प्रज्ञापारमिता

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偽経について

2009年07月07日 | 仏教・思索
仏教には、「偽経」と呼ばれるものがあります。あるいは「擬経」とも書きますが、いずれにしても「偽の経典」「疑似経典」という意味ですから、なかなか不穏な単語です。
主な「偽経」としては、例えば『父母恩重経』『盂蘭盆経』『不動経』『円覚経』『無量義経』『十句観音経』…等々、有名なものがたくさんあります。

問題は、これら「偽経」が果たして仏教経典として異端であるかどうか、ということです。もし異端的な文書であれば、当然ながら仏教からは排除されるべきものでしようけれど、果たしてどうでしょうか。

結論から書けば、歴史的に伝えられてきたこれら「偽経」は決して「偽モノ」ではなく、正真正銘の「真経」であり、紛うことなき「大乗仏典」である、ということです。

というのも、「偽経」の根拠の最大のものは、これらが(恐らく)中国近辺で成立したものである、という点にあります。確かに「経典がすべて釈尊の言説である」という釈尊原理主義に立脚するならば、これらは真っ赤な偽物になります。近代以前はこの立場から、「偽経」というレッテルをこれらの経典に貼り付けてきたわけです。
しかし本来的に、大乗仏教はその立場を取っていません。だからこそ、膨大な大乗経典が成立したのです。
釈尊は仏陀であり偉大な先達であるけれども、しかし釈尊がいようといまいと真如法・仏法は厳然とあり、それを覚した者は仏陀であるというのが、大乗の主張です。つまり、仏陀は釈尊だけに限定されていないのです。
釈尊の言行・教説を灯として修行し続けた大乗法師たちが真如法を覚して、それをまさに仏陀の声・永遠の釈尊の教説として顕した「法」が、まさに大乗経典です。

その意味で、真偽を判断するにあたっては、その地理的条件はあまり意味を持ちません。もし中国がダメならば、西域もだめでしょうし、インド南部だってダメ、容認されるのはガンガー中流域成立の経典だけ、ということになってしまいます。

ですから、経典、とりわけ大乗経典の妥当性・正統性はあくまでも内容によって判断すべきです。その判断基準は、膨大な仏教教学史を通して形成されてきた「教学的合意」をよくよく見極めることで、その「合意」を大きく外していないものはすべて正統の経典であるとすべきでしょう。
そして、最終的には個々人が真如・法に直参して、それらの教説の妥当性を自らが「分別」してそれを「超える」ことが、まさに仏教者のあるべき姿なのではないでしょうか。
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