प्रज्ञापारमिता

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2019年04月14日 | 東亜仏典の言葉
遇い難き仏法に遇えり。このたび出離の業を植えずば、いつをか期すべきと思うべきなり。

法然『十二箇条問答』


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釈尊在世の時代に巡り合わなかった、あるいは龍樹菩薩なり祖師の時代から今は遠く隔たり、仏教も形骸化してどこもかしこも金策やら社会的位置づけの如何に汲々として、果たして仏教はどこにあるのだろうか…という嘆きは、恐らく心ある人たちの共通した思いかもしれない。
これは日本だけではなく、海外の仏教を眺めても大なり小なり似たような感慨を抱いてしまう。現代社会においては仏教は間違いなく斜陽だし、人々もまた、仏教を奉じながら内実におけるダルマへの随順は希薄化して硬直化する一方だ。何かしらの紙一枚にまとめられた「正解」を求めて、インスタントにコトバに頼る。

そんな現状であれ、しかしそれでもダルマはいささかも衰えてはいない。加持は変わらずに働き続けていて、要は我々の受持力が細くなり、加持が一方通行になりゆき、勝手に我々が道から目を逸しているだけなのではないか。

時代のせいにしてはならない。
いつだって、指針はある。それは変わらない。何なら、現代ほどダルマ「についての」指針(無駄話も多いけれど)が溢れている時代はない。
その洪水の中から真に大切な水の流れを見出し、その後は、我々が如何に考え、如何に動き、如何に語るのか。いつか、ではく、今から間髪を入れずに、「あるべきよう」に、生きていたいものだ。
それはいつだって完璧に可能な生き方なのだから。
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人間崇拝

2019年01月11日 | 東亜仏典の言葉
当に知るべし、衆生は自ら度するべきものにして、仏は度すること能わざることを。努力よや、努力よや。自ら修して他の仏力に椅ることなかれ。経に云はく、夫れ法を求めむ者は仏に著いて求めず。

『頓悟要門』

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「日本仏教の特徴の一つは人間崇拝にある」とは中村元先生の指摘を俟つまでもなく、インドや中国の仏教を鑑みても確かにそれはそういう傾向があるかな、とは思う。確かにどの国や宗教についてあってもカリスマ崇拝はありうるし、また現にあるわけだけれど、理屈や思想的基盤を突き詰めるよりも、現前の人や事態に随順する傾向はやはり強め、とは言えるだろう。
「信」についての日本独特の(信を初門ではなく究極の立場に置く)信中心主義、たとえば日蓮における「以信代慧」「末代幼稚の頸に…」などは典型だし、また真宗などもそうだけれど、智慧より信、ダルマより人格的仏、仏より現前の人、原理原則より状況、という抜き難い傾向、これを長所と考えるか短所とするかは様々な立場があるだろうけど、まぁ、日本仏教の特徴のひとつとは言えるだろうかな。
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宗論はどちらが…

2018年10月30日 | 東亜仏典の言葉
摩訶般若波羅蜜多とは、洞達にして底なく、虚豁にして辺なく、心行処滅、言語道断なり。数術を以て求むべからず、意識を以て知るべからず。

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立派な文章ですが、仏典の言葉ではありません。
僧侶の文でもありません。
これは梁の武帝によるもので、『大品般若経』注釈に皇帝自ら序文を書いたものの一部です。
仏智とは限りなく広く深く清浄なもので、心で推し量ることもできず、言葉で表現することもできず、数字で確定的に提示もできず、つまり主客相対の認識という枠ではどうこうできないものなのである、ということです。
根本です。
ところが、そういう表面上の仮の便宜に過ぎないものを振りかざして争う、慢心し蔑視する、そういうことが仏教においても延々と繰り広げられてきたし、今もそうです。
「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」というのは、なぁなぁで穏便に、ということではまったくなく、そもそも争いの根底にある僕たちの認識に関わる誤謬にこそ、その問題の根っ子があることを示しているのではないでしょうか。
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智慧と慈悲

2018年10月15日 | 東亜仏典の言葉
口先に説くだけで実行しなければ、<道>を体得するわけがない。たとえば、高い山に登ろうと思えば、道に迷わないように、また足を傷つけないように気をつけて、歩いていくだけでよい。そして、歩き続けて休まなければ、山頂に達する機会をもつことができるようなものである。このごろの者が、仏法を体得することができないのは、ただ教理の深浅や教説の優劣を論ずるだけで、実際に修行しないからである。たとえば、高い山に登ろうとしておりながら、麓にいて山上の景色の素晴らしいことを話したり、あるいはまだ一歩も登らないのに山道の曲折を論じたりするようなものである。おそらく話しているうちに、日はとうに暮れてしまうであろう。

『十善法語』


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実践しない知識は無意味である、という当たり前のことが書いてあるだけですが、ちょっと違う角度から考えてみたいと思います。

