प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

選択的夫婦別姓

2009年09月30日 | 時事関連
私は夫婦別姓制度導入には「現時点では」反対です。

社会的には旧姓のままでも活動出来る範囲が広がりつつありますし、この方向性を更に充実させていくことで十分。現在の日本で別姓を推進するのは弊害の方が大きいのではないかと思うからです。
また、「選択的」と言いますが、こういう家族制度の根幹に関わることを玉虫色にするのも大反対。少なくともどちらかに統一するのがスジというものでしょう。

「伝統的な家族制度を否定すると、家庭崩壊して秩序がなくなる」という主張に対して、「明治時代までは庶民に名字はなかったから、伝統的云々というのは詭弁だ」という反論もありますが、実は庶民も名字を持っていました。
ただし幕府や朝廷から下賜された「姓」ではない場合がほとんどで、土地の名等を名字としたものや、地方有力者などが褒美として与えた場合が多かったのでしょうが…少なくとも、通称としての「ファミリーネーム」は大抵あったようです。寺院過去帳などを見てもそれは明らかです。

結局、祖先を同じくする共同体としての「名札」は、古来より日本には存在していたわけで、これを別姓制度にしてしまうことは、その慣習の根幹を変更する、ということを意味しています。
このこと自体が良いか悪いかはともかくとして、もっと慎重に、国民全員で議論をすべき問題だと思うのです。皇室典範の改正なんかよりも日本社会の根本に触れる大問題ですし、様々な側面で、ボディブローのように徐々に多方面で影響が出てくるはずです。

日本人とは何か、伝統文化とは何か、民族風土とは何か、家族とは何か、家系とは何か、夫婦とは何か…。こういった問題を置き去りにした夫婦別姓制度の導入は、日本を内部から腐らせていくものになると思います。

私は個人的に、将来の日本が過去の伝統だけに縛られる必要性はないと考えていますし、様々な要素を吸収して新しい「国体」「社会」を創出するのはいいことだと考えています。流動性のないものは必ず腐ります。
ですから家族の在り方にしても同様、何も絶対に同姓であるべきだ、とは考えていません。
ただ、このような、クニと民族の根本に関わることはもっと議論すべきだと思うだけです。民主党は簡単に考えているようですが、これはそんな「事務的なレベル」の事柄ではないでしょう。
あまりに拙速です。
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直江兼続の「愛」

2009年09月25日 | 閑話休題
私は映画はともかく、テレビドラマというものをほとんど見ませんので知りませんでしたけれと、NHKの大河ドラマで直江兼続をやっていたんですね。
どうも書店で彼の名前を見ることが多いとは思っていたのですが…。

で、ちょっと驚いたのですが、彼の兜の「愛」の字を「Love」の意味に解釈している人が意外に多いんですね。しかも一般人だけでなく、ドラマそのものが「そっち系」を彷彿とさせる描き方だったそうな。

ええと。

直江兼続の場合、あれは愛宕大権現の「愛」ではなかったでしょうか。
愛宕大権現と言えば武将神、「Love」だの「Peace」だのとはちょっと違う意味合いのような気がするのですが、どんなもんでしょう。
そもそも「愛」を肯定的に考えるのは近代以降で、それまでは「仁」か「慈悲」という単語を使用するのが一般的なんだと思うのですが…って、「愛」の意味が「愛宕大権現=武将神」じゃあ視聴率が取れない、ということなんでしょうかね…。
でも、あんまり「時代劇ファンタジー」に作り過ぎると、大河ドラマで歴史を知ったつもりになっちゃう人もいますから、もうちょっと歴史考証をしっかりやって制作して欲しいものです。

と。

視聴していない奴が番組終了近くになって何を言っても仕方ないですけどね。
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寺webの掲示板

2009年09月17日 | 閑話休題
福楽寺のウェブサイトをこのところガチャガチャと更新していますが、やはり掲示板に「問題」が出てきました。
いわゆる「エロ業者の書き込み」というやつです。

残念ながらうちのサイトの掲示板には投稿もほとんどなく、ほぼ動いていないのが実際のところですが(泣)、業者というのは一体どこで「休眠掲示板」(しかも宗教系なのに)の存在を嗅ぎつけるのか、うちにも毎日のようにこまめに書き込みがなされます。
仕方ないのでこちらも見つけ次第削除していますけれど…。

