प्रज्ञापारमिता

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金剛般若経

2019年08月20日 | 閑話休題
僕の持経は「金剛般若経」・念持仏は般若仏母ですが、この度ちょっとした縁を得て、台湾・国家図書館に蔵されている、600年以上前の元代、中興路資福寺で製作された経典の復刻版を迎えました。

  

「金剛般若経」持経功徳分第十五に

須菩提在在処処若有此経一切世間天人阿修羅所応供養当知此処則為是塔皆応恭敬作礼囲繞以諸華香而散其処

…とあります。つまりこの経典がありるところ、そこは仏塔である…と。今回、原寸大判を持仏間に奉安させていただきますので、めでたくそこが仏塔となった次第です。
もちろん、内容を理解して受持して伝えることの重要性を力説して已まないのが「金剛般若経」ですから、奉安しただけで満足してはなりませんが。



那謨婆伽跋帝 鉢喇壞 波羅弭多曵
唵 伊利 底伊 室利 輸盧駄毘舍耶 毘舍耶 莎婆訶

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開山忌

2019年07月11日 | 閑話休題
7/26(金)は「福楽寺開山忌」。
当寺の開山上人は奈良時代、行基菩薩です。

午前9時くらいから卒塔婆受付開始、正午前くらいから昼食のお接待を行います。その後、13:10から法話、14:00から開山忌法会、14:50頃から初盆特別施餓鬼、15:30頃から卒塔婆供養です。

本堂はめっさ暑いです☀が、助法諸大徳様方ともに、頑張って勤めますので、ご参詣ください。昼食を食べたら帰る方のほうが多いのが現状ですが、法話〜法会にも是非…。

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すーくんとお地蔵さま

2019年06月21日 | 閑話休題
今回ご紹介するのは、ある檀家さんが書かれた童話です。
許可をいただき、掲載いたします。


……………………………

『すーくんとお地蔵さま』

あるまちに、すーくんというおとこのこがいます。
すーくんは、とてもあかるくて、げんきいっぱい、やさしさあふれるにんきものです。
そんなすーくんは、ふしぎとおじぞうさまのこえがきこえるのです。


ふしぎなおはなしのはじまり…

すーくんは、2さい。
すーくんのおうちのまえには、ポツンとさみしそうなおじぞうさまがいます。

すーくんは、おさんぽのとき、おじぞうさまをみつけると、だれもおしえてないのに、かならずしゃがんで、ちいさなてをあわせておがみます。
ことばをはなせるようになったあるひ、ママはすーくんにききました。
「おじぞうさんは、なんていってた?」
すーくんはいいました。
『おじぞうさんは、ごはんたべたいって』
すーくんはそのころ、たべたいということばがいえず、ぱべたいといっていました。
ママは、ちいさなおさらにおこめをいれておそなえしました。

おじぞうさまは、ふるくてかおがみえないくらいすりへっています。
おじぜうさまのまえは、むかしながらのみちと たんぼがありますが、そこをとおるひとはほとんどいません。
おじぞうさまのうしろがわにはどうろがあり、くるまがびゅんびゅんはしっています。

すーくんは6さいになりました、
ママは、すーくんにいいました。
「おじぞうさんに、しょうがっこういくんよっていいにいこうか?」
『うん』
すーくんはスタスタとおじぞうさまにちかづき、
『どーしたの〜? なきよるの〜?』
おじぞうさまをさすりはじめたのです。
『おなかがすいちょるんて。
あぁ〜おかおが…どうしたの〜?
あしがいたいの〜?』
すーくんは、しんぱいそうにおじぞうさまのぜんしんをなでていました。
そして、とてもやさしくはなしかけるのです。
ママは、すーくんがしていることをぼうぜんとみていました。
6さいになったし、もうなにもいわないかとおもっていたけど、あんなふうにしぜんにおじぞうさまにふれることができるのは、やっぱりすーくんだなと、ママはおもいました。
いえにかえり、ゲームをしはじめるすーくんにききました。
「すーくん、おこめじゃなくて、りんごでもいい?」
『いいよ。ママがおいてきてよ。あしがつかれたからすーくんはいけない』

ママは、りんごをうさぎのかたちにきりました。
そして、すーくんのおとうとをつれておじぞうさまにおそなえしにいきました。

すーくんは9さいになりました。
おうちをたててひっこしをし、2ねんのつきひがたっていました。

ママは、ふとおじぞうさまのことがきになりました。
そして、そのよるゆめをみました。
  「すーくんはすごいこですね
   ちゃんとかんじとれるこ。
   おじぞうさまにあいにいってあげて…
   おなかはがすいているみたいよ。
   あとね、どうろがうるさいからかべがほしいみたい…
   むりなら、ぬのでおおってあげて
   たべものは、ひとがたべるのとおなじようにしてあげて…」
ゆめにでてきたのは、キラキラとした、めがみさまのようでした。

