प्रज्ञापारमिता

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僧侶と宗派

2009年06月27日 | 仏教・思索
私が真言宗御室派に僧籍を置いているのと同様、現在の日本仏教界では、基本的に僧侶はいずれかの宗派に属しています。単立寺院の僧侶であっても、僧籍は宗派所属の場合が多いのではないでしょうか。

これは、弟子や後継者を修行・勉強させるに当たり、各派養成機関が宗派に属していない者の修行を認めないことが多いのも、僧侶を宗派に従属させる要因のひとつではないかと思います。
また、伝統宗派に属することで、世間に対する信用度を確保できる、という側面も大きいでしょう(本当は関係ないんですが)。

勿論こういったこと自体は別に構わないのですが、しかし「これだけが正しい僧侶の在り方である」となってしまうと、宗派の伝統宗学や修行方法に極端なまでに縛られてしまい、自由な研鑽が阻まれてしまうという弊害があるように思えます。
ゆるやかな宗派・学派は必要でしょうし、それぞれのオーソリティーがその中枢にいることは大切なのですが、もっと個々の僧侶の自由な修学が可能なシステムが必要ではないでしょうか。そして、それぞれの僧侶の多様な仏道が展開していくような環境があればいいな、と思うのです。

奈良時代の宗派は「学問仏教」と馬鹿にされ勝ちですが、しかしその「八宗兼学」の精神は再評価されるべきではないでしょうか。
どこかの宗派に属しつつも、他の宗派の学問や修行も自由に兼学していくことで生み出される仏教の素晴らしさは大きいと思います。公式教学に拘泥して墨守するだけならば現状のままで良いでしょうが、これではますます硬直化して生きた宗教になって来ないのでは、と。

沈滞する仏教界を打開するため、最近は色々な「イベント仏教」の方向性が散見されますが、それだけじゃやはり小手先。
社会事業や福祉、コンサートも立派ですけれど、日本仏教の在り方・宗教としての仏教そのものが抱える問題点を根本的に改革していくことなくしては、如何にイベント等で成功しようとも、やはり意味がないのだと思います。

聖徳太子以来の各祖師方が偉大なのは、単に彼らが「宗祖だから」ではありません。
諸祖師方は伝統的な仏教学を真剣に研鑽しつつも、お仕着せの教学を鵜呑みにしたスピーカーになることを拒み、自らの問題意識や苦悩を全仏道に叩きつけ、その核心を掴むことをこそ目指したからではないでしょうか。それは釈尊以来の、仏教の伝統です。

私たちも教条主義的な立場を捨て、仏典そのものに直参することで真実の仏道が歩けるのでは、と思うのです。その結果としていずれかの宗派に全面的に帰依してオーソリティーになることは素晴らしい事でしょうが、最初から特定の教義だけを盲信して事足れり、と言うのであれば、それは最も非仏教的な態度であると言わざるを得ません。

■追記。
ただし、手前勝手な「教え」を振り回す者や、カルト的教義の流入までもすべて容認せよ、ということではありません。
仏典に基づかない恣意的な暴論を識別するための何らかの基準は必要になって来ると思いますが、このコンセンサスを形成するための基幹となる存在が宗派宗門・仏教系大学なのであり、各宗派オーソリティーの責務もここにあるわけです。
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海即波

2009年06月24日 | 仏教・思索
イェーガーというカトリック神父がいます。禅に接近し過ぎであり(印可も受けています)、その神秘主義的な主張が神の絶対性を侵す、というような理由でバチカンから活動停止命令を受けた方(破門はされておらず、今でもベネディクト会士)ですが、その言葉で非常に示唆的なものがあったので、書き留めておきます。
私は「海と波の譬え」を(便利なので)色々な場面でよく使います。これは『大乗起信論』にも似たような譬え(水波の譬)がありますが、これに限らず、『華厳経』その他にも海や波にまつわる隠喩・比喩はたくさんあります。
ここで紹介するイェーガー神父の比喩も、海と波を使っています。


「だが、自己同一といっても、個(人間)が増長し、のさばって超個(神)になるのではない。もしも波が「俺は海だ」と認めるなら、そこにはまだ二つのものが、波と海が、あるだけなのです。神秘主義の経験では、この二つということが乗り越えられるのです。波の自我は流れ去り、その代わりに、海が自分自身を波として経験するのです」


