प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

民主党大勝

2009年08月31日 | 時事関連
私、今回は自民党にも民主党にも入れられない、入れる党がない、と言っておりました。事実、直前まで悩みに悩んでいたのですが、結局、比例は自民党に投票しました。
というのも、選挙情勢があまりにも民主党に傾き過ぎで、どうやらこのまま民主党圧勝という感じになりそうでしたので…。

で、蓋を開けたら民主の300議席超。

予想よりはほんの少し自民党に揺り戻しがあったとは言え、それでもちょっと勝ち過ぎでしたね。小泉郵政選挙で自民党が勝ち過ぎて良かったことはほとんどなかったのですが、今回の結果はコインの表裏のように思えてなりません。
やはり政権与党は過半数+10議席程度が適正だと思います。そのくらいであれば、安定政権でありつつ党派間の協議もある程度は必要になるし、党内調整にも慎重にならざるを得ません。300議席を超えると、どうも乱暴な運営になりそうな感じがします。
とりわけ、政策内容に不安山積の民主党ですからね…。

ということで、忸怩たる思いで自民党に投票(因みに小選挙区は白票です)。

いっそ、山椒効果を狙って「改革クラブ」か「みんなの党」あたりにしようかとも考えたのですが、中国地方にその選択肢はありませんでした(汗

しかし、さすがは保守王国・山口でした。

自民党はなんだかんだ言っても強かったです。四選挙区のうち、自民3・民主1は、郵政選挙と同じでした。基本的に中国地方は保守地盤なんでしょうね。
私はもともと大阪ですから(自公もそれなりに強いですが、民主党左派や共産党にもある程度の強固な地盤があります)、山口に来てからの自民党の地方への末端に至るまでの浸透ぶりにちょっと驚きました。まぁ、地方は利益誘導型経済になっちゃってるからだと思うのですが…。

でも比例に関しては自民が減らしましたし、地方でも自民離れは進みつつあるのでしょう。今後は町内会単位で自民党議員の握手会に参加する、という習慣もなくなっていくかも知れないですね。

まぁいずれにしても、私のような「経済左派、自主外交主義&アンチ排外主義、日本伝統文化尊重、かつ仏教者」は、当面のところ全面的に賛成して投票する政党がないわけですから、選挙のたびに色々と天秤にかけつつ…で、悩まされることになりそうです。
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仏典検索サイト

2009年08月28日 | 閑話休題
これは便利だ…。

【佛學世界〔網路藏經閣〕】
http://www.suttaworld.org/

今までSATとか中華電子仏典協会を使っていたけれど、これだとワードにコピペして引用するときに面倒だったんですよね。それに比べて、「網路藏經閣」の楽なこと!
本文をPDF、HTMLの2パターンで読み出せる(大正蔵のみ)し、大正蔵以外にも卍続蔵・永楽北蔵・乾隆版、四種類の蔵経が検索できます。これは貴重です。
まぁ、使っているうちに欠点もわかって来るでしょうけれど、とりあえずはいいサイトを発見しました。
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法事は何のため?

2009年08月27日 | 仏教・思索
・質問

仏教では霊魂の実在を説かない、と聞きましたが、だとすればどうして法事をするのですか?
また、霊魂がないのに輪廻転生を説く意味がわかりません。

・答え

これは宗派により、また僧侶によって説くところが違うため、もっとも混乱する部分ですね。

まず大原則として、「仏教では永遠に続く、<この体とは別の魂>というものは認めない」ということがあります。これは「身心一如」たる仏教の基本からは当然のことです。
また、「すべては物質からできているため、死んだらすべておしまい」という考え方も否定します。業(カルマ)の継続(輪廻)、という観点からです。

私はよく「海と波の譬え」を鬱陶しいくらい使いますが、ここでも使います。結局、いかなる事象であれ、一なる全体の断面に過ぎないわけですから…。

さて、波は我々であり、諸々の事象です。海は一真如・絶対の一です。
波は主客相対的な存在であり、海は主客無分別の全一的存在です。
そして、「海が」「波としての」自己を明瞭に覚知したとき、その事態を「覚り」と言います。「波が」「海としての」ではありません。ここは重要なポイントですが、ここでは措いて置きます。
結局、真如・事実として我々は無分別の存在ですし、主客不二の一なる「すべて」であり、「あなたと私」「これとそれ」を分別するのは無明による妄想に過ぎません。もちろん、「生と死」「生者と死者」も、結局は同一の真如の恣意的な(かつ強固な妄想・慣習的認識による)分別なわけです。

