प्रज्ञापारमिता

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未来を写す

2009年11月29日 | 閑話休題
映画 【未来を写した子どもたち】

インド・カルカッタの売春街に生まれ育った子供たちのドキュメントを見ました。

女性カメラマンがその街に住み、彼らに写真を教えていくのですが、彼らの撮った写真が欧米の展覧会で話題を呼び、子供たちの人生に色々な影響を与えていきます。
よくある慈善事業にありがちな胡散臭さもあまり感じられない映画で、個人的には良い映画だったと思います。

もちろん何人かを学校に行かせ、才能あるひとりはニューヨーク大学に行けるまで支援したところで、確かに売春街の現状は何も変わらないだろうし、もっと悲惨な子供たちだっていくらでもいるでしょう。
しかし、何もせずそう評論する事は簡単なことですが、実際に誰であれ手を差し伸べて何かを成し遂げることは難しいことです。ひとりの写真家が、目の前に現れた状況に自分なりに精一杯対処してそれを「した」ということは、それだけで菩薩行と言えるのではないでしょうか。

私もややもすれば無責任なことを安全地帯で「評論」するだけで、何か「正しいことをしたつもり」になってしまいますが、大切なことは「動くこと」だと再認識しました。
もちろん対症療法的なところに留まっていてはなりませんし、仏教者として、本当の意味での「苦からの解放」は一真如を覚することでしかあり得ないと確信しますけれど、現実の苦しみがあまりに深い時は、まずはそれを除くべく動かなくてはならないでしょう。
前回の記事でも書きましたが、悪夢も良夢もどちらも夢であることに変わりはありませんが、しかし悪夢のままではその人は「これは夢だ」と認識する余裕も出て来ないでしょう。まずは悪夢をすこしでも良い夢にすることで、本当の目覚めも期することが出来る…のだと思います。

さて、世界には色々な悲惨なことがあります。日本にも、あります。私たちの身近にもあるでしょう。目立つ悲劇もあれば、目立たない悲惨もあるはずです。
人間だけではなく、動物・植物・環境・地球…傷は至る所にあります。
それらをどう認知して、どう対処するか、それは各人それぞれのやり方があると思いますし、正解というものもないと思います。

私はこの妄念所造の美しき世界で、いったい何ができるのでしょう。
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覚醒

2009年11月26日 | 仏教・思索
一般的に言うところの「私」とは、たとえば過去から現在までの鏡に映った諸々の事象の集積物のことでしかありません。人はこの映じたものとその記憶をルーティンに組み上げて「私」を構想し、それを如何に「素晴らしく」するかに精を出しています。物が映る以前の「鏡自体」を意識することはほとんどありませんし、意識したとしても、それはどこかに別の「鏡」を妄想・措定して、積み上げた集積物のひとつとして「認識」しようとするだけでしょう。

もっとも、「鏡自体」を「認識」することなど出来ない相談ではあるのですが。

何しろ、「認識」しようとする「本来のあなた」こそが「鏡自体」であって、常識的に「対象として認識」するには、その「鏡に映った何か」を見るしかないからです。
しかし、「自分自身は鏡自体であり、映ったものはすべて妄念であったのだ」と知らない限り苦の輪廻は終わりませんし、本質的にこの人生で大切なことは、これを「覚」すること「だけ」です。

例えば具体的な人生の苦を一々解決することも大切ですが、それは悪夢を見ている人に対して、その悪夢を多少なりともいい夢に変えていくようなものです。それだけであれば、本質的には大した意味がありません。
もちろん悪夢よりはそのほうがマシでしょうし、私も何も社会福祉や事業が無意味だと言いたいわけではないのです。
悪夢の最中にある人は意味もわからず狼狽し混乱し、自分が夢の世界にいることなど「夢にも思わず」、ますます悪夢の泥沼にはまっていく一方でしょう。ですからその悪夢を軽減・生滅させることは大切です。

