प्रज्ञापारमिता

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泡沫のいのち

2019年10月24日 | 仏教・思索
なかばは夜に、さらにまた
そのなかばには老少を
残りをやまい、訣別に、
はた苦しみに費さば、
浪路の泡にたとうべき
人の寿命は 悦びを
そもいずれにか求むべき。


田中於莵彌『酔花集』(春秋社 1991)より、バルトリハリの詩

…………………………

一生を見てみれば、活力あり悩み苦しみの少ない時間はそう多くはない。本当に僅かな間に老病の時間に突入していくし、気づけば死が至近な次の停車場となる。
過ぎ去った思い出は良きも悪きも色褪せて遠くなり、体力も気力もなくなり、次第に自宅(施設)と病院が世界の大半となる。
二度と離れられない死の床に寝かされる日は、そんなに先のことではない。
そのような命を生きる私達は、今日いったい何をして過ごすべきか、泡沫の命を超えるものに目を向けていないならば、いったい何をかする価値はどこにあり得るのだろうか。

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真実語

2019年09月08日 | 仏教・思索
twitterから、日蓮宗の方のツイートへの僕のリプライ。

………………………

妙法・ダルマ・真如・X…は本来はコトバ以前で、それを主客分別し、その後に言語化する、その二段階を経て文化的言語的バイアスを潜らせて言語化されたのが、聖典。
日連教学的には「文底」と言えるかも知れないけど、そこを言語以前のポイントで把握していき身に落としてはじめて、真実の聖典となる。

書かれた言語はサンスクリットであれ漢文であれ現代日本語であれ、いずれそれを外してしまわないといけないんじゃなかろうか。その外した次元から改めて立ち上がるコトバ、向下のコトバ、如来語を真言と呼ぶし、題目だって名号だってアッラーの99名だって、その次元であるからこそ「真実語」たり得る。

その「コトバ以前」、また認識次元への顕現には、仏教云々以前に、諸宗教に共通の構造があるんじゃないかと考えていたのが、井筒俊彦だよね。

井筒の思想はもう古いとか、重大な錯誤、あるいは恣意的な取捨選択があるとか、まぁそれはそうなんだろうけど、彼の直感的な共通構造のありかたの指摘自体は、今なお有効だと思う。
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2019年07月12日 | 仏教・思索
Twitterで、以下のような話があった。

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空がよくわからない
と、とあるお坊さんに聞いたら
かたよらないこと
とおっしゃったけど
なかなか実感できない

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以下、僕のリプライから。

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よくそんな説明がされますが、「ドーナツとは何ですか」と聞かれて「基本は小麦粉です」と言われてもピンと来ないだろうなぁ、とは思います。間違いではないけど…と。



なかなか説明は難しいですが、万物や精神も含め、すべて縁起つまり相互依存的にのみ成り立ち、他から完全に別な非依存的に自立した存在はない、というあり方で現象的一時的に成立している状態、を空と一応ラベリングする、というところでしょうか。
ざっくりですが。



たとえばゴルフのネットがあって、右から3つ目、上から7つ目の穴があるじゃないですか。それは大きさも形もありますが、それだけ抜き出して持ち出せないですよね。その穴は周りに依存して成り立ってますから。実体もないし。
僕らみんなそういう存在ですよ、そのあり方を空と言う、ってことです。

…………………………


以上。

まぁこれはこれで良いんですが、たとえば次に「そういう相互依存的、つまり相対的ではない存在はあるのか、つまり、神であるとか」なんて論題があり得るかと思います。

しかしそれは論題になりません。

たとえば「絶対的な神」、何ものにも依存しない神、なるものを考えた時、それは既に「私に対置」されて、依存的な概念にならざるを得ません。それは絶対ではなく、相対、既に「空なる存在」です。
つまり、「絶対的な神」が「いる」としても「いない」としても、そもそも前提とされる「神」が措定された以上、それは絶対ではないので、論題としてナンセンスなんです。
だから仏教においては基本的には、神あるいは「絶対的存在」については、語りません。語れないからです。語れば、あるいは考えてしまえば、その瞬間に絶対ではなくなるからです。