  自ら諸法の本源を運んで三界を画策して、還って自らその中に没し、
  自心熾然にして備に諸苦を受く――『大日経疏』

ここを超えること、この無明妄念の境涯を払拭することが畢竟仏教の眼目であると私は考えています。修行とは結局このためですし、伝道もこれを「自己の本質を知らずに荒れ狂う大海で右往左往する波…本来は自他不二ですから、彼は自分自身でもあるのです…」が「海との本質的同一性」に気づいて欲しいが為です。
智慧とはこれを覚することですし、慈悲は自他不二という真実の世界において湧出するものです。

で、まず。

「死者を波」だとイメージしてください。波は死んでも(海に戻っても)その「波としての力」までが消えるわけではなく、次の波となって再び生まれる(輪廻)力を潜在しています。これを業(カルマ)と言います。
前の波と後の波は連続性がありますし、力の大小によって前は後ろに影響を与えていますので、継続的な側面があります。ここから「魂」という観念が出てきますが、しかし前の波と後の波の物質的要素はまったく同じではありません。別物です。継続しているのは「業」だけです。そしてこれはもちろん無常のものであり、永続性のあるものではありませんね。
輪廻とは、こういうものです。
そして、波の底がスッポリと「抜け」て海との同一性を覚せば「無明の風」は止みますので、波も消えて「一海」独在の世界になります。これを涅槃と言います。
つまり、波は無明の風によって起こる縁起性・無常のものであり、如何なる意味でも確固とした実在とは言えません。また海についても、もはや主客相対の世界を超えた「一」ですから、分別をその作用とする言語・認識では捉える事ができませんので、それも「存在する」「実在する」と言う事は実はできません。

法事とは、実はこのような「世界観」に立脚して行われるものです。つまり死者も僧侶も列席者も、みなそれぞれの波として現象しているのですが、実はそれは無明によるものであり、本来は「一」つまり「如来そのもの」であるわけです。
ただ、それに気づいていない、覚していないから我々は凡夫であり、輪廻に繋がれているだけなのです。
読経とは、海からの呼びかけです。もちん法話も威儀もすべて、海からの呼びかけです。僧侶はその使い…『法華経』流に言うなれば、「如来使」です。
「死者に読経しても聞こえないじゃないか」…そう考えるのは、死者と自分を分割して切り離すからです。

死者は私、私はあなた、あなたは如来、如来は死者。
「私が海の自覚に立っていれば」、「どの波にも、誰にでもなれるのです」。

法事とは、他の波、この場合は故人という波が本来は「海と同一である」ということを、「自己を通して知らしめる」という「伝道」「法施」そのものです。

もって法事の意義もわかっていただけたと思いますが、「永続的な実在としての魂がないのに輪廻するとはどういうことか」についても、理解していただけたかと思います。

なお、「海と波が同一である」→「私は本当は仏だ」→「修行なんてしなくていい」という安易な考え方は出来ません。過去にはそういう「思想」も流行したようですが、まったくナンセンスです。
仏教は「苦海を渡る」教えです。いくら「本来海」でも、現実に無明の暴風による苦が厳然している以上、彼は「単なる波」であり、決して「海ではありません」。
海と波の本質は同一ですが、しかし、海と波は現象としては同一ではないのです。ここを踏みちがえると、修行軽視の似非仏教になります。


以上はすべて、「私の仏教」です。
宗派により、また立場により、色々な言説が世に出回っています。ある程度は妥当なものもあれば、おかしいものもありますが、いずれにしても私は「私の考え方が絶対だ」というつもりはまったく御座いません。
第一、真如・真理は原理的にも「言語化」できないものですから、私の「言説」も他の誰かの「言説」も、すべて「仮設」であって「真実そのもの」ではあり得ません。


