प्रज्ञापारमिता

言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。
究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。

智慧、慈悲

2019年04月11日 | 仏教・思索
言語道断の智慧・彼岸の光明は、それが世俗世界に分節顕現する時には、思想哲学という形を「取らない」。それは必ず慈悲の絶えざる連鎖として伸びていく。智慧と慈悲は対置したり併置できない。一体なのだから。
思想哲学などは、それを書き写した「地図の走り書き」以上のものではない。その紙を睨んでいくら解析したり他人の地図の出来を論評したところで、それだけでは意味がない。「地図の走り書き」を見ながら、慈悲の絶えざる連鎖である仏道を「自分自身がちゃんと」歩いているかどうか、だ。
思想哲学オタク、修行オタク、それはそれで楽しいし役に立つことはあるけれど、隣人や違う立場の相手に心から思い遣りを持って、愛語を持ち、加持された慈悲を自心の中に伸ばせないならば、どうであれ無意味だろう。
逆にそれがあれば、思想哲学や修行は限りなく活きてくる。
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