प्रज्ञापारमिता

言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。
究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。

寂静、明晰

2019年03月05日 | 仏教・思索
人生においては様々な経験をします。それほど波乱万丈ではない平凡な人生であれ、刺激のない人生であれ、人はその刺激のなさを対象にして心を右往左往させていくもので、それらの心の動きと蓄積を、まさに「経験」と呼ぶのです。決して、目新しい外部の出来事を「経験」と呼ぶのではありませんから、経験豊かかどうかは、各人の心をに依ります。
また、それぞれの状況や環境、動機に従って人は知識を蓄積します。その知識により新たな経験を通過し、時に劣等感や慢心という心を強化していきます。
当然、経験や知識によって、感情が生まれます。この感情は経験と知識を撹乱し、内にまた外にそれらを漏れ出させ、拡散し、周囲を巻き込み、自分自身の経験や知識を変化させながら、新たな感情を育てます。

もちろん、これらの経験や知識には、一般的には良いものもあり、悪いものもあるでしょう。良いものを大切にしていくことは生活する上で重要です。
しかし良きにつけ悪しきにつけいずれにしてもこれらは、相対的な次元で経験と知識と感情が絡み合い蠢いているだけで、結局は流転する世界の中で浮き沈みするだけであり、それらは究極的な苦の解決、自己や世界の真実に導く働きは有してはいないのです。「うまいこと遣り繰りしても」、苦の再来は影のように私たちに寄り添い、避けがたいのです。

それを解決するには、まず生活を重視し、経験と知識と感情を丁寧に見つめ、その絡み合いを解きほぐし、分析することが大切です。そうすれば、それらの実態が蜃気楼のように無常で儚いものだと明確に見えてきます。そしてそれらに覆われて溺れる私たちは実はまったく溺れる必要がなかった存在、如来そのものであったことが理解できるでしょう。そうなれば、経験や知識や感情に私たちは巻き込まれ流転することがなくなります。それらを慈悲として活かし再生することができるようになります。

ただそうは言っても、現実に感情に押し流されて迷いどっぷりのままでは、正しく解きほぐしも分析もできません。経験や知識に頼って、知的操作でわかったような感情が生起して、結局は同じ事なのです。
ですからまずは静寂を学ばなくてはなりません。いわゆる「定」です。定波羅蜜です。坐禅なりマントラなり方法はいくつかありますが、いずれにしても静寂を学ぶことが肝要です。これは平等心です。
次いで、明確なる観察、分析。これらは単なる知的操作ではなく、むしろ「目的を持たずにただ」明確に観ずることで、自然に分析が起こります。これによって、慧が生起して来ます。自己の本質、世界の秘密が見えてきます。

静寂、そして明晰。

これらを透過するところ、人生の様々な経験や知識、感情がはじめて、縛りや迷いの機縁とならずに十全に働き始めます。迷い苦しみの流転の因にならなくなるのです。
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