प्रज्ञापारमिता

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帰依

2021年03月09日 | 仏教・思索
私達の実践の基本は、ともあれ如来を拝むこと、帰依することです。

私達は本当は如来と別のものではなく、つまり多様な波のような私達は本来は「バラバラに分かれたものではない一大海」に他ならないのですが、それに気づいていないだけ。
海はただ海であるだけですが、私達は自分を海と別の波だと見做してしまって、孤立した生を生きている。しかし海は波と常に一体で、勝手に分離したと思っている、あるいは海など知りもしない私達に常に働きかけています(働きかけるのは私達の立場から言える事態で、海の立場からは働きかける対象などありはしない)。

その働きかけを、感得できなくとも信じて受け止めようとするところに加持が感応していくのです。

分けてしまう私達の考え方、つまり主客対立するものの見方により、あるもの、つまり「私ではない波」に対して、或いは好きだから欲しい、嫌いだから排除したい、という考えが形成されるのですが、この第一を貪と呼び、第二を瞋と名付け、その元凶たる主客対立する見方を痴と称し、合わせてそれを三毒、つまりあらゆる苦の根源というのです。

だから、まずは「波は海であり、如来は私である」と信じねばなりません。

しかしいきなりそう「如実に知る」ことは出来ませんから、まずは波である私には海である如来からの加持があることを信じ、二元対立の私達の認識世界に、慈悲によって具体的に海が波として顕現して、つまり如来が加持により主客のものして現れてくださると観想をしていく必要があります(観想の中に現れるまでは仏像や仏画、あるいはマントラ自体などがその顕現です)。
その顕現した如来は、もちろん私自身なのですが、まずは対境として礼拝する、対象として帰依する、そうして波が実は海であるしかなかったのだと自覚していく。

その時、もはや、海だの如来だのと誰がそれを名付け、また認識しうるのだろうか?
波以外に海を海をたらしめるものはあるだろうか?

それが成就されるまでは、如来に帰依し続けなくてはなりません。
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