目を伏せて渡る必要はありません。どこで終るか見当がつかなくとも、橋を渡っている束の間、この橋から見渡せる素晴らしい景色を、私は心に刻んでいたいと思います。
釈尊が最期の旅に出立する時、ヴェーサーリーを振り返って呟いたように…。

アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい。ゴータマカ霊樹は楽しい。サッタンバカ霊樹は楽しい。バフプッタ霊樹は楽しい。サーランダダ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい。
世界は美しいもので、人間の生命は甘美なものだ。
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自分探し

2010年05月22日 | 仏教・思索
・質問

「自分探し」というのがありますが、自分は自分ですよね。
では一体、何を探すのですか?

・答え

本当の自分を探すのだ…という、「自分探しの旅」が流行っているそうです。
引退した有名サッカー選手も金にモノを言わせて世界中を放浪し、「自分探し」をしているようですが…果たして見つかる兆候はあるのでしょうか。途中経過を聞いてみたいものです。

さて。

「自分じゃないもの」はすべて、「自分自身の片割れ」です。
世界は本来、「我・彼」を超越した「唯一の存在者」でしかないのですが、人間はそういう世界の本質をダイレクトに理解できないように出来ていますので、仕方なくその「一」なる世界を「我・彼」に分割してから、認識しようとしています。
たとえば、「自分」というのは主観です。その「自分」が考える「対象」はすべて客観ですが、「自分は…」と考えた瞬間から、その「自分」は客観に転じていますね。目は自分の目を見る事が出来ません。認識された世界はすべて客観だけで組み立てられています。
「自分」ですら「自分でないもの」に過ぎないのですが、それを見ている・分析・認識している「見えない自分」というものがあります。これこそが主観です。

で、この主観と客観が分裂する以前の地点に、本当の世界というものがあります。

まず、こんな「見えない自分」を発見するのに、どういう方法があるでしょうか。そしてそもそも「見えない自分」すらも、本当の一なる世界に耐え切れずに「夢想・妄想」の中に逃げ出し迷い出た妄想の起点でしかないとすれば…。

自分探し。

いったい人は、何を探しているのでしょう。
この問題は、どう扱い、どう考えたら良いのでしょうか。

なかなか面白い問題ですから、一生かけて考えてみてください。その「考えている自分」とは何なのかを「意識」しながら…。
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火宅

2010年05月21日 | 仏教・思索
お坊さんがバーテンダーに 札幌で「クラブ阿弥陀」

カクテルライトと音楽とアルコールで燃える寺…ですか。
アルコールはよく燃えそうです。

宗派の名指しで悪いですが、浄土真宗系の坊さんって、たまにこういう見当違いのことをしますね。無論、真宗系は坊さん人口が多いので割合に目につくし、人数に見合って色々な手合いがいるのは当然でしょうけれど…でもちょっと、「軽さ」が目立つ。悪い意味で。
こういうのって、世間からは却ってバカにされることに気付かないんでしょうか。「法」を下げる危険性の認識もないんでしょうかね。一部の「面白がり」は煽るかも知れませんが、結果としては…。

少なくとも個人的には、好き好んで火宅に飛び込む趣味はありませんので、近くでこういうイベントがあっても、恐らく私は行かないでしょう。中途半端にガチャガチャした場所では意識が外界に繋縛されて呆けてしまいますから。
仏教絡みのイベントでそうなってたら、それこそ冗談にもなりません。
半端じゃなくて突き抜けてしまえば、また別なんでしょうけれどね(笑

あと、布教という点で言っても、こんなイベントが「根っこのある」信心に繋がっていくとは思えません。少なくとも、非常に効率が悪いでしょう。ストレートに檀務・説法・相談窓口の幅を広げていった方が良いと思うんですが。たとえば「南無の会」方式じゃ地味でダメなんですかね。