法身、あるいは「果分可説」など細かい議論はまたあるわけですが、ざっくりと言えばまぁ、こんなところでしょうか。

宗派や人によって様々な立場があり、考え方も色々とあるとは思いますから、あくまでひとつの意見として読んでいただけたら幸いです。
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信、知、思い遣り

2019年06月14日 | 仏教・思索
仏教…のみならず、宗教においては一般的には信仰・信心が重要とされています。然り、それは正しい。信心為本、仏法へは信を以って能入とする、などという言葉もあります。
しかし、とりわけ仏教においては、何でも信じれば良い、わけではありません。「信」には色々な意味合いがありますが、常に知性を忘れてはならないのです。道理に合っているか、思い込もうとしていないだろうか、その信仰・信心は一種の取引や逃げの口実になっていないか。きちんと自己批判しながら吟味してゆく知性が大切です。

では、信心と知性があれば十分でしょうか?

まったく不十分です。

信心や信仰熱心でありながら戦争をする、他者を排除したり傷つける行為は古来いくらでもありました。知性があっても、それを使って同じように自己利益を図り他者を貶める所業を為す者は後を絶ちません。知性がある敬虔な信者が、他者を迫害する歴史は枚挙に暇がないのです。
外国の話ではなく、日本でもたくさんありましたし、今もあります。

大切なことは、信仰・信心と知性を両輪として、それをしっかり操縦する運転手、御者が必要である、ということになります。運転手が暴走すれば、信仰・信心と知性を両輪とする車は他者を轢き殺す凶器になり得ます。

ではその運転手とは何か。

それこそが、慈悲です。あるいは、愛と表現する宗教もあるでしょう。その慈悲、愛、より一般的には、思いやり。他者と共に生きる覚悟。想像力。傷つけ合わない平凡な幸せを互いに保証し合おうとする協働。穏やかな平安。我ひとり、ではなく、みんなが安心して起き眠りにつけるよう気を遣う。

この心こそが、運転手・御者です。
その運転手・御者がいればこそ、信仰・信心や知性は最大限の幸せをあなたや世界にもたらす力を発揮します。だめな運転手・御者であれば、事故は必然です。
そして、良き運転手・御者にはよき車が必要です。信心・信仰と知性は、自分の出来る限りは磨き続けなくてはなりません。定期的な車検を受けるように、メンテナンスも大切です。

信心・信仰、知性、それと慈悲・愛。

およそ宗教なり信仰なりを意識する者であるならば、仏教であれキリスト教であれイスラームであれ、この三つは必ず必要です。また、仮に特別な信仰がなかったとしても、たとえば「信念・目的、知性、慈悲・愛」の三つが、幸せな人生には必要でしょう。構図は普遍的なものです。

つづめれば、思い遣り。
陳腐に聞こえたとしても、やはりこれが根本です。
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変成男子

2019年06月08日 | 仏教・思索
某SNSで「変成男子」の話題がありました。

『無量寿経』だと確かに極楽は男の園だったかと思うんですが、『法華経』の場合は女のままで成仏できるんですよね。龍女については誤解があるけど、男子になったのは成仏の後の上座弟子への「折伏」のためで(あれは性別だけでなく、「子供」「ナーガ」差別にも関わると思う)。『維摩経』の天女の段にしても女人成仏を妨げてないし、「男女を論ぜず」の弘法大師のように、真言密教でもそこは同じ。そもそも釈尊自体が女性について宗教的資質が劣ることを明快に否定している。そう言えば日蓮聖人も霊山往詣について語る時、女性は女性のままであり、男子に変わるなど一言も述べていないように記憶している。

要はインドから東アジア世界における一般的な女性蔑視が後代に部分的に混入しただけで、部派と最初期の一部の大乗思想を除く原理的な仏教思想のメインライン(釈尊と大乗)に女性差別はもともとはない。が、仏教史上、強固な一般社会の女性蔑視を解消するために、しかし抜き難い男性優位観念に無意識に囚われた状態でそれやろうとしたから、なんだか複雑な理屈や描写になってしまったけど、要は表現の表面にとらわれずに「何を言わんとしてたのか」を考えれば、また見えてくるものもあろうかな、と。
もちろん現場レベルは世の常識に沿って動いてしまうから、ひどい差別は世間並みに行なわれたであろうことはわかるけど。
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真言、マントラ