つぎのひ、ママはおじぞうさまのところへいきました。
まえは、おはなだけはいけてありました。
いまはくさだらけ…おはなもありません。
どうやら、おせわをしていたひとがだれもいなくなったようです。
ママは、くさをぬき、よういしてきたおおきなくさもちを、たべやすいようにほうちょうではんぶんにきりました。
ヤクルトにストローをさし、おにぎりはラップからはずしておそなえしました。
そして、おじぞうさまのからだに、ピンクのふろしきをまきました。
そのすがたは、とてもかわいらしくみえました。

すーくんにおじぞうさまのことをはなしました。
もちろんおぼえていました。
むかしは、おこめをそのままあげていましたね。
「おにぎりがよかったみたいよ」
というと
『そりゃーそうかもね…』

9さいのすーくんはいうのです。
『たべるものがなかったから、くさをたべるしかなかったんよ』
そんなこともいっていました。
すうじつご、すーくんをつれておじぞうさまにあいにいきました。
すーくんは、
『めがなくなった…』
といいました。
ママは、びっくりしました。

おじぞうさまに、おにぎりとヤクルト、おせんべいをおそなえしました。
すーくんに、おじぞうさまと おなじおにぎりをわたしていっしょにたべました。
やさしいかぜがふき、とてもおだやかなじかんがすぎていきました。

すーくんは11さいになりました。
それからも、すーくんとママは、おじぞうさまのために たべものをおそなえするようになりました。

そんなあるひ、ふたりはきづいたのです。

『あれ? おじぞうさまのおかおが…
まるくなってる!』

たべものわおそなえするようになり、おじぞうさまのかおはまるくなっていったのです。

すーくんはいいました。
『ありがとう…っていってる』

おじぞうさまには、めも はなも くちもないけれど、そのすがたはまるでほほえんでいるかのようにみえました。


めにみえないものが、みえる、きこえる

あなたはしんじられますか?

みなさんのおうちのちかくにもおじぞうさまはいますか?
もしいたら、はなしかけてあげてください。
きっとよろこんでくれますよ。
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あけまして

2019年01月01日 | 閑話休題
あけましておめでとうございます

旧年中はお世話になりました

本年もどうぞ宜しくお願い致します



毎年、ことしはどういう一年にしようかと考えたりしますが、考えたところでそのように進むわけではなく、取り敢えずは右往左往して心が折れそうになりつつ、なんとか一年を乗り切って新年を迎えられたこと、ホッとしてます。
未だに「生きること」に慣れないままで生活することに精一杯、善知識にならなあかん坊さんとしては皆様に申し訳ない気持ちですが、もがいてます。

今年は元号も変わるし、僕自身、色々と変えていく必要も痛感しておりまして、アウトプットを減らしてインプットにシフトした一年にしたいと考えてます。知識面という意味だけではなく、何と言うか、階梯…僧侶としてもそうだし、人としての。階梯を一段、上がりたい。惰性もあり、停滞気味で辛い。

そんな感じで。

頑張ります。
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ムカつく?

2018年12月04日 | 閑話休題
僕は典型的な瞬間湯沸かし器で、キレやすい現代っ子そのもの(笑)です。誤魔化すのは得意なので「怒らなさそう」と檀家さんには言われますが、そんなことないんです。
しかし冷静なときに冷静に考えてみますと、怒る、というのは成立しないんですよね(社会悪に対する正しい怒り、とかいうのは別にして)。そもそも原理的に「自分などない」とか主客分別が云々、ということもありますが、取り敢えず目先の現実に沿って考えてみます。

まず怒ると言うときには、大抵の場合、他者から不愉快な言動あるいは雰囲気を投げられたときですね。その場合、大雑把にざっくり分けてみると、それをされる原因として大きく2パターンあり、ひとつは「自分に原因がある場合」。もうひとつは「相手に原因がある場合」です。まぁ100%、ってことはないのですが、ざっくりと。

で、前者、自分に原因がある場合は怒る資格ないですね。手前勝手ながら相手になすりつけて怒るんですが、少なくとも2回に1回は自分に責任があるはずです。
相手に原因がある場合は、こちらに非がないのに怒るというのは非常に我が強いというか、三毒が強いわけです。それではきっと普段からかなり苦に迫られた精神状態のはずです。そのうちその果をどっさり受けなくてはならず、非常に恐ろしい状況に陥ることは必定。そんな執行猶予のような状況の人に怒るなんて、慈悲がなさ過ぎますね。
しかも自分を顧みれば、自分こそ執行猶予中みたいなもので、御同病、怒るのではなくてむしろ連帯して向上していかねばならない仲間みたいなものです。鏡に向かって怒っても生産的ではありません。