他のお寺や宗教系掲示板でも、頻繁に書き込みがあるところはあまり狙われていないようで、うちみたいに「動いていない」掲示板には結構、業者の書き込みが見られるようです。

しかし、いったい誰に向かって書き込んでるんでしょうね。
どうせ誰も見ないのに(爆
しかも書き込みの内容にセンスが感じられません。ひねりもない即物的なものばかりです。せめてもう少し芸術性を感じさせるような文章が書けないものでしょうかね。
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因言遣言

2009年09月12日 | 仏教・思索
一心・真如…主客相対を超えた境地は、本当は言葉では示す事が出来ません。言葉はその性質上、主客を分割して記述することしかできないからです。ですから仏教書・経典や宗教書・哲学書・思想書に書いてあることはすべて、便宜的かつ仮設的な「比喩」以外の何ものでもありません。あるいは、池の月…。

一心・真如こそが主客相対以前の絶対「一」の存在であり、それはもちろん「私」の本性でもあるわけです。すべてが「一」に収斂されるわけですから、いったい真如を覚ると言っても、「誰」が「何」を覚ることができるでしょう。また、「真如を言葉で表す」だなんて…たとえば「A」という言葉は、「A以外のもの」を排除することでしか成立しないのですから、排除があり得ない「絶対一の真如(←これももちろん便宜上の仮設的表現ですね)」を正確に記述するなんて、そんなことは不可能です。

17世紀のキリスト教神秘主義詩人・シレジウスの『ケルビムのごとき旅人』の末尾の詩に、「友よ、もうこれで十分である。もっと読みたければ、赴いて、あなた自身が文字となり、本質となりなさい」(263)…と書いてあります。
いくら究極のところを言葉を尽くして語ったところで、最後には言葉が意味をなさなくなる時が来ます。ギリギリまでは言葉で語る必要がありますが、その時に使われる言葉は、言葉を超え出ていくための言葉です(因言遣言)。決してその表向きの言葉に留まっていてはなりません。

我々の二元論的な言葉の世界を超え出て行った先、その究極的地点でこそ本当の「言葉」「真如の声」を聞きたいと望むなら、シレジウスの言うように、もはや「あなた自身がそれそのものになる」しかないのです。
誰かが何かを読むのでも、聞くのでもなく、ただただ、「すべてが一としてあり、対境を聞かずして全的に聞き、対象を読まずして全的に読む」のでなくてはなりません。

…………………………………………………………………………………………………

毎度毎度、似たような事を書いております。

しかしこのあたりのことが飲み込めれば、「覚り」とはどういうことか、それ自体を指し示す事は原理的に不可能であるにせよ、少なくとも何がしかこの世で行くべき方向性だけは示せるかと思い、飽きずに書いています。
私はもちろん道半ばの人間ですが、「山の頂上」と信ずるところの場所を指さすことだけは許していただきたいと思います。それは誰しも行くべき道のゴールであるとともに、私が死ぬまで独り辿るべき道程の極みでもあり、絶対の場所である…少なくとも私はそう、信じているのです。

毎度の繰り言も甚だしいですが、それだけ大切な事だと私は感じ、書いています。
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人生の意味

2009年09月07日 | 仏教・思索
「生きている意味は何ですか」
「人生に意味はあるのですか」

人はよく、こういう問いを発する。
それに対して、世の宗教家や道徳家、のみならず政治家や評論家や医者や弁護士までもが、「人生とは…」と語りはじめる。生半の科学者など、時には「そもそも生命とは…」などと、その起源にまで話を及ぼす(そんな物理現象なんて「私の人生」にとって何の意味もありはしないのに)。

どうして人は人生にことさらに意味を見出そうとするのだろうか。

そんな「定義」を探し歩いて、どうにか「これでいい」と思えるものを拾い上げて、それを自分の人生に貼り付けたところで、それは本当に本当の「あなたの人生の意味」なのですか?

