प्रज्ञापारमिता

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輪廻と浄土

2021年04月06日 | 仏教・思索
死ねばどうなるか。

今は「近代仏教学」だの唯物論的科学主義だのに依拠した「常識」とやらで、輪廻も浄土も「単なる喩え」や「倫理上の要請」だの、「インド思想的な考えを仮に利用しただけ」などと言われたりするが、果たしてそうなのだろうか。
少なくとも業を前提にする限りは、「覚らない限り、世俗において」輪廻あるいは後生は絶対であり、それを否定することは断見であり邪義になるしかないのではないか。
またこれに関して、「魂」を「無我」を理由に否定することもあるが、そもそも否定される魂とは、二元的世界観における主体あるいは客体としての「常一主宰」たる魂のことであり、一時的な現象に過ぎないものとしての主体たる「私」、無常なる自我は厳然と存在しているのではなかろうか? 無常なる主体や魂まで無存在であるとするならば、すべての現象的存在すべてを否定することになり、それは虚無論であり、常見と同じ地平で邪見である。

仏教の原則に沿う限り、輪廻は厳然と事実。
そして浄土とは、この娑婆世界に外ならない。

弘法大師「一切経開題」に、

迷えば即ち濁悪の処 悟れば即ち清浄の処にして無染の境なり また浄土と名付く

…とある。

浄土とは別の場所にあるのではなく、この世である。一水四見というが、同じこの世にあれ、ある人にとっては地獄であり修羅であり天界であり、覚者には寂光土そのものである。生まれ変わり死に変わりして流れ着く地獄乃至仏界はすべて「ここ」であって、何もよその不可視の平行宇宙に行くわけでもない。ただ、それを見て感覚する我々の状態によって、違ったように見えてくるのみである。
たとえば西方十万億土とは、今の我々の心の有り様と如来の覚悟がそれだけ隔たっているということであり、実際には髪一筋の距離すらもない。

世俗にあれば輪廻に溺れ、覚れば存在しない輪廻を自在に泳ぐ、往生は輪廻の枠内、先は密厳国土即ち娑婆世界であるしかない。一水四見であれば、娑婆も浄土もあなた次第。その見解やサンスカーラが変わらなければならないのであろう。

また、葬儀や法事における供養の意味についても一言しておく。
向上門に約して述べる。現に迷う我々の立場からの実践の道。

さて、再び問うが、人は死んでどうなるか。

別世界に往生はしない。別の世界などはない。
すべては縁起である。客観的に構想されるような、ここでないどこかのパラダイスなどはない。死後は、修行を進めてない限りは善趣か悪趣に行く。死後は、必ず、楽の多い境涯か苦の多い境涯か、どちらかに引かれ行く。
それは基本的には、本人の生前次第。
この認識された足下の世界を、眼を閉じながら経巡る。我々は縁によって家族になり友となり敵となり、ここに生きている。
この縁は続くのだし、今もがっちり繋がっている。来世でどういう関係性に再編成されるかはわからないまま、いずれにしても絡み合う。
供養するとは、その縁に沿って、自分の善業を伝えて故人…それは目の前の隣人になっているかも知れないし、他の衆生として輪廻しているかもしれないが、その故人にとっての善縁としてもらい、今まさに生きている彼らの苦の要素を減らせるように働きかけること。
閉じた祈りではなく、働きかけること。

もうひとつは、自分が善く生きること。
故人とは、来世も関わり続ける。つまり、自分が善趣にあれば、彼らを助けられる。仏になれば一番だけれど、故人よりももっと善趣に生まれられれば、それだけできっと助けになる。

供養とは、今生でも来世でもすべきことで、実際に可能だ。供養は死者のためじゃない。すべてのためだ。
今この自分の隣の人たちと、相互供養の生活をしているだろうか?
そういう生死流転の中でいつか仏となり、この世界を浄土と観る。相互供養に切れ目はない。故人への弔いあげなどもない。弔いあげは、我々が仏となった日にしか、やってこない。

浄土は、ここにしかない。
穢土もまた同じこの土にあり。
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