प्रज्ञापारमिता

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螺子

2013年06月01日 | 仏教・思索
ここに、ネジがある。

本棚を作ろうと思い、木の板を十数枚、買ってきた。
家にあるネジをすべて並べてみた。
ぜんぶで、十三種類、ネジがあった。

どのネジが正解だろうか。

それは自明、木の板の厚みによって、使うべきネジは決定する。
だから、どのネジが客観的に常に唯一の正解…ということはない。
木の板がどういうものかによる。

さて。

私は宗論が嫌いだ。
仏教に関する議論をするのは良いし、大切だと思うけれど、
勝ち負け・正邪・上下を決める類の勝負・論争は嫌いだ。
嫌いという表現が違うと言うのなら、敢えてこう言おう。
そんなものは、無意味であると。

木の板とは、あなたのことだ。
他の誰でもない、「あなた」のことだ。
ネジは仏教だ。仏教の教理・教学・経典・論書…何でも良いけれど、
とにかく、「言葉に表された仏教」のことだ。

どのネジが正解だろうか。

それは自明、木の板の厚みによって、使うべきネジは決定する。
だから、どのネジが客観的に常に唯一の正解…ということはない。
木の板がどういうものかによる。

「真理」というものがあるとすれば、それは「本棚」として顕現する。
木の板とネジがうまく組み合わさったものだ。
ネジが真実なのではなく、木の板が真実なのでもない。
真実は、そのふたつのものの関係性の中にのみ、現れる。

他の誰かにピッタリのネジがあったとして、
それを無闇に他人に薦めたりするものではない。
木の板はそれぞれ、同じものはふたつとない。
仮留め程度に役に立つネジは結構たくさんあるだろうけれど、
中にはまるでどうしようもなく合わないネジだってたくさん、ある。
でもそのネジは他の誰かにピッタリなのかも知れない。

木の板の大きさ、厚み、硬度、特性などをしっかりと把握し、
適切なネジを提供することが出来るの者のことを、ブッダという。
だからこそ、ブッダの言葉をたくさん学び、
「わたしのネジ」を見つけなくてはならない。
これは真理多元主義ではない。
本棚として顕現するという点で、関係性の中にそれは現れると言う点で、
真理は「ひとつ」だ。
しかしもちろん、本棚はひとつではない。
不一不二。

くれぐれも、腐ったネジだけは使わないように。
万能ネジというものがあると夢想しないように。
なんとなく合う手近なネジに安住しないように。
ちゃんと本棚を作ることを考えてネジを選ぼう。
ネジは色々あるけれど、真理は本棚に現れる。
あなたのネジを、倦まず弛まず、探し続けよう。
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