まぁ…私は恐らく保守的でつまらん奴なんでしょう。
流行の方法論にもついていけず、十年一日の如く単調な日々を愛する阿呆。

ま、そういう坊さんもいるということです。
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トモダチ

2010年05月13日 | 時事関連
中3女子生徒が自殺か「友達ができない」

友達なんかいなくったって、それであなたの人間性がダメであることにはならないのに。
でも、寂しかったのだろうね。私もほとんど友達がいないし、特に小3から中学卒業まで7年間は絶えずイジメの標的であり続けたから、あなたの悲しみも少しわかる気がする。

ただ…友達なんていなくても、「私」は宇宙のすべてを包み込む存在者にほかならない。そのことに早く、気付いて欲しかった。
「私」は宇宙すべてを包み込んでいるのだと自覚した時、その時に分断されていた「自分」が全体の中に昇華される。勿論それは巨大な孤独なんかではない。孤独と言うのは、ひとりでいることをいうのではなくて、「切り離されている」ことを言うのだから。

すべてが「一」であると「覚った」時、そこには自も他もなく…孤独も分断も繋がりもなく、すべてが自己であり、すべてがあなたであり、すべてが光だ。全き光だ。
どれだけ孤独に苛まれていようと、その光は必ずあなたの心に埋もれている。その光はあなたから延びて行き、同時に万象から延びゆく光とも絡み合いひとつになり、遂に世界に孤独ということはなくなる。

否、光は原初よりひとつでしかあり得なかった。

あなたは「死んだ」けれど、光は不生不滅なのだ。恐らくあなたは今も光を抱えて握りしめ、それを延ばそうとしてはいない。つまり未だ分断された存在者であり続けているだろう。
でもその握りしめている光は、実は握りしめているあなた自身であったと気付いて欲しい。
あなたは孤独なのではない、孤独だと妄想しているだけだ。

人は誰でも気付いた時には分断された者としてこの世に存在している。いずれにしてもそこから始めるしかない。孤独でない者はひとりもいないのだから、その事実に絶望するのではなく、世界の本当・存在の本当を突き詰める機会にして欲しかった。
死んでしまったとしても、まだ遅いわけではない。周りの人間の生活感情にとってはもう手遅れだけれど、あなた自身にとってはまだ何も終っていないし、始まってもいない。


あなたの業の輪廻が尽きて機縁が熟し、仏光に浴し、迷いの世界を離れることが出来ますように。
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モーツァルト効果?

2010年05月12日 | 時事関連
モーツァルト聴いても頭は良くならない!?「地元」ウィーン大発表

そんな都市伝説を本気で信じてる人も困ったものだけれど、それを真面目に調査するウィーン大学も暇だなぁ。どう考えても、モーツァルト聴くだけで頭良くなるわけないじゃん。
大体、クラシック聴くのに「頭を良くしなくちゃ」なんて考えて、それだけを目的にして聴くなんて、それは結構「貧しい」態度だと思うんですが。頭の良し悪し以前に、その感性をこそ恥ずかしいと自覚すべきだと私は思います、はい。


…とは言え…


頭が良くなる音楽が本当にあると証明されれば、私もこっそり聴くかも知れませんが…(笑
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如来蔵思想

2010年05月11日 | 仏教・思索
『勝鬘経』という経典があります。
勝鬘夫人という在家の女性が主人公のため、古来より「在家主義」「女性重視」の経典として一部では持て囃された経典で、日本においては聖徳太子が『勝鬘経義疏』を著したことでも知られています(もっともこれは純然たる太子の自著というより、敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と七割が同文という点からも、渡来した注釈書に「編注」を施しつつ太子の見解を入れ込んだ…と言うべきかもしれません)。

ともあれ、『勝鬘経』は『維摩経』と並んで、大乗仏教における「在家主義」を宣揚したものとして認識されていました。
無論そのこと自体は特段に間違った認識とは言えないのですが、『勝鬘経』にはもうひとつ重要な側面があります。それは、「如来蔵思想の根本経典」という性格です。
如来蔵思想とは何ぞや…という事についてはこちらを参照していただくとして、『勝鬘経』は大乗仏教思想における「中観派」「唯識派」に続く第三の立場たる「如来蔵思想」を代表する経典であることが看過されがちです。
この思想は「中観派」「唯識派」とは違い、特定の学派によって形成・維持されたわけではなく、大乗仏教全体としての一潮流として存在したために、ともすれば脇役・あるいは異端のような扱いを受けてきました。