ことさらに意味を求めて「これだ」と思って何かしら拾い上げた途端、その掌から、必ずそれ以外のすべてが漏れ落ちる。この世界が・分割され、多くのものが崩れ落ちていく。

真実は、絶対の真理・真如は、この世界の「全体の一」なのに。
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憎悪と分別

2009年09月07日 | 仏教・思索
「あいつは嫌い」「ムカつく」「生理的に無理」…なんてことは、誰でもが感じることでしょう。もちろんあまりいい感情ではありませんが、しかし、こういったことを今までまったく感じたことがない人間は、そういるものではないと思います。
私たちは、このような「憎しみ」「憎悪」という自身にまとわりついて離れない感情に対処しなくてはなりませんが、近代日本有数の知性と言われた小林秀雄は、「憎悪」について、以下のように語っています。


「憎悪は、感情のものというより寧ろ観念に属するものなのだ。
おのずから発する憎悪の情というものはないので、一見そう見えるが、
実は恐怖の上に織られた複雑な観念であるのが普通であり、
意志や勇気や行動に欠けた弱者の言わば一種の固定観念なのである」
                         ――小林秀雄『カラマアゾフの兄弟』より


小林秀雄は恐らく、感情と観念でいうと、感情をより根源的なものとして考えているようですが、いずれにしても仏教では、感情も観念も無明をその出発点とする「妄想・妄念」という点では同じ地平にあるものであって、結局は苦をもたらすのだ、と考えています。

十二縁起というものがあります。

「無明(無知)によって行(形成作用)がある。
行によって識(分別作用)がある。
識によって名色(名称と形相=五蘊)がある。
名色によって六処(眼耳鼻舌身意)がある。
六処によって触(外界との接触)がある。
触によって受(感受作用)がある。
受によって愛(欲望)がある。
愛によって取(執着)がある。
取によって有(存在)がある。
有によって生(生まれること)がある。
生によって老死・愁・悲・苦・悩が生ずる。
これらのものによって苦の集まりができる。
これが縁りて起こるという」
                 ――『相応部経典』

無明・無知というのは結局、ものごとを対境に仮設して考える、主体と客体を想定して分割する、つまり「あれとこれ」「私とあなた」を対置して物事を見たり考えたりすることのすべてを指します。言語や概念、また「観念」というものは、このレベルで通用するものです。もちろん感情も同様です。

結局、憎悪に対処しようとした場合に関して言うと、殊更に「憎悪は感情のものではなくて観念である」という必要はありません。
小林の意見に則って考えてみても、それでは「私は感情的ではない、もっと知性があるし、理性もあるのだ」という自我意識・ジェントルマンシップでもって「憎悪」をその場その場で抑制する方途はつくでしょうが、それでは根本的な解決にはならないように感じるのです。
人間の感情や観念の由来をもっと根本的に考えていく必要がありますし、その根本を退治しなくては、地中に残った雑草の根のように、時期が来れば再び「苦」「妄想・妄念」「憎悪」が生えてきてしまうでょう。

そしてその根本はやはりどうしたって、無明妄念…つまり、主客対立的な思考であり、分割・分別による自他の線引きをしてしまう、人間(衆生)のどうしようもない性癖に行きつきます。
ですから私たちが憎悪から離れるためには、憎悪そのものを対症療法的に退治しようとしても、それは恐らく徒労になるでしょう。小林秀雄のように、それを観念的なものだと言って対処可能のように取り扱おうとしたとしても、その奥にもっと厄介なもの(無明妄念)が潜んでいますので、取り繕うことは出来ても、根本的な解決にはならないのだと思います。

無明とは何か、私とは何か、「これ」と「それ」の違いとは何か、言語の持っている性質、主客の関係性とは何か、区分することの意味、感情の根源について…このようなことをよくよく考え、そして思考も分割・分別の分際ですから、最後にはそれをも超えていくようにしなくてはなりません。
その過程で、憎悪や渇愛・虚しさ・不安…畢竟「苦」というものがそもそも「妄念の産物であったこと」を「覚る」のだと思います。私はまだ自覚的に「覚」してはいないかも知れませんが、それでもこのような作業を続けていくうち、少しずつ自心の「重し」が抜けていく感じはしています(…「重しが抜ける」というよりは、世界が少しずつ清澄明瞭になっていく感じ…というか。ちょっと言葉にし辛いですが)。

まぁ、少しずつ~になる、と感じているうちは、キッチリ妄念の分際なわけですが(汗
だからいくら「重しが少し抜けて清澄になったかな…」と感じようが、私は毎日毎日、荒れ狂う感情と妄想の荒波になって、自我を張って右顧左眄して虚勢を張り、ああでもないこうでもない…と迷走している実態は変わりありません。

結局。
この記事や過去ログでも書いているように、「覚」に向かって「行くべき道」は理解しているつもりになっていても…しかし、覚「に向かう」だの、「行くべき道」だの、そんなもの「アタマで理解」しているうちは主客相対ドップリの思考回路なわけで、何にもならん、ということです。


すべて単純なことなのに、何ともなかなか、難しい。
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あなたは誰?