結局、具体的な問題があれば粛々と解決を模索したらいいのであって、怒りを原動力にする必要はないし、往々にして怒りはされた以上の報復になります。心の中で「着けられた火」以上に燃え上がらせてから他者に向かうからです。
また逆に、他人に火を着けておいて「何を燃えてるんだよ(笑)」と煽るのも怒りの表現の一種です。他人を軽視する、自分と違うものバカにする、請われもしないのに指導しようとする、無視する、様々なパターンがありますが、すべて三毒に根ざしています。

僕も昔に比べれば随分と穏やかになったと思いますが、まだまだです。
観想と地道な牛歩の実践を粘り強くやり、少しずつ進むしかありません。成果は必ずありますから。
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衣替え・犬

2018年10月01日 | 閑話休題
遂に10月、衣替えの時期になりました。
まだ冬用の法衣は若干、暑いですね~…特に日中は。

それはそうと。

うちには10歳になる犬がおりまして、善哉といいます。

僕がこの寺に来た半年後くらいに生まれて、生後1ヶ月から一緒に住んでいるんですけれど、最近ちょっと体調が悪そうで、散歩中にすぐへたり込む、足がふらついてしまう…という状態で、あまりに急にそんな感じになっちゃったもので、病院に行ったところ…どうやら心臓が悪いみたいです。
取り敢えず10日間くらい薬を飲ませて、もう一度その後に病院で再診察を、となりました。薬を飲んで数日ですが、やっぱりへたる。散歩し始めの数分はいいんですが。

うちは子供もおらず、みんなよそからやって来た僕と副住職の妻と善哉と、この10年ずっと同志的な感じで頑張ってきたのですが、いよいよ善哉は一足早い「老後」に入ってきたようです。

秋の気配が日毎に増してきていますが、今年の冬は犬小屋の配置を屋内に移すように考えています(これまでは半屋外…雨は当たらない場所ですが)。もともと真夏や真冬は色々と考慮していたんですが、もうそろそろ外は厳しいかも知れません。外は好きみたいだからかわいそうなところもあるんですけどね…。
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新年

2018年01月01日 | 閑話休題
 ← 副住職作。

この正月、うちは喪中なのですが、お寺の正月については喪中もへったくれもなく、例年通りです。檀家さんのためのしつらえですから。
今年もみなさん、心穏やかに過ごせますように。

さて。

昨年はひたすら体調の悪い、身体的にトラブル続きの一年でした。まぁ多少痛いのとかは構わないのですが、自律神経がイってしまって寝込むのは勘弁ですね…これは辛い。何もできなくなってしまう。
今年はちょっとはマシになればいいんですけれども。2月~4月頃がいつもダメなんで、気をつけて過ごしたいと思います。

ところで、例年「今年の抱負」的なことを述べたりしてますが、半月もすればほぼ忘れてしまってるので、今年はやらないでおこうかな…と。
ただまぁ、仏教については、もうちょい進歩したいかな、とは思ってます。具体的に何が、ということではなく、全体的に。知識というよりも、振る舞い全般に慈悲とか、そういうことをきちんとフィードバックできるように。

ま、相変わらずぼちぼちやります。なるべく無風に過ごしたいです。

そんな感じで、本年も宜しくお願いいたします。





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そろそろ年末年始

2017年12月23日 | 閑話休題
明日はクリスマスイブで、あと1週間ちょっとで今年も終わっちゃうわけですけれど、さて皆さん、今年はどんな1年だったでしょうか。良いことも悪いこともあったと思いますが、まぁ今年を振り返りつつ、しっかりと1年を締めくくる1週間にしましょうねー。

年末年始は僕もビミョーに忙しくなります。1/8くらいまでは落ち着かない。気分的に。隙間時間はあるんですけど。

ってことで、スッタニパータは半月、お休みします。ちょうどダニヤの経が終わったからキリもいいし。弘法大師の言葉は、余裕があったらアップします。明日は書きます。

来年は毎日更新はさすがにキツいんで、週休2日制くらいでやろうかなー。
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紙の本に

2017年09月15日 | 閑話休題
約10年かけて溜まってきた「法話関係」「仏教・思索」「仏教質問箱」あたりの記事をまとめてきちんと手を入れて、紙の本の形にしたい。目的は「檀家さんに配布したい」「パソコンが使えない親に渡したい」というのが最大の目的だけど、一般の方にも多少は参考になる記事もあると思うので、できたらきちんとした形で…。

どこか出してくれる会社はないだろうか?