ポイントは最後、「海が自分自身を波として経験するのです」。これですが、つまり「波が自分自身を海として認識するのではない」ということです。似たような事態に見えますが、まったく違う事態です。
恐らくここを踏み外した自我の肥大した「神秘主義者」や「行者」が多くいるのではないでしょうか。
真実の「神秘主義」に、個人崇拝の入る余地はありません。もちろんこのことは、仏教においても同様でしょう。神・真如は私であり、そして私はすべてであり、現実にすべては個に顕現するからです。
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2009年06月23日 | 仏教・思索
あらゆる道はローマ通ず…。
様々な宗教の指し示す真理は同じであり、ただその辿るべき道が違うだけ…山頂はひとつでも道は多様なものである。

というようなことはよく言われます。

これはある意味では是、だと思います。例えばキリスト教でいう神も時空以前・概念以前の「存在」、主客不二の「絶対」であれば、それは私たちの言う「真如」とそう変ったものでもないでしょう。
でも、それぞれの道はやはりそれぞれの道であり、同じ道ではありません。近道もあれば回り道もある。そして中には途中でぶち切れてしまっている道もあるし、けもの道もあり、道によっては落とし穴がある。
山頂を知らぬ者が手前勝手に作った「道もどき」もあるでしょう。

あらゆる道はローマ通ず。
然り。しかしその道は公道でなくてはならない。勝手な私道はローマなど知りもしないわけです(しかし中にはローマにつながる私道もあるので話がややこしい…笑)。
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摂末帰本

2009年06月22日 | 仏教・思索
托鉢中にヘッドロック
http://www.asahi.com/national/update/0514/OSK200905140107.html


…何をしてるんだ…。

色々なところで仏教の崩壊を食い止めようと頑張っている僧侶や信徒も多い中、一部のこういう輩が片っ端からその努力をぶち壊していく。
覚醒剤使用なんか確かに個人の問題であって仏教の本来的価値とは関係ないけれど、世間はそう見ないもので…。
信頼と内実を作るのは時間がかかるし大勢の団結と協力と精進が必要な反面、潰すのは本当に簡単。誰でも出来るし、ひとりでも出来る。


…。


と、そう批判するのは簡単なこと。

しかし、そう批判する私だって無明によって日々、業を積み重ねている事実がある。「彼」とそう違ったもんでもないわけで。
誰であれ、「よい行為」も「悪い行為」も、それが無明妄念に基づく限りは迷いの分際であり輪廻の軛にしかならない…。

波濤荒ぶる大海にあって、私という波も、あるいは彼も、永遠に翻弄されている。我も彼も、すべては大海であることを覚せば風は止むのに…。
目の前に真実は転がっているのに、気づかない。掴めない。見えない。

彼も私も、そしてあなたも、無明分別の世界に生きている限り同じ穴の狢で、真如の大海も苦海の波濤としか認識できない。

だから今はとにかく、仏道は真っ直ぐに覚に続いていることを信じ歩くだけ。歩き続ければ、海底を覚知して波も本に還帰し…その時この世界は徹頭徹尾、真実・真如そのままであったことに気づくのだろう、きっと…。


★★★★★★★★★


うまくまとまらないですが、このニュースを見て非常にやるせない気持ちになりました。恐らく自分自身、人間の無明の深さ・恐ろしさに無力さを感じるからでしょうか…。

仏道を歩くこと・人間存在の底を覚することは、並大抵じゃないですよね、実際のところ。
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宗派仏教

2009年06月21日 | 仏教・思索
以下、私もまだ煮詰まっていないことを書きますので、そのうち意見が少し変わるかもしれません。恐らく内容も若干、乱暴なことを書いているように思います。
ただ、色々と考えている途中経過ということで、お読みください。

さて。

日本仏教の特徴のひとつとして、「宗派仏教」ということが挙げられます。曰く「真言宗」「天台宗」「融通念仏宗」「浄土宗」「真宗」「曹洞宗」「臨済宗」「日蓮宗」etc.etc.…。
そして各宗は更に内部で細かく枝分かれ・分裂しています。
もちろんそれぞれの宗派には独自の教義・法式・修行体系があるわけです。

で。
果たしてこの現状、このままでいいものでしょうか?