2009年09月05日 | 仏教・思索
人は「肩書き」というレッテルを自他ともにベタベタ貼り付けて安心している。
そうして何がしかをわかったつもりになっている。

そもそも「分かる」ということは「分ける」ことだから、それはその本質として致し方ないのかも知れないが、「分けた」からと言って、それがいったい何を分かったことになろう。
「分かる」ということがレッテル貼り・分割認識に過ぎないのなら、我々にとってもっとも大切なこと…つまり「覚り」とは一切合財、徹頭徹尾、どうしたって無縁のものでしかない。

「大企業の社員」という自己規定で何とはなしに人生を納得していても、退職すればスッカラカンの空きビン同然である。「一部上場」「部長」「社長」、それが何か。そんな空きビンの代わりはいくらでもいるし、代わりの人間だって空きビンの中に役にも立たない「プライド」を充填して「一端の大人物」だと思っているだけだ。どうせ満々に充填したプライドなんざ安物の炭酸飲料よりも役に立たない見せかけの「泡」。
「金持ち」は、カネがなければ成り立たない。カネに寄り掛かってカネの威光でやっとこ立っている案山子ではないか。死んだらそれを巡って争いが起こるが、争う人間は「死んだ金持ち」のことなんざ気にもしない。気になるのは「カネ」だけである。そしてカネなど、国家が傾むいた程度の事でみるみる目減りする虚構の紙切れに過ぎない。案山子ですら自分の足で立っているのに、金持ち案山子はカネと国家に支えてもらってやっとこ立て掛けられている。
「家柄」が何になるか。家柄など気にするのは「自分は家格が高い」と思い込んでいる者だけだ。あるいは、「自分は家格が低い」と卑下している愚か者か。そんなもの自己満足か自虐精神の幻想以外の何であるか。
「学歴」も同様、高学歴であるから何だと言うのか。それにしがみついて始終ブンブン振りかざすのは勝手だが、団扇ほどの風も起こせまい。
「肩書き」はこういった「分かり易い」ものだけではなく、「僧侶と在家」「親子」「男女」「国家」…いや、「オレとオマエ」「あれとこれ」と分けることがそもそも「肩書き(レッテル)」貼りである。

所詮、「肩書き」など、自分と他人を勝手気ままに分けているだけのこと。
そうして如何に自分が他人より優れているか(あるいは劣っていないか)威勢を張って、人生を賭けた虚仮脅しに右往左往している「自我・虚我」に貼り付けた晒し首の「表札」でしかない。良く言っても、「自分の存在を確認するための便宜的な区分」だ。
いよいよ死ぬ段になって、そんな表札だの便宜的な区分が何になるか。
否、のうのうと生きている刹那であっても、そんな表札に第一義的な価値はない(ややトーンを落とすようだが、円滑に社会を切りまわしていくという意味での便宜的な価値はある…いわゆる世俗諦というものだ)。

「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」

「あなたは誰なのか」

自他未分の真源・本源…「本来の面目」とは何か。
己の眼は己の眼そのものを見ることは絶対にできない。鏡に映じた眼は虚像である。それは眼自体では決してない。鏡が曇っていれば、色つき鏡であれば、歪んでいれば…然り、「私」を「私」だと思う「あなた」は、いったい何を「見て」、あれを「私」だと言うのか。あなたが「見ている」ものは、「見られている」というその一点において、絶対に「私」などではあり得ないのに。
そうして、この「私」の本源を覚さなければ、どうしたってこのいのちは絶対的に安定しない。鏡に映った「私」をうまく操作したとして、それはこの短い刹那の人生を、虚構の我がバランスよく歩いた(ように感じた)という「だけ」のことである。


あなたは誰か。
誰だと問うている、この「私」なるもの、これはいったい何者なのか。
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金星問題

2009年09月04日 | 時事関連
鳩山新政権…ということになりそうですが、最近になって(やっと)鳩山夫妻の「おかしさ」が徐々に報道・認知され始めたようです。

まぁ、別に宗教観とか死生観は人それぞれ自由ですから他人がとやかく言うべきものではないのですが、首相夫人が「金星に行って金星人と出会った」とか「前世でトム・クルーズと会った」とか、そんなことをマジメに語っているとすれば、それはそれでちょっと問題があるのではないかと。国際的には笑いモノでしょう。
宇宙人誘拐話なんて結局のところは、中世の魔女・天狗の話の現代版焼き直しの都市伝説ですから、こんなものは中高生までです。一国を代表する人間が公言していいものとは思えません。