と。


ここまで書いて来て何ですが、実はこういう「形而上学的」なことは、どうでもいい話なのです。大切なことは、「今、ここ」の「苦の現実」に気づき、それを脱することです。
それには理論なんかよりも、ひたすら実践です。
ただ、世の中のカルト宗教も似たようなことを言う場合が多々ありますから、ひとまず言語による仮設的「理論」を立てて、皆さんの判断の便に供するだけのことです。
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盆休み

2009年08月26日 | 閑話休題
少し遅れて、うちの坊守がちょっと遅めの盆休みで数日間、北九州に帰省しています。
ので、明日までお寺には私と御犬様のふたりだけです。

    うーん、静かだ…。

でも…、
実際のところ、話相手がいないのも寂しいものです。


明日は檀家さんの家で井戸埋めがあるので、朝から拝みに行かなくてはなりません。「8時半に来てくれ」ということなので、勤行も1時間ほど前倒しになります。
そんで、犬の散歩と植木の水やりもしなくちゃならないので、明日はちょっと早起きしないとなぁ…。


でもひとりだと、どうしても夜更かししてしまいそうな…(汗
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秘仏とは?

2009年08月25日 | 仏教・思索
・質問

「秘仏」とは何ですか?

・答え

日本各地に「秘仏」とされる仏像は数多くありますけれど、私が住職を拝命している福楽寺の場合も、御本尊の薬師如来は秘仏です。福楽寺の場合、2月8日のみ御開帳をしています。

「秘仏」の一般的な説明をwikiにて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E4%BB%8F

まぁ、一般的な意味合いは上記wikiにある通りだと思います。
個人的には、やはり日本の宗教伝統による部分が大きいのだとは思いますけれど、この「秘仏」という習慣は仏教的にも意義を認めることは可能かと思います。

私の仏教思想・実践の基礎には「如来蔵思想」というものがあるのですが、今回はこの観点から「秘仏」の意義を考えてみます。

如来蔵思想を簡単に述べると、「誰でもが本質的には如来である」ということです。それを自覚できれば「覚り」「仏陀」ですし、できていなければ「迷い・凡夫」なのですが、しかし「事実として我々すべて本来は仏陀である」ということがつまり、「如来蔵」ということです(もっとも、「自覚する」「わかる」ということ=「知的に分かる(分別知・分析知・主客相対の知)」ことでは当然なく、それは無分別智・主客不二の般若智のことであることは当然です)。
これは修行無用論に陥る危険性があると指摘されますが(中古天台本覚論などはこの傾向があるようです)、本当は逆でして、修行なくして如来蔵を覚することは不可能であり、修行なくしては「事実としての仏陀」は「現実には凡夫のまま」でしかなく、彼は苦にひきずられ、無明妄念に惑わされ、輪廻の苦海を延々と経巡るしかないわけです。
つまり、極めて修行重視(と言っても難行苦行や僧侶だけの特別な修行ではなく、六波羅蜜行・とりわけ止観を重視します)の思想なのです。

この立場で「秘仏」を見てみると、まさにこれは「如来蔵」の可視的な表現であると受け取ることができます。つまり「隠された仏像」とは、現実の凡夫である我々に潜在している本質を示している…。
日常、私たちは妄想・妄念・無明・煩悩に踊らされ惑わされて苦海を泳いでいるわけですが(そんなに苦しくないよ…という人もいるかも知れないですけれど…本当にそうでしょうか?)、それでも私たちの本質・本性は、たとえ隠されていたとしても、仏陀そのものです。これを、秘仏は示していないでしょうか。
そして時々扉が開くわけですが、これは「如来蔵の開顕」を示すもので、実は仏性は眠ったままではなく、常に目覚めようという方向で働いていることを示しています(これを「真如薫習」とも言います)。

このように、我々の凡夫性と如来蔵とを「秘仏」は表現している…と受け止めることができますし、私としてはそのように受け止めています。もちろん他の受け止め方もあるでしょうけれど、いずれにしても仏教徒としては、なるべく「仏教的な意義を含めた受け止め」ということが必要になるのかな、と思っています。
これを「会通」とも言いますが、古来より仏教というものはこの作業を大切にして来ました。仏教の本質を変えることなく、周りの諸事象を仏教的に再解釈・再構築していくこと。これが仏教の多様性と本質的同一性の根拠です。