2019年05月15日 | 仏教・思索
真言・マントラというのは素晴らしいものです。僕はほとんど「mantra yogin」…と言うのは僭越で言い過ぎなんですが、自行の根底は真言念誦です。

さて、真言というのは陀羅尼→真言→種字と推移するだとか、密意語だから意味は考えるな云々と言われますが、もちろん中途半端なものだとか無意味というわけではなく、観想と一体で行ずる勝義世俗の分水嶺に位置する「ことば」であります。
つまり、真言には観想がなくてはならず、その限り意味があります。文法的に解析した意味もありますが、それ以上に、実践を重ねる中で真言自体が立ち上がり動き出し、より深い意味を開示していきます。そうして、最終的には具体の意味が無化されていき、その時点で「真言の文言には意味がない」と言われるのだと思われます。決して、最初から無意味な音の羅列に過ぎないわけではない(本当に無意味なら、外国語の例文集でも意味もわからず無心に暗記したほうが役立ちます)。

真言密教の実践は難解で一般人には出来ないや…と思われがちですが、真言念誦がαでωです。然るべき人に教えを乞い、一つの真言を死ぬまで保持して一心に念ずることには、絶大な意味があります。
何の真言か…というのは縁によりますが、たとえばチベットではオンマニペメフン、でしょうか。ターラーの十字真言もありますね。
真言密教ならば、光明真言でしょう。簡単な観想の仕方はありますから、それをやりながら光明真言を暇があれば唱える生活をしてみるのもまた、善き人生の基盤になろうかと思います。
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法身説法

2019年05月14日 | 仏教・思索
「法身説法」と言ってイメージするのは、風や花、鳥や月なんかを眺める中で仏の言葉を聞く…なんていう非常に情緒的な話になり、まぁそれはそれで間違いじゃないし結構なことなんですが、裏付け的な話でなかなか面白い文章があったので、紹介します。


「周知のように、全ての密教の中でツォンカパが最も重視したのは、『秘密集会タントラ』の聖者流である。そして、その実践は、観想や念誦を主とする準備的な行としての生起次第と、精神生理学的な瑜伽によって風と識をコントロールすることにより、自らの身心を仏の色身と法身へ転換する本行としての究竟次第という、いわゆる「二次第」から成る。その内、究竟次第については彼の『五次第明灯』に詳しいが、その最終段階「双運次第」で仏果を得る「無学双運」では、行者は光明を証悟して法身を得ると同時に、その所依としての風と識から成る色身である受用身をも得るが、これら二身は同一の本質であって、ただ様相のみが異なり、故に、これを「無二の智身」と名づけ、ここから多くの化身を化作するとする。ここには、風や識などの無上瑜伽独自の要素が見られるが、法身と受用身(=根源的な色身)が一体となった「無二の智身」としての仏身は実質的に、空海が言う「自性受用仏」と同じである。この「無二の智身」または「自性受用仏」と言われる仏身が行う働き(業用=カルマ)こそが、空海の言う「法身説法」にほかならない」

安元剛『密教美術形成史』(起心書房)p.495-496



真言密教が決して半端な段階のものではなく、きちんとインド以来の根っこを押さえたものであることの一旦が垣間見えないでしょうか。無上瑜伽については考え方が多々あり、それを重視しない立場もあるのですが、いずれにしても真言密教の根底にあるポイントはきちんと底まで届いたものなのでしょうね。
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智慧、慈悲