鳩山夫妻はサイエントロジー信者ではないか、あるいはフリーメイソンではないか、等の憶測が流れるのもむべなるかな…ですね。夫人は江原●介との繋がりもあるみたいですし。
少なくとも御両人、「ニューエイジ」「アセンション」等のキワモノ分野の単語には親近感を抱いているようですし、積極的に関与もしているみたいです。

以下に資料をいくつか紹介しますが、まぁ、この様子では公明党との連立はないかな(笑


鳩山氏は「人間サイエンスの会(潜在能力研究会)」顧問
http://www.asyura2.com/09/senkyo64/msg/729.html

鳩山夫人参加の会合プログラム(4ページ目の下部)
http://shiningearth.jp/09simp-summer/program/program.pdf

鳩山氏推薦図書
http://image.blog.livedoor.jp/avex893/imgs/a/e/aedd2a10.PNG?600888


以下、英語です。

夫人の金星人発言についての動画。
http://www.youtube.com/watch?v=XCVrEIrD1XE

NEWSの画像。
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/america/090904/amr0909040914001-l2.jpg

Telegraph
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/japan/6129871/Japans-new-first-lady-flew-to-Venus-with-UFO.html

Times
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article6819688.ece

New York Times
http://thelede.blogs.nytimes.com/2009/09/03/japans-new-first-lady-not-from-venus-was-only-visiting/
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止観って…

2009年09月03日 | 仏教・思索
お寺では毎朝7時から、誰でも自由参加で止観を行っています(詳細)。

止観とは…まぁ、細かいことを言い出したら色々ありますが、取り敢えずは気楽な気持ちでゆっくり「静かに座ってみる」ことから始めましょう。
私たちの忙しい日常生活の中で、「身心ともに雑事を一切離れて静かにただ座る」ことは、実際それほどないと思います。小難しい理屈にこだわらず、一切を放擲してただ、座る。
「ただ座る」という、その奥に秘められた深い仏法の道理というものは追々に知っていくとして、まずは皆さん、とりあえず止観、やってみませんか?

…………………………………………………………………………………………………

いわゆる「禅」と「止観」はどう違うのか、という疑問もあろうかと思います。違うと言えば違いますし、同じ仏教、一緒だと言えば一緒でしょう。
私は現時点では曹洞禅・臨済禅の実践をしたことがないので軽々には言えないのですが、まぁ、少なくとも「見た目」はだいたい一緒ですので、そのイメージで来ていただければ戸惑うこともないかな…と思います。

私の実践する「止観」は『大乗起信論』に説かれるそれをベースにしていますが、今後は禅・天台止観・密教諸観法などの諸法を参究して練り上げていきたいと思っています。
もちろん現時点では参究も半端なものですから、変に折衷的なものになるのも不本意かつ有害ですので、今はただただ『大乗起信論』に依拠しているところです。

「止観行」というのは釈尊以来2500年、通仏教的かつ僧俗を問わない実践方法であり、特定の宗派にもとらわれない「大道・王道」の修行方法です。
これこそが仏教の「幹」です。色々な経典や論書は枝葉ですから、ここを取り違えると、仏教が単なる形而上学になってしまう危険性があります(同時に忘れてならないのは、枝葉がなくては幹は死ぬ、ということです。努々、枝葉が低級であると思わないように…!)。
この「仏教という大木の幹」である「止観」の実践こそが、仏教徒としての実践の枢要です。
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Flu?

2009年09月03日 | 閑話休題
うーん、一昨日から調子が悪い…。だるい、ふらふらする、喉が痛い。

ままままさか、イイイイイインフルエンザでは…!?

…と思いつつ、今月の中旬までスケジュール真ッ白のため慌てることもなく、病院にも行かずにひたすら寝ておりましたところ、まぁ昨日よりはだいぶマシに……ん~、大丈夫そうだな……悪化してるようなら病院送りを覚悟していたのですが、まぁ、この分だと何とか…。


秋に向けて半端ない流行が待っているようですし、皆さまもお気を付け下さいね。
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