大乗仏教全体を俯瞰して行くと、宗派の公式教学の枠に収まりきらない部分・思いはどの僧侶にあっても当然、出て来るでしょう。人間は金太郎飴じゃないですし、言語化(分別化・概念化)された教義はすべて便宜上のものなわけですから(仏説経典や論書も言語仮設である以上は当然便宜的なものですが、それは仮設的方便により真理を指し示すものと信受するのが仏教徒です)。
それらの消化不良の部分を切り捨ててしまい、宗派の公式教学に無批判に安住してしまえば疑問も何も湧いて来ないのかも知れませんが、それは果たして仏教の在り方として健全なのでしょうか。
もちろん試行錯誤し悩み苦しむ中で、それぞれの教義教学・実践における意義を見出すのであればそれはいいでしょうけれど、現実はそういう方向ではなく、一般的には、単に権威としての教義に乗っかかっているだけでは…?
挙句には相互に排斥・論難し合う始末で…。

大乗仏教としての基本的な指針は当然ありますが、現状はあまりにも微細な点までが「規定」され過ぎ、身動きがとれなくなっています。
公式教学や実践体制を組織防衛・維持のための人質に取っているわけではないと信じたいですが、宗派仏教には特有の問題点があるのではないかと思っています。

宗派とは、あくまでも自由なスクールであるべきであり、一定の傾向を同じくする者の緩やかな集団であるべきでしょう。その中で僧侶は大乗仏教全体を俯瞰し、諸宗・諸経兼学して実践をするわけですが、具体的な部分は個々人の裁量に委ねられるのが、仏教の根本になくてはならないのでは、と感じます(その結果として、特定の教学に全面的に依る立場も当然あると思いますし、それでいいと思いますが、しかしその立場を絶対化し不可侵のドグマとするならば、それは逸脱でしょう)。
もちろんその場合、「仏教/大乗仏教」の最低限の範囲の規定・僧侶としての有る程度の規律の制定は重要ですが(細かい法律はともかく、大綱としての憲法は必要である、ということです)、それは歴史的に積み上げられてきた「大乗仏教」全体の流れの中に見出され得るものと信じています。
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認識

2009年06月20日 | 閑話休題
2ちゃんねるで話題のコピペなんですが、なかなか面白いものがありました。
まぁまずは、深く考えずに、流してざっと読んでみてください。


こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は イリギス の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく


読めるでしょ?
面白いですねぇ。
文字の順番がめちゃくちゃですが、流して読むと「ちゃんと読める」んですね。人間がどれほど「先入観」で世界を認識しているのかがよくわかります。
私達が漠然と「当然だ」と思うことが、実はそれほど確かな現実ではないのだということが、こういう「遊び」からもわかりますねぇ。
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衆生と如来の視点

2009年06月18日 | 仏教・思索
大乗仏教と部派仏教の最大の違いは、それが「如来の視点の仏教」か「衆生の視点の仏教」か、という点にあるのだと思います。もちろん前の視点は大乗、後が部派。

衆生の視点で考えれば、我々は妄念・無明の存在ですから飽くなき修行、それも徹底した出家主義によって俗を排した行道が求められます。
しかし如来の視点では、すべて森羅万象の真相は全一なる真如であるわけですから、俗と聖を分別する要はなく、在家出家の別も本質的な問題とはなり得ない。

問題は、その真如を覚するにおいて、凡夫の境涯にある我々が果たして在俗のままで如来の視点からの仏教を実践できるのか、という一点にあります。
部派仏教、あるいは釈尊は「できない」という立場で、それ故にこそ出家という形態を必須の要件としたのでしょう。
一方で、初期の本来的な大乗仏教は「できる」という立場(ここで「本来の」と限定したのは、後世の大乗仏教が必ずしも「できる」という立場に立っているとは限らないからです。もっとも極端な例は、親鸞聖人です。彼は「出家でもできない」という立場だったのでしょう)。

