प्रज्ञापारमिता

言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。
究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。

経集 116・117

2018年04月01日 | 釈尊のことば
「怒ったり、恨んだりし、見せかけだけで欺き、邪な見方をし、企みのある人ーーーそのような人を、いやしい人と知るべきである。
(スッタ・ニパータ116)

一度生まれるもの(胎生の生き物)でも、二度生まれるもの(卵生の生き物)でも、この世に生きるものを害し、生き物に対する憐れみのない人ーーーそのような人を、いやしい人と知るべきである。
(スッタ・ニパータ117)

…………………………

116から142までは、「いやしい人の経」。
バラモンのバーラトバージャが釈尊に「エセ坊主、いやしい奴よ」と罵ったところ、釈尊が「いやしい者とはどういう人間のことをいうのか」を諭していきます。
まず最初には怒り。怒る者です。怒りはすべての善きものを即座に破壊します。そうして、他人に対して恨んだり、あるいは出し抜こうとする人。憐れみ、慈悲の感覚に欠けるものがいやしい人間であると言います。
以下ずっとそうなのですが、ここでは血統や職業や人種、性別などによる尊卑は説かれません。そういうものはいやしさの判断基準にはならないのです。
当たり前なのですが、現実にはそういうもので、特に民族人種や貧富、職業、時には学歴や家系や住んでいる所、容姿や性別などによって相手のことを差別したり遠ざけたりしてしまうのが現実です。しかし仏教徒においては、あくまでも人の尊卑は行為や考え方によってのみ判断されます。
また気をつけねばならないのは、「味方」ならば賞賛することを、「敵」になった途端に揶揄の対象にしたりしますが、これも醜い話です。
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