檀家配布その他で250部はこちらで買い取ります。
もし出版関係の方がここを見てましたらば、ご検討いただけたら…。

連絡は、harch75@goo.jpまで。
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相対化

2017年06月27日 | 閑話休題
推敲なしの書き散らしですから、まとまってません。

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「専門バカ」というという言葉があります。
これは「狭い自分の専門分野に詳しい人」…という意味ではなく、その狭い自分の専門分野を振りかざしてすべてを判断している独りよがりな自慰野郎、というニュアンスが大きい言葉だと思われます。
単に狭い専門分野しか知らないだけならば、狭くとも専門分野がある時点でそれはそれで素晴らしいことだと思いますから、他人から「バカ」呼ばわりされる謂れは更々ありません。
「専門バカ」の場合、その狭い専門分野で他の分野、特に世間知や社会問題などについてうっかり発言して意味不明なことを口走ってしまう、いわゆる「その道の権威」のことを言うわけです。
いくら特定分野の大学者であっても、知らない分野は知らないものであって、単なるド素人でしかないのですが、そこをどうも勘違いするんでしょうね。

仏教(仏教学ではない)というのは人事百般に取り組むものですから、何でもかんでも発言は可能です。しかしそれはあくまで「仏教の立場から」の考えであって、その価値観を共有していない人が相手ならば、もはやただの「根拠のない意見」のひとつに過ぎなくなります。
そういう意味で、「俺は語れる」などという妄想は捨てた方が良いでしょう。

さて、そうは言ってもやはり、人は語らねばならない時もあります。特に僧侶なんかだと。
その時、例えば「仏教の専門バカ」みたいに特定宗派しか知らない、もうちょいマシでも仏教しか知らない、のにそれでもって一般化して語る、では困ります。きちんと自分の立場を相対化できたうえで語らなければ、それば「仏教バカ」であって、一般社会への説得力は持てません。
相対化できるのが「真の専門家」で、できないのが「専門バカ」です。
なお、たいして専門知識もなく努力もしていないのにハッタリや肩書きで専門家面してるのは「ただのバカ」です。

さて、つまり問題はどうやって自分の知識や専門、立場をきちんと相対化したうえで、なおかつその真理性や普遍性を語れるか。僧侶にとってはここが大事。成功しているかどうかはともかく、その努力がたとえば、教相判釈とかいうものです。
これは仏教内部の話なんですが、現代においてはさまざまな価値観や宗教、社会問題が噴出しています。ですからもはや「自分達の価値観だけで万事を判断する」ことは、個人の信条としてはそれで十分でしょうが、はっきり言って世間で説得力を持たない。また自分自身の問題としても、多少なりものを考える人ならば、そういう思考の構えだと行き詰まってくるでしょう。井の中の蛙として仲間内で自慰するだけならそれで構いませんが。

そこでやはり、自分の立場をきちんと適切に相対化して言語化する作業は必要になってくると思うんですが、その場合、やはりカウンターの設定をしておくことは役に立ちます。
たとえば僕は真言宗ですが、真言宗をきちんと理解するためには釈尊以来の仏教全体、チベットも中国も他宗派についても、それぞれの立場をなるべく色眼鏡なく押さえておかなければ、真言宗の位置もつかめなくなります。そして仏教をわかるためには、仏教以外の思想をしっかりと理解しておく必要もあるのです。
すべての思想を学ぶことは現実には無理です。仏教ひとつやるだけでも大変です。他の宗教や思想哲学を平行するなんて一部の知の巨人を除いては無理でしょう。あまりそういうことを熱心にやって仏教がおろそかになるならば、本末転倒になります。
しかし何かしら、自分の位置を相対化するために、仏教以外のものをあ(尊敬を持って)しっかり学んで押さえておくことは、やはり大切だと思います。
その時、できたら自分の立ち位置とは距離のあるものを選んで(繰り返しますが、尊敬を持って)学ぶのが効果的かと思います。あまりに近似の思想だと、境界が曖昧になって混乱します。また、多様な価値観による相対化にとってはインパクトが少ない。

重ねて言いますが、専門バカは救いがたく、不誠実ですらあります。
専門バカと専門家の相違は知識の多少というよりも意識のあり方なのですが、それでも自分の専門を相対化するために、「もうひとつのサブ専門」を作り、意識的に突き合わせて「外部言語を獲得する」ことは重要ではないかと。
それは特に仏教者にとって。自利利他どちらにしても、相対化できる意識のない者は、あまり説得力も一般性も持ち得ないのではなかろうか、そうして他者への働きかけが井戸の中で完結してしまうなら、この世界からいずれ消え去る運命になる、と思うからです。
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