「秘仏」。
「たまの御開帳だから貴重ですね」「寺がありがたく見せようとしているだけ」等々の色々な言われ方をされますけれど、今一度、その意義を考えてみてはいかがでょうか。
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自力と他力

2009年08月23日 | 仏教・思索
仏教ではよく、「自力」「他力」という言葉が使われます。
一般的には、阿弥陀如来にすべてをおまかせして自分のはからいを捨ててしまう浄土教系の立場を「他力・浄土門」、座禅その他の修行を行って覚りに至らんとする道を「自力・聖道門」と言うようです。

でも、そんなに単純に割り切れるものなのかなぁ…?

例えば浄土門にしても、最初に「阿弥陀様に手をあわせよう」「念仏してみよう」とするのは、自力的な側面があるのじゃないか、と。「徹頭徹尾他力」というのは理屈としてはそうにしても、現実問題としてはちょっと強引な論法のような。
他方の自力にしても、仏法の流伝なくしての修行はなく、まったく自己完結して外部の影響を排除した成就など不可能なんじゃないでしょうか。第一、真如法界との自己同一性を無視した「自分だけの力」など、存在しません。

「いやいや、自力・他力とはそういうものではなく、あくまでもこの煩悩深重の凡夫が修行など及びもつかないのだと自覚したのが云々」

いや、宗学の理屈はそうなんでしょうけれど、しかし凡聖不二・真如法界と不一不二の我々が、そこまで自力と他力を「分別」してしまう必要があるのでしょうか。と言うより、そんなこと可能でしょうか?
どっちの要素も混然として分割不能なんではないでしょうか?

例によって海の譬えですが、「海が波として自己を認識した」状態が「覚り」であり(「波が海であると自覚」するのではないことに注意!)、それを自覚するしないに関わらず「事実としてそうである」状態を「如来蔵」と言うわけです。
そうであるのなら、海を無視して波だけで「自力」を云々するのはまったく無明の分際ですし、同様に、「波は無力だから海に任せよう」とする「他力」も、海と波の本質的同一性を忘却しているならば、同様に「無明」の分際です。

例えば親鸞聖人が言う「他力」なるもの、もう少し深い意味があったように思うのです。単に「すべてお任せ、私は無力でございます」だけであれば、そんな教えは仏教ではないでしょうし、宗教思想として考えてもほとんど魅力がありません。
親鸞聖人ひいては法然上人など歴代の浄土法師・論師が、そんな大乗仏教の基本的な部分をすっ飛ばしたとは到底、私には考えられません。

ま、浄土系については私も勉強不足ですから何も断言できないのですが…。
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イルカ…

2009年08月22日 | 時事関連
捕鯨に関して、欧州の他の捕鯨国と比べてなぜか日本が重点的にやり玉に挙げられている昨今ですが、イルカについても同様に、「環境保護団体」を名乗る集団や一国の政府までもが日本を指弾・追及しています。

日本のイルカ猟:監視をかいくぐり、ハイテク機材で映画撮影

まぁ、「イルカがかわいそう」という理屈は情緒的ではありますが、理解はできます。

問題は、どうしてイルカや鯨に対してはこれほど熱心に「保護活動」をするのに、牛や豚、鶏、農作物に対してはそうでもないんでしょうか。いつも疑問に思うんです。
オーストラリアなどは捕鯨に関してかなり日本を批判していますが、どうしてその国がカンガルーの駆除を数千頭単位で実施できるのでしょう。破綻した考え方をしているようにしか思えません。「増えすぎたから」ということであれば、日本も「鯨の増えすぎ」を指摘しているわけで、同じ事ではないでしょうか。

「イルカや鯨は知能が高いから」という理屈もあるようですが、生命の価値は知能の高低(しかもその基準は、人間基準!)に左右されるのでしょうか。だとしたらかなりの「危険思想」のようにも思えます。
仏教的には、個々の生命は波のようなもので、大きなひとつの生命たる海…真如海から「仮に」出現しているもので、海と波は不一不二、どの波の価値が高いも低いもありません。すべて真如海・如来と同等、完全に尊い「いのち」です。もちろん動物だけではなく、植物も無機物も同様です。