私個人としては、仏教は釈尊であれ部派であれ大乗であれ、基本的な構図は相違していないと考えています。問題は教理的構図ではなく、実践という点にあるのではないでしょうか。
実践面において釈尊至上主義に立つ限り、仏教は出家主義です。しかし法の実現という観点で仏陀を考えるのならば(つまり釈尊は先覚者であり歴史的に重大な先達ではあっても、数多の覚者のひとりである)、大乗の立場も当然ながらあり得るものになります。事実、大乗では仏陀を釈尊に限定しません(一世界一仏陀という思想は、私は釈尊神格化の過程で出てきた護教的教理―特定状況における対機的方便説―だと思っています)。

このあたりの問題は客観的な論証にそぐわない問題で、「仏教・真如・仏陀をどう実践的に考えるか」ということは、恐らく無前提的な「信」に属する部分でもあります。
仏教は信をもって能入とす、というわけです。
維摩を例に出すまでもありませんが、大乗菩薩のあり方を信ずるのならば、あくまでも大乗は在家居士であっても覚者となり得るし、それこそが正道であるということになるでしょう。

もちろん最終的な覚り・真如を実現し仏陀となるという地点に至るのに出家であってもそれは構いません。大乗はそこに本質的な区分を認めない、ということです(もちろん二乗・菩薩の理念・実践上の問題もありますが、ここではあくまで出家在家の形態の別と成仏の関係性だけを考えています)。

もっとも、このような議論が徒に戯論に陥ることがもっとも戒むるべきことで、大切なのはいずれの立場であれ、実践することです。仏教である限り、到達地点は同一のはずです(もっとも、その到達地点の意見の相違がまた議論の的になったりするわけですが…私も含め、人間の無明の闇はかくも深いものです)。
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amazonで

2009年06月17日 | 閑話休題
高碕直道先生の著作集全九巻が、春秋社から刊行中です。
今のところ三冊が既刊なんですが、今日、第三回配本の「高碕直道著作集第八巻」がamazonから届きました(まともな書店がない地方在住者にとって、好き嫌いはともかく、amazonはやはり便利かつ不可欠なのです)。

高崎先生とはもちろん面識もなく、また講義などを聴かせて頂いたこともないのですが、現時点での如来蔵思想研究では日本で第一人者ですし、著書を通してその学恩に浴すること絶大なものがあります。
学問的に尊敬する学者のひとりです。

で…今日は上掲本以外に、『訳注・大乗起信論』(思文閣)と『ギリシア哲学史』(東大出版会)が届きました。昨日は近隣では唯一に近い中規模書店で『学識ある無知について』『キリスト教史1』『キリスト教史2』(全て平凡社ライブラリー)を買ったのですが、新しい本を手にするのはいつもワクワクしますねぇ。
しみじみ。

あぁ、いつかまともな書斎が欲しい…!

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因みにまったく関係ない話で恐縮ですが、今更ながら、さっき『ハウルの動く城』を初めて見ました。ジプリ系は大抵はチェックしているのですが、この作品、見てなかったんですよね…(あと、『千と千尋』を見てないだけです)。
なかなか面白かったですが、私はストーリーよりも「城」に釘付けでした。

…ああいう家が欲しいなぁ…。
四か所に出口を設置するならどこがいいだろうか…。


今夜はそれを思案しながら寝ることにしましょう。
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裁判員制度

2009年06月16日 | 時事関連
もうすぐ裁判員制度が開始されますね。
私は有罪無罪だけでなく、量刑まで決める裁判員制度は行き過ぎだと思っているのですが、いずれにせよ、法律のシロートが見知らぬ他人に「死刑」だの「無罪」だのという「裁きを下さねばならない」事態になってしまいました。

林被告「国に殺されたくない」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=815354&media_id=2

このような状況証拠だけの事案に対し、法律知識もなく、証拠分析の訓練も受けていない一般人が果たして「死刑」という判断を下せるでしょうか。下していいのでしょうか。甚だ疑問です。
これは「冤罪云々」ということではなくて、決定的な物的・客観的証拠もないのに死刑判決を下すというパターンを認めてしまうと、徐々に「他者を裁くこと」に対する意識のハードルが低くならないか、一抹の不安を覚えてしまいます。
裁判官がシロート裁判員をリードするという話ですが、裁判官に予断があれば、無意識のうちに彼らを特定の結論にミスリードする危険性もあるし、その場合の責任の所在が裁判員にある程度分散されることで、裁判官の責任感にも悪影響が出てくるのでは、と懸念します。

