प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

ちぎり捨て

2021年02月13日 | 弘法大師聖句
さぁお寺の危機だ、仏教を広めなくてはならない…ということで、色々なイベントやら企てをする僧侶が多くいます。また、多くの僧侶がSNSを利用している時代でもあります。
最近はクラブハウスというSNSも話題になっていて、まぁああいうものも利用の仕方によっては「効果的」なのかも知れません。

ただざっと見渡してみると、SNSにせよイベントにせよ、残念ながらうまくいっているばかりではなく、内輪で盛り上がるあまり却って「新しい人」が入りにくい雰囲気になってしまっていたり、軽すぎて仏教そのものまで「そんなもんか」と思わせてしまっていたり、甚だしくは酒を飲みながらの娯楽偏重イベントや、SNSでも僧侶の立場で間違った知識や偏ったことを垂れ流し、挙げ句に汚い言葉(慇懃無礼も含む)を書き連ねて「法を下げる」場面も見られるのは残念なことです。
僕自身もイベント的なことに関わりはあまりないものの、SNSは使いますし、元がなかなか口も悪い方なので気を付けねばなりませんが…。

しかし根本的に、仏教の危機(お寺の危機…もしかしたら経営の危機、自分達の生活不安も…?)だとて、そこまで手段を選ばずの勢いで「発信」すべきなのかな、と思わなくもありません。それこそこんなブログを書いたりSNSをやりながら言うのも何ですが…。

弘法大師の『性霊集』にこういう言葉があります。

 高山澹黙なれども禽獣労を告げずして投り帰き
 深水言わざれども魚龍倦むことを憚らずして逐い赴く


つまり、山や海はどーんとそこに黙って存在しているだけで、生きとし生ける者たちは挙ってそこに行き集う、というようなことです。

インドにラーマクリシュナというヒンドゥー教の聖者がおりました。また、ラマナ・マハリシという方もおられましたけれど、共に100年くらい前の方々です。現在でも世界中の人々に敬われ信仰もされていますが、彼らは自分自ら布教活動に邁進して…ということはほとんどしていません。

自分のことをやる。

それに尽きていました。それが自然に感化を及ぼしていくわけですが、私としては、自分自身はとてもそこまでの存在になれないとも思いつつ、しかしそういう姿勢にこそ宗教者の真髄があるのではないかと思われるのです。
布教するな、ということではありません。それでは「小乗」になります。そうであってはならない。法施は重要です。でも「仏教やお寺の危機<だから>ネットを使って」「セミナーで学んでフィードバックして経営基盤を安定させて」「SNSで親しみやすく発信」というのも、それはそれでまた何か違和感があるのです。
そういうのがすべてダメとは言わないです(成功例もあるでしょうし、仏教への接点や窓口の存在としてそれらには大きな意味があるとは思います)が、本筋のことを地味にそれだけをやり続け、社会的・経営的な「成果」などにこだわらずに縁に従って仏教の話をする。あとはなるようになる。
そういう形が基本になくては、いずれ小手先の、あるいは一過性の好奇心に沿ったものなどは古くなり飽きられて終わる、そうしたら次の新しい何かをまた持ってきて…という、ちぎっては捨て、ちぎっては捨て、の挙げ句に仏教そのものまでちぎり捨てられやしまいかと、杞憂であれば幸いですが、少しだけそんな気持ちになってしまうところもあります。
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