人間はそれらを摂取することで生きていますが、何を食べるにしても波が波を呑み込むようなもので、同じだけの「痛み」を感じるべきものであり、特定の何かを「尊いもの」と別出・限定して(しかも特定文化の論理を振りかざして)、他者を指弾できる性質のものではありません。
こういう「他者殺し」の業を背負って生きるのが衆生であり、それがまさに「苦」の現実です。

いったい「生命の尊さの線引き」を、人間が恣意的に引くことなどできるのでしょうか。
人間はもちろん、イルカや鯨も人間に近い(部分があるように感じられる)から尊い、それに対して、牛や豚や羊や魚貝類は知能も低そうだし、まぁ殺して食べてもいいだろう。
では、犬はどうなのか、馬や猿は?
どうして植物は無条件に許されるのか。知能がない(ように私たちの基準では思われる)からその生命は考慮しなくてもいいのか。そんな基準は「誰が決めたのか」。

…。

まぁ、そうは言ってももちろん、同じ波だからと言ってやはり人間を食べることは許されませんから、そこには世俗内の社会的規則は当然あります。自然法としての社会契約、と言ってもいいのかも知れません。これは大切なことです。
しかしラディカルに考えると、何を食べても「苦」なわけです。

この観点で言うと、どうもイルカや鯨を牛やカンガルーから別にして「とりわけ尊い」とする、決定的な理由がよく私にはわからないのです。感情論は別にしても、全世界的に自然法としての合意がなされているわけでもない中で、外国の食文化を否定してまで暴力的行為に及ぶ「大義」が何なのか…。
箱詰めブロイラーとか牛にビールを飲ませて肉を軟らかくして殺す行為、子羊のソテー、豚の丸焼き、Tボーンステーキ…もちろんカンガルーの駆除もそうですが、より身近なはずのこれらを批判せずに、どうして外国の食文化をここまで攻撃できるのか。
いったい彼らの情熱の根拠は何なんでしょうね。


因みに私は、イルカを食べたいとはまったく思いません。だってかわいいし。イルカは海の天使だと私は思っています(海使かな?)。いつかイルカと一緒に泳いでみたいですしね…。

ただ話の筋道として、「環境保護団体」のやり口を私はまったく理解できない、ということなんです。そのあたりよーく、お含みください。
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苦手なこと

2009年08月16日 | 閑話休題
人は誰しも苦手なこと・不得手なことがあろうかと思います。

私の場合は、とにかく人前で話すのが苦手です。「仏」になれば説法自在のはずですから、これだけでも私が未だ完全なる凡夫であること明白ですね(笑

以下、自己分析。

もともとがひとりで過ごす時間が長い生活をずっと送っていましたし、どうにもこうにも、他者に口頭で明晰に何かを伝達する、という行為にまだ慣れないです…。特に、黙って聴いている不特定多数に対して、ひたすらひとりで喋り続ける、というのは結構、キツイ。質問に答える、という形ならまだいいんだけれど。

もともと筋道立てて話すのが苦手ということもあるのですが、どうもひとりで話す場合、テーマに関して必要以上に補足説明を付けようとしてしまうのが、その主たる原因のように思います。
その結果として本筋から脱線してしまい、帰るべき道を見失い、結局のところ何が言いたいのかよくわからん…となってしまうようです。「あれも言わなきゃ、あぁ、この言い方だと誤解を招くかも知れないな」となり…最悪なのが、話の途中で「あ、今いいこと思いついた、これも話しておこう」、これです。

とりわけ、事前準備なしに話しをする時などはもうそりゃあ、悲惨なものです。聴いてる人に申し訳ないなぁと思いますが…しかし、なかなか難しいのです。

とは言え、僧侶として・法師としては、話さないわけには行きません。法を伝えることは義務ですから、これは苦手であれ何であれ、試行錯誤しつつも、とにかくもっと上手く伝えられるように努力せねばなりませんね。
別に「面白おかしく」話す必要などは更々ないのですが、とにかく知識のない人にもしっかりと核心が伝わるような、筋道の明確なスッキリした伝道ができるようになりたいものです。
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菩薩のことば

