प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

暫時休止

2010年03月24日 | 閑話休題
年度末、寺の行事(土砂加持)・妻の尼僧学院への入行準備・その留守中には母が大阪から出てきますので、その為の受け入れ準備…等々が立て込んでおりますので、暫く記事のアップをしないと思います。
別に書けないほど忙しいわけではないのですが、まぁ、落ち着いて何かを書くような感じでもないですし…。

四月中旬くらいには落ち着いてくると思います。
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2010年03月10日 | 閑話休題
雪が積もっています。

私は山口に来て2年と少し、まだ3回目の冬ですが、今年は雪が積もることが多いように感じます。全体としては暖かい冬だったのかな…という印象なんですけれど、突発的に寒い日が何度かありましたね。
たまには雪が降るのもいいんですが、もう3月中旬ですし、出来たらもう少し緩めの雪が良かったなぁ。こんなに本格的に降らんでも(汗

そういうワケで、慌てて灯油をストーブに補充しました。
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捕鯨問題ふたたび

2010年03月08日 | 時事関連
そろそろSS船長が日本に「連行」されて来ますね。

起訴するか国外追放か、日本の司法判断が注目されますが、いずれにしても寄付ビジネスの宣伝に利用されることは間違いないでしょう。折も折、和歌山県太地町のイルカ漁を偏見まみれの盗撮行為でドキュメントした映画がオスカーを取ったそうですし、SSの集金活動にとっても誠に慶賀なことと思われます。

そう言えば、日本にやってくる船長さんですが、調査船内で出される肉魚料理は毎回ペロリと食していらっしゃるそうです。ま、カンガルーを年間何万頭も捕殺するオーストラリア政府や、鶏をベルトコンベアで流しながら次々に「不良品」を生きたままミキサーにかけるアメリカ企業に対しては不感症なだけあって(これはSSに限らない意識かも知れないですが)、肉や魚を食らうのに何も抵抗感がないのでしょう。もっとも、SSの代表者は菜食主義と自称していますけれど…。

私は以前より、この捕鯨問題については人種的偏見や宗教的偏見の押し付けが甚だしいと感じています。所謂エスノセントリズム、自文化中心主義的主張を「博愛」「人権」「自然保護」などというオブラートに包んで相手を攻撃するというのは、まぁ、時代に拠って対象や用語は相違すれど、ある意味では宗教や民族の自己弁護における様式美でもあるんですけれどね。

マグロはまた別の問題ですけれど、仮に養殖マグロの取引までダメとか言い始めたとすれば、これは捕鯨問題と一緒くたになって来ますよね。

さて。
捕鯨問題が宗教問題を含むものだという根拠のひとつを最後に挙げておきます。意識しようとすまいと、こういう宗教伝統は、そこに属する者の深層で血肉となっているものです。日本人だってもちろんのことです。
「鯨やイルカは頭がいいから」とかいうナチス優生論的な理由で、彼らが鯨の保護を主張しているわけではないことを、私たちは知っておくべきでしょう。

旧約聖書・レビ記11章

『主はモーセとアロンにこう仰せになった。
イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。
従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。
岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。
野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。
いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。
これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものは、海のものでも、川のものでもすべて食べてよい。
しかしひれやうろこのないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるものでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。
これらは汚らわしいものであり、その肉を食べてはならない。
死骸は汚らわしいものとして扱え。
水の中にいてひれやうろこのないものは、すべて汚らわしいものである
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死語の将来

2010年03月05日 | 閑話休題
現代人にとって漢文とは何か、日本式漢文、韓国やベトナムの状況、訓読と音読、北京語音読の危険性、漢文の将来的可能性…等々について、非常に面白くて参考になる文章を発見しました。
筆者はジャン・ノエル・ロベール(フランス・パリ国立高等研究院教授)という方です。残念ながら私はこの方をまったく存じ上げないのですが、書かれてある内容は非常に示唆的でした。

二十一世紀の漢文-死語の将来-

かなり長い論考ですが、一読の価値はあります。
漢文を北京語で音読するのは当然であり、訓読法は意味のない歴史的遺物である…という昨今の無暗矢鱈な「中国中心主義」的風潮に一石を投じ、日本文化ひいては東亜文化共通の上位言語ツールとして漢文をどう活かすべきか、この論考はしっかりと考えるヒントを与えてくれるでしょう。
少なくとも、従来のイデオロギー的な立場での北京語推進派と訓読擁護派の不毛な論争とはまったく違う、真摯な考察がここにはあります。
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文言維基大典

2010年03月01日 | 閑話休題
文言(漢文)のwikipediaがあるんですね。知らなかった。

文言維基大典

文言の面白いところは、各国それぞれが現地の発音でこれを読みつつ、文章としてはまったく共通の形を取っている、というところでしょう。日本の場合はこれに「訓読」が追加されますが(昔は朝鮮半島でも訓読に類したものがあったようです)、いわゆる「中国語」をまったく知らなくても、文によって意思疎通できるというのは表意文字の面目躍如、表音文字圏の人間には理解不能な事態かも知れません。
最近は「中国語(北京普通話)発音で漢文を読め」などという意見も散見されますが、純然たる文章語としての文言、という観点で言うなれば、あまりそれにこだわる必要はないと思われます。むしろ発音は各個別々でありながら意思疎通できるということは、漢字文化圏の人間としてはかなり容易に「共通文章語」を獲得できる可能性があるという点で、現代の中国語発音にこだわるのは弊害の方が多いとも言えないでしょうか。
文言はひとり中国の文化ではなく、東アジア漢字文化圏共通の「文」の文化ですし。

文言文化を東アジア圏で復興していけば、特にネット時代において、新しい交流や文化形成の可能性が出てくる可能性はないでしょうか。「文言維基大典」も、日本人・中国人・台湾人・ベトナム人・韓国人などが執筆に参加しているようですし、面白いと思うんですけれどね。
そうなれば、高校での漢文学習なんかももっと盛況になるのでは…なにしろ、英語や中国語をマスターする数分の一の労力でいいわけですから。
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