更に、宗教的な立場から、死刑宣告以前に、このような「他者を裁く」行為を忌避する人たちも多いでしょう。アメリカの陪審制同様に、彼らが宗教的な信条から裁判員を拒否できる規定を確立しなくては、この制度は人によっては「国家権力の強制的圧力」となりかねません。

「市民感覚を司法に」ということだそうですが、私は市民感覚よりも公正で正確な裁判を望みたかったですね。一般常識や感性が裁判官や司法関係者に不足しているということであれば、それを養う方策はいくらでも考えられたはずです。
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大乗非仏説

2009年06月15日 | 仏教・思索
・質問

大乗仏教は歴史上の釈尊の説ではないから、偽仏教ではないのですか?

・答え

私は色々な場所で縷々書いているのですが、大乗非仏説論を主張する学者は前世紀まででしょう。今時そういう事をいう学者はほとんどおりません(もちろん仏教学を護教神学にしている「学者」はその限りではありませんが)。

そもそも非「仏説」と言うからには、「仏とは何か」という議論が必要です。
南方仏教の「神学」では仏陀を歴史上の釈尊に限定しますので、その観点では大乗は非仏説でしょう。しかし釈尊以外にも仏陀はあり得るという大乗の立場では、仏は釈尊以前にも以後にもあり得ますので、法を覚した者の教説はすべて仏説と言えます。無論、釈尊は歴史的にも現在の大乗仏教の根源となる覚者ですから、もっとも重要な仏陀であることは当然です。

現在の仏教学で大乗非仏説論を云々しないのは、以上のような問題は信条の問題であり、客観的な学問の俎上に載せて論ずるに相応しいものと見做されていないからです。
学問的な意味での白黒決着は出来ないし、無意味だということです。

私の個人的な信条で言うと、そもそも仏教は万人に仏陀になる可能性がある(というより、そもそも本質的に我々は仏陀と不二である)、ということが釈尊以来の仏教の原則だと思っています。もちろん機根や業、縁の問題もありますから「万人が今世で仏陀の自覚を得る」とは言えないのですが、「誰も仏陀になれない」という立場は、少なくとも私は取りません。その意味で、仏陀を釈尊に限定する立場は、釈尊を神格化して悪しく敬っている、ということになるでしょうね。
歴史上の過去にも仏陀はいたし、今もいるだろうし、将来もいるでしょう。そして現に我々衆生・全現象が仏陀と不二であるならば、何がいったい仏陀ではないと言えるのでしようか。
ともあれ、彼らが法を覚し・自身こそ仏陀であることを覚して記した(説いた)経典は、私は仏説だと思っています(もちろん釈尊以来の仏教の大筋をしっかりと把握して、それと著しく逸脱したものは「偽」あるいは「非仏説」と判断しますが、未だ覚らぬ凡夫たる我々はその基準について現代仏教学を「も」大いに利用する必要があります)。


因みに、南方仏教・いわゆるテーラワーダ仏教の依拠する「パーリ仏典」は確かに古層を保存した三蔵とされていますが、これは釈尊が使用した言語ではありません。時々誤解があるようですが、釈尊の使用した言語は中部インドの「中期マガダ語」であったと推定され、西インド系統のパーリ語ではありません。
同時に、パーリ聖典の文字化・整備は紀元前後と言われていますので、サンスクリット系経典と時期的にはそう大差がありません。ものによっては漢訳よりも新しいものがあるようです。
さらに、パーリ聖典は部派仏教時代の「分別説部」系統の伝承による三蔵であり、他の部派(説一切有部や経量部、化地部、雪山部、大衆部…)には他の伝承が存在していたわけで、パーリだけを「釈尊金口である」と絶対視するのは「神学」に過ぎません。
たまたま部派仏教のうち、インド中心部を離れた南方に伝わっていた分別説部・パーリ仏教の伝統だけが現在まで残った、ということです。
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