2009年08月10日 | 仏教・思索
丘山新教授の著書『菩薩の願い』(NHKライブラリー)に、宮澤賢治の詩が紹介されていました。
宮澤賢治は法華系・国柱会の信者としても有名な文学者で、彼の童話や詩の多くは、その根底に仏教・法華経の思想が流れていると言われています。
『菩薩の願い』に紹介された詩は、大乗仏教の思想をよく示した典型的なものだと思いますので、ここに紹介してみたいと思います。


おれたちはみな農民である
ずいぶん忙がしく仕事もつらい
もつと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはそういう人も応々あつた
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

―― 宮澤賢治 『農民芸術概論綱要』


然り、然り、ですね。

ここにおいて、この本質的な観点から、果たして出家も在家もありましょうか。
そのような枝葉末節のことが、果たしてこの絶対的な真理の世界を覚するにおいて、決定的で絶対的な壁となるのでしょうか。

在俗生活こそは悪であり、害毒である。

もしそうならば、果たして出家でなくては真理を覚することはできないかも知れません。しかし、少なくとも私は、在俗生活と出家生活のどちらが害悪であるか、そんなことに関心はありませんし、どちらが上とも下とも思いません。
どちらの生活にせよ、まさにそれをしている「わたし」がどうであるか。その真実の姿は宇宙全体・真如と不可分の「一」ではなかったか。
つまりはそこに帰結し、それがすべてです。

いったい「一なる世界」において、「誰が」「何を」分割しようともがいているのでしょうか。
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理念と現実

2009年08月10日 | 仏教・思索
8世紀のヒンドゥー教の聖者、インド哲学ヴェーダーンタ学派の大成者に、シャンカラという人物がいます(シャンカラとは?)。

彼は不二一元論の哲学を樹立したことで有名ですが、その基本的テーゼは「我々の内なるアートマンと絶対者ブラフマンは同一であり、存在するのはブラフマンのみである」というものです。
彼によると「存在するのはブラフマンのみ」であり、他は虚妄の幻影に過ぎないわけで、これを推し進めると、ヒンドゥーにおけるヴァルナ・ジャーティ制、俗に言うカースト制による絶対的な身分差別も成り立たなくなるはずです。

しかしシャンカラは、この「知識」を得て解脱できるのはバラモンのみである、という当時の伝統的な観念に完全に同意していました。

『ウパデーシャ・サーハスリー』によると、不二一元論の教えをうける資格のある者としていくつかの条件を出していますが、その中に「〔外的にも内的にも〕清浄なバラモンであり、聖典の規定に従って師に近づき、カースト・職業・品行・〔ヴェーダ聖典に関する〕学識・家柄について念入りに調べた弟子」にのみ、これを教示せよ、とあります。
そして、この知識によらなければ、絶対に解脱に至らない、とします。だとすれば事実上、解脱はバラモンにしか開かれていないことは自明の理です。

このように、理念と現実の矛盾や乖離というものは至る所にみられます。例えば、大乗仏教の僧俗不二・菩薩思想の理念と、現実に出家がそれを支配・独占してきた現実の矛盾等々…。
これは時代性もありますし、それまでの無条件の慣習や常識が、原理と現実の乖離を見えなくしてしまっている部分が大いにあるのではないでしょうか。我々自身も含めて、誰しもが「時代の子」「特定文化の子」なのですから。

しかし時代の変化とともに、地域の違いとともに、現実は徐々にではあれ変化して行きます。それには良い方向の変化もあれば悪い変化もあるでしょうが、少なくとも宗教・仏教に関する限り、より根本的な理念・理想に近づく方向での変化が望ましいと思います。
ヴェーダーンタ学派にしても、前世紀にはブラフマ・サマージやラーマクリシュナ・ミッションが登場し、バラモンのみならず、より全人類的・普遍的な方向性に視野を拡大して来ています。これは原理原則の変化・退廃ではなく、実はより原則的な・理想的なところに現実が追い付いて来ているのだ…と言えるのではないでしょうか。

大乗仏教徒として自らの伝統を鑑みたとき、この視点はひとつの示唆を与え得るのではないかと、私はそう思っています。
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