2019年04月11日 | 仏教・思索
言語道断の智慧・彼岸の光明は、それが世俗世界に分節顕現する時には、思想哲学という形を「取らない」。それは必ず慈悲の絶えざる連鎖として伸びていく。智慧と慈悲は対置したり併置できない。一体なのだから。
思想哲学などは、それを書き写した「地図の走り書き」以上のものではない。その紙を睨んでいくら解析したり他人の地図の出来を論評したところで、それだけでは意味がない。「地図の走り書き」を見ながら、慈悲の絶えざる連鎖である仏道を「自分自身がちゃんと」歩いているかどうか、だ。
思想哲学オタク、修行オタク、それはそれで楽しいし役に立つことはあるけれど、隣人や違う立場の相手に心から思い遣りを持って、愛語を持ち、加持された慈悲を自心の中に伸ばせないならば、どうであれ無意味だろう。
逆にそれがあれば、思想哲学や修行は限りなく活きてくる。
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2019年04月10日 | 仏教・思索
「仏教では神の存在は認めるが意義は認めない」とか、「一神教とまったく概念が違うのが仏教」という説にはどうにも違和感があるんだよなぁ。
だいたい、天部の神を一神教のゴッドと対置できるのだろうか。むしろ天使の類ではなかろうか。
創造主としてのゴッドは、ある次元では神話的なものだけど、それこそある次元では阿弥陀如来も久遠実成の釈迦牟尼仏も通俗的なゴッド的受け止められ方をしていないだろうか? そしてより高い次元では、ゴッドも「ありてあるもの」で法身的な感じになるし、「人格以前の」言語道断のそれ、象徴としての光とか、ほとんど比較や相違を絶したポイントにたどり着く。
意外に突き詰めた極限では、そこまで違いはないのではなかろうか。
ゾクチェンの水晶の喩えではないが、光のスペクトルの現れ方の違い、文化規定の表層構造に幻惑されているだけで…。
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寂静、明晰

2019年03月05日 | 仏教・思索
人生においては様々な経験をします。それほど波乱万丈ではない平凡な人生であれ、刺激のない人生であれ、人はその刺激のなさを対象にして心を右往左往させていくもので、それらの心の動きと蓄積を、まさに「経験」と呼ぶのです。決して、目新しい外部の出来事を「経験」と呼ぶのではありませんから、経験豊かかどうかは、各人の心をに依ります。
また、それぞれの状況や環境、動機に従って人は知識を蓄積します。その知識により新たな経験を通過し、時に劣等感や慢心という心を強化していきます。
当然、経験や知識によって、感情が生まれます。この感情は経験と知識を撹乱し、内にまた外にそれらを漏れ出させ、拡散し、周囲を巻き込み、自分自身の経験や知識を変化させながら、新たな感情を育てます。

もちろん、これらの経験や知識には、一般的には良いものもあり、悪いものもあるでしょう。良いものを大切にしていくことは生活する上で重要です。
しかし良きにつけ悪しきにつけいずれにしてもこれらは、相対的な次元で経験と知識と感情が絡み合い蠢いているだけで、結局は流転する世界の中で浮き沈みするだけであり、それらは究極的な苦の解決、自己や世界の真実に導く働きは有してはいないのです。「うまいこと遣り繰りしても」、苦の再来は影のように私たちに寄り添い、避けがたいのです。

それを解決するには、まず生活を重視し、経験と知識と感情を丁寧に見つめ、その絡み合いを解きほぐし、分析することが大切です。そうすれば、それらの実態が蜃気楼のように無常で儚いものだと明確に見えてきます。そしてそれらに覆われて溺れる私たちは実はまったく溺れる必要がなかった存在、如来そのものであったことが理解できるでしょう。そうなれば、経験や知識や感情に私たちは巻き込まれ流転することがなくなります。それらを慈悲として活かし再生することができるようになります。

ただそうは言っても、現実に感情に押し流されて迷いどっぷりのままでは、正しく解きほぐしも分析もできません。経験や知識に頼って、知的操作でわかったような感情が生起して、結局は同じ事なのです。
ですからまずは静寂を学ばなくてはなりません。いわゆる「定」です。定波羅蜜です。坐禅なりマントラなり方法はいくつかありますが、いずれにしても静寂を学ぶことが肝要です。これは平等心です。
次いで、明確なる観察、分析。これらは単なる知的操作ではなく、むしろ「目的を持たずにただ」明確に観ずることで、自然に分析が起こります。これによって、慧が生起して来ます。自己の本質、世界の秘密が見えてきます。

静寂、そして明晰。

これらを透過するところ、人生の様々な経験や知識、感情がはじめて、縛りや迷いの機縁とならずに十全に働き始めます。迷い苦しみの流転の因にならなくなるのです。
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