しかし良い夢でも、所詮は夢です。

大切なことは、「私が」そこから目覚めて、事の本質を覚することでしょう。すべて仏教者の行う事業・福祉は本来、ここに集約していくべき働きでなくてはならないし、仏教でいう「慈悲」が世間の「やさしさ」とまったく違うという理由は、まさにこの点にこそあるのです。
ここを看過した単なる「世直し運動」は、一般的な政治経済・社会団体の仕事ではあるのかも知れませんけれど、仏教(あるいは宗教)は、そういう運動の有効性を認めつつもその限界を厳として指摘し、人間の本来性と還るべきところを十年一日の如く指し示し続け、「夢から目覚めよ」と言い続けることが重要かつ唯一の役割だと、私は思っています。
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法隆寺

2009年11月20日 | 閑話休題
京都にちょっとした用事があり、ついでに大阪の実家に一泊。

京都で用事を済ませた翌日、実家から電車で15分くらいのところにある法隆寺に久々に行ったんですが、修学旅行シーズンということもあり、うるさい餓…元気な学生たちが境内を埋め尽くしておりました。
それにしても、今でも奈良への修学旅行ってあるもんなんですね。最近は海外がほとんどかと思ってました。

ともあれ法隆寺で3時間、元気な学生たちを避けつつゆっくりと参詣。聖徳宗の勤行経典もゲットして、満足満足。
聖徳宗の勤行次第、法相宗と天台宗と似ているなぁ…と一瞬そう思ったのですが、まぁ、聖徳太子なんだから法華経があるのは当然か…。もちろん勝鬘経と維摩経も少し載っていました。

ただ残念だったのは、どのお堂でもほとんど線香の煙がなく、蝋燭の灯もなかったこと。夢殿の中には経机が並べられていて経本が置いてあったのですが、遠目にも埃が積っていました。
信仰というよりは観光で成り立つ寺院なんでしょうけれど、僧侶もあまり平生は勤行や修行をしていないのかな…。
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政治と宗教

2009年11月17日 | 時事関連
「成仏するのは仏教だけ」小沢幹事長、改めて文明観披露

「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」…だそうです。
まぁ、仏教に対する一般的な認識はそんな感じなんでしょうね。さすが国民の代表たる国会議員、というところでしょうか。色々とツッコミ所はあるのですが、言っても詮ないことでしょう…。

ただ、仏教では生死いずれにしても「仏になる」のではなく「まさに仏であると自覚する」ことが大切で、間違っても「今の自分と違う何かになるのだ」ということではないのは強調しておきたいと思います。
また、他の宗教においても、すべての人は神になる(神である)のだ、という宗教はあるでしょう。一元論的宗教は究極的にはすべてが神の顕現でしょうし。

ま、そんなことはともかくとして。

いずれにしても、国会議員がこういうことを主張するのもどうかと思いますね。政教分離原則に反するのではないでしょうか。
宗教者が政治参加してもいいし、たとえば公明党は(特定宗教に対する優遇をしない限り)政教分離原則に反していませんし、神道政治連盟とか一乗会などの議員活動も結構でしょう。宗教的信条を実際の政治活動に反映させるのは構わないのですが、他を貶めて特定宗教を宣揚してしまうと、それは政治家として一線を超えています。
あくまでも自己の内面的信仰の政策的具現化と、実際の宗教集団の批評・批判・擁護行為はまったく別のものです。
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日本版文革

2009年11月13日 | 時事関連
…仙谷由人行政刷新担当相は、来年度予算の圧縮を目指す「事業仕分け」について「これまで一切見えなかった予算編成プロセスのかなりの部分が見えることで、政治の文化大革命が始まった」と意義を強調…。

さすが元社会党、文革にかなり肯定的な評価を持っているようですが、流石にこれは大問題発言ではないでしょうか? 中国べったりのマスコミ・経済界はスルーするかも知れませんけれど、文革は国家権力による粛清と殺戮の歴史であり、人類史上有数の国家犯罪というのが私の認識なんですが…。
こういう言葉の端々にも民主党の一部議員の「イデオロギー政治」が見え隠れしてて、なんとも危なっかしいんですが…。確かに思想信条は自由ですが…うーむ。
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犀の角