しかし、東アジア仏教はこの思想を抜きにして考えることはできませんし、インド大乗仏教においても決して小さな思想運動ではありませんでした。私は大乗仏教思想の、少なくとも根本的な思想を構成するものとして、この如来蔵思想をもっと正当に評価すべきではないかと考えています。
それは、この如来蔵思想は私たちにとって決定的な福音になり得るし、もちろん仏教の本質・世界の真実を的確に捉えていると信じるからです。
もちろん天台本覚論における修行無用論などのように、誤った方向に流れていく危険性も孕んでいますが、それは如来蔵思想の罪ではなく、この思想を捉えそこなった者の責任です。そのような危険性はどの立場にでも起こり得るものでしょう。

現代社会は全体的には如来蔵思想的な思考と親和性がある時代になってきたと思うのですが、あまり如来蔵思想そのものを宣揚する動きはありません。日本では仏教各宗派の思想に既に昇華されていると言えばそれまでですが…。
しかしいずれにせよ、如来蔵思想やその代表的な経典である『勝鬘経』は、もっと一般に紹介されて然るべきものと思います。これを決定的な福音として受け止める人も少なからずいる筈ですから。如来蔵思想には、これを現代に復活させていく、それだけの価値がきっとあります。
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坊さんの役割

2010年05月07日 | 仏教・思索
坊さんの役割って何だろうか?

仏教を学び・実践し・それを伝える。まぁまずこれが基本。
ただ、その「基本」はあくまでも「能書き」でしかなくて、問題は何をどう学び、どう実践して、どう伝えるのか…という、具体的な部分なんだろうと思う。
とりわけ「実践」という局面において、その難しさは露呈するわけで。

読経ひとつにしても、きちんと意味を理解して、その経典の教えを眼前に展開してリアルに心に刻みながら読経しているのか、ただ単に意味もわからず朗読しているだけなのか、見た目じゃハッキリわかんないけれど、確かにそれは「仏道実践」としては雲泥の差であって、このことは読経に限らず、あらゆる場面で同じことが言えるのだと思う。
仏道の核心的行為を、形式だけではなくて中身まできちんと「実践」していった上で、なおかつ具体的な社会事業を「実践」して行ければそれはそれで立派なことだと思うのだけれど、前者を恰好だけ「こなして」、「見え易い」社会的実践に注力するのだとすれば、それは一般人としては立派な人であるけれど、坊さんである意味はほとんどないのではないかと、そう思う。

例えば、水不足の地域に井戸を掘るのはとても大切な行為だけれど、医者が患者を放置してまで井戸掘りに邁進するのは、それは人としては悪い行為ではなくても、医者としては「オメェにはもっと違う役割があるだろう」というのと同じことで…。
患者を十全に治療しながら余暇に井戸掘りするならいいし、井戸掘りをする人の健康を護る役割を医者として果たすのであれば、それは重要かつ本質的な仕事ではあるのですが、自らスコップを持って井戸を掘ることに没頭しては本末転倒。
でも多分、ほとんどの凡人には、それは難しい。自分の役割・使命を「十全に」果たすだけでも、それは極めて困難な仕事の筈だ。私など十全どころか、仏教の上澄みのほんの一部を撫でるだけでも手に余るくらいの大仕事だと痛感せざるを得ない。

坊さんの実践って、何だろうか。
仏教を地道に学び・地味に実践し・コツコツ伝えていく行為(伝道し、対話し、相談相手になり…)は、「見え易い」社会事業と比べて無意味なことなんだろうか。だとしたら、寺なんかすべて潰して、悉く社会団体にでも寄付したほうがいいんじゃないの…?

現代の坊さん、あまりにも自分の本来的な役割を忘却してやしませんか?
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