प्रज्ञापारमिता

言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。
究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。

幸福と不幸

2019年02月10日 | 仏教・思索
トルストイの『アンナ・カレーニナ』に、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という有名な言葉がありますが、宗教においても、愛なり慈悲なりに満たされた信仰にある人は似たような根源的な考え方や幸せに至るものなのでしょう。

しかし私達は現実として愛や慈悲に満たされていないわけで、理想からは隔たっています。
そうして、その隔たりをどう考えて扱うか、という課題が出てくるわけですが、そこで慣習だの文化だの、あるいは組織だの支配だの慢心だの優劣だのを振り回して「角を矯めて牛を殺す」ような話が噴出し、幸せになるためにやったつもりで、どんどん不幸のバリエーションだけが増えていく…。

どの宗教においても、我を振り回して優劣の巷に勝利することが幸せへの道だ、と教えるものはないはずです(あるとしたら、それは間違った教えだと私は思っています)。しかし私達は「不幸への指向性」が心底身に付いていますから、毎日毎日、牛を殺し続けているのです。
そうして、その間違いを根源的な地点から指摘するのはやはり宗教なのであって、間違いなく力あるものです。だからこの力の「使い方」を間違えて宗教によって牛を殺すのであれば、その時、もはや「幸福な家庭」は美しき抑圧の地獄絵図にしかならず、逃げ場もなくなってしまいます。

宗教でなくても幸せへの道はあるかも知れません。しかし宗教ほどこの問題に何万年も密接にコミットしてきたものはないし、私たち宗教者はやはりこの「古径」を歩くしかないわけですから、改めてよくよく考えたいものではあります。
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