2009年11月08日 | 仏教・思索
仏教には色々な流れ・宗派がありますが、詮ずる所すべからく一大海に還帰することを指し示し(智慧)、而して万象悉く安寧の真如法海に入らしむる(慈悲)ことが、その眼目です。
しかし…「密教の荘厳な車列をもって仏道を歩むのが最上である」「否、余の諸々の行は雑行であるから、ただ座禅のみもってせよ」「題目とともに歩むべきが仏道の正統で、法華経のみを頼りとせよ」「人間は自力では仏道を歩めぬから、念仏を申せ」…等々…自他を比べてどちらが上か、優劣を喧々諤々と議論して飽くことないのが現実ではないでしょうか。
仏教の本筋を踏まえていればそれは仏陀の正嫡であり、それぞれの「やり方」の優劣などを論じたところで、何の益体もありません。問題は「わたしが」どの仏道を踏むのかであり、結局どの道であれ智慧・慈悲の円満具足に向かうものであれば、間違いではないのです。道の中途で立ち止まり、他の道について終わりなき戯論を弄したところで、自身の仏道において何一つ益はないのです。
広く仏法を聴聞して取捨選択していくことは大切ですが、歩く道はひとつです。徒に他の道を批判したところで、他の道の者との論争に終わりはないでしょう。そのために自身の足を留めては仕方がありません。

自他の現に歩む道の差異を論ぜず、ただ己にとって、それが一大海を覚するに時空なき絶対の道であるかのみを問え。
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放火

2009年11月04日 | 時事関連
「燃えるの見たい」小4放火?15世紀創建の寺全焼

他人事ではないんですよねぇ…。
うちももちろん完全木造ですし、耐火構造ではありません。まぁ近隣住宅と密接していないのは幸いですが、それでも大風が吹けばどうなるかわかりません。
ガスや蝋燭の不始末に関しては自分たちで気をつけることですけれども、放火ばかりは如何ともし難いところがあります。今回のように恨みなどによるものではなくて、単に「燃やしたかった」などという動機の場合、こりゃ防ぎようがありませんから…。

いずれにしても、燃えてしまった御寺院さんにはお見舞い申し上げます。
同時に、放火した子供とその家族が追い詰められないように、特に子供はまだ10歳ということでもありますし、きめ細やかなケアをしてあげて欲しいものです。
家庭あるいは学校における何かが引き金になっていたのだとしても、あるいは単なる悪戯がエスカレートしたものだったとしても、今回のことで恐らく子供なりに思う部分もあるでしょうから、大人がこれからうまく導いてあげなくては、ですよね。
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勤行について

2009年11月02日 | 仏教・思索
・質問

朝に仏壇の前でお経を読もうかと思いますが、何を読めばいいでしょうか。

・答え

好きなお経を読んでいただければいいと思いますが、まぁ、そうは言っても答えになっていませんので、一応の目安を述べてみます。

宗派によって仏壇に祀られている御本尊は色々でしょうし、それぞれの宗派のやり方もありますので、基本的にはそれに則ったやり方をしてみるのがいいでしょう。
仏壇屋などに行けば、各宗派の在家用勤行聖典というものが数百円程度で売られていますので、まずはそれを手に入れてください。まずはそれらを読まれるのが良いです。
ただ、意味もわからずに毎朝ただ読むのも辛いですし、お経は「仏の説法」ですから、もちろん意味をわかって読むのが本筋です。少しずつでもいいですから、書かれている内容を知る努力をしてみてください。これは菩提寺の住職に聞かれてもいいでしょうし、一般書籍でも良い入門書が出版されています。ネットでもある程度のことはわかります。
そのうちに、自分が特に読んでみたい経典というものも出てくるかもしれません。その時にはそれを読むのもいいでしょうけれど、まずは上記にのべたようなところから始められてはいかがでしょうか。
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