仏教は「智慧と慈悲の教え」と言われます。
智慧と知恵と知識の相違は大きいのですが、ここで言う「智慧」とは要するに、「縁起・無自性・空」を確実に覚する、ということです。我・我所執を立てない。分別心を遠離することです。
まずこれが重要です。
そうして、この智慧あるところ、自然に分け隔てがあり得ない苦を脱した境地が現前し、大慈悲心が出てきます。
もし大慈悲心が出てこない、やはり私とあなたは違う別のものだという感覚が湧いてくるならば、智慧はまったく完成されていない、ということです。これは知識をどれだけ積んでも、分別心を基本とした知恵をいくら発達させても、届かないのです。

俺は仏教がわかってる、空も縁起も理解している、といくら誇ったところで、慈悲の行動(身口意)にそれが繋がれていかないのであれば、何の役にも立ちません。

実践というのは、何も念仏や座禅が実践ではないのです。僕たち山に登らせるのは、大慈悲心なのです。それ以外のものは、たとえば地図であったり食料であったりアイゼンであったりテントであったり資金であったり…それらは不可欠ですが、それをいくら揃えても山には登れないのです。大慈悲心という「この脚」を動かすことが根本です。

脚を動かして実際に登ること、慈悲の心、愛語、行動こそが、仏法なのです。あそうしてこの登山するという脚を動かす動機が智慧であり、それ以外は助縁です。無論すべて重要ですが、根本を見失ってはならないのです。
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暑さ寒さ

2018年10月08日 | 東亜仏典の言葉
ある僧が洞山大師に問うた。
「暑さ寒さがやってきたら、どのようにこれを避けたらよろしいでしょうか」
洞山は答えた。
「どうして暑さ寒さのないところにいかないのか」
僧はいった。
「暑さ寒さのないところとは、どのようなところでしょうか」
洞山は答えた。
「寒い時は寒いだけ、暑い時は暑いだけだ」

『碧巌録』


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暑い寒いを云々して悩むのは、いつも「今ここにないもの」と比較してああでもないこうでもないと思い煩うからだ。
貧乏も美醜も地位もなにもかも、「今ここ」に生きていないから、いつも過去や未来、よそにあって手が届かない何ものかと比べているからだ。
今、暑いかもしれない。そう、ただ暑いのである。涼しいところと比べて暑さを嫌うから苦になる。今ここに涼しさなどないのであって、暑いときは暑いだけである。
今、寒いかも知れない。そう、ただ寒いのである。暖かいところと比べて寒さを嫌うから苦になる。今ここに暖かさなどないのであって、寒いときは寒いだけである。
それだけのことを、暑いときに涼しさを、寒いときに暖かさを妄想して「今ここ」から離れてしまうから、暑さ寒さに振り回されて苦しくなっていく。暑い寒いが苦しいのではない。あなたが妄想によって苦しんでいるだけだ。
貧乏も同じことで、比べなければ貧乏もない。病気も同じ。健康な誰かと比べるから苦になる。貧乏も病気も、それはそういう「今ここ」である、という以上の意味はない。
体がしんどい、食うに困る。それが生活の具体的な不都合であるならば、それを淡々と改善していけばいいのである。
しかしそれによって心が苦しくなってしまうのは、行き過ぎである。暑い寒いで体調が悪くなるなら、改善すればいい。それだけの話だ。「今ここ」でない何かと比較して思い悩むことに意味はない。余計な苦を生むだけである。
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ブッダ先生

2018年10月07日 | 東亜仏典の言葉
汝は「仏はわが師である」と考えているけれども、仏は空であり、異教徒も空であるから、ともに一相であって、二つが別のものではない。故に異教徒もまた、汝の師である。もし異教徒が汝の師でないならば、すべては空であって二つのものの対立がないという道理に照らして、仏もまた、汝の師ではないということになる。

「維摩経義疏」


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空とはもちろん「虚無」ではなく、縁起性であり無自性のことであって、要はすべてのものは関係性の中で成り立つものであり、何ものかAは、それ以外のすべてのものがそこに関わって「それをそれたらしめている」ということである。

目の前の蝶がひらひら庭を舞うためには、全宇宙の存在が必要であり、そこに関わらない何ものもありえない、ということだ。もちろん、この目の前の蝶がいるからこそ、この宇宙はこの宇宙たり得ている。もしこの蝶がいなければ、その宇宙は、いまここにある宇宙とは何がしか違うものであるしかない。

それが空であり、存在は別個バラバラにあるのではなく、すべてがお互いに支え合い絡み合ったひとつの構造体である。

つまり、ブッダは我々の先生であるけれど、空である以上は全宇宙が先生でありブッダである。もしそれを認めるならば、異教徒であれ敵であれ、それはブッダをブッダたらしめる存在であり、ブッダそのものであらねばならない。彼を異教徒であり敵であり先生でないと言うならば、ブッダも異教徒であり敵であり先生ではない。

あなたが見るように宇宙全体が「そのようになる」。

もちろん先生にも多様な働きやケースバイケースの現れ方がある。しかしどれもブッダであり、先生であることに変わりはない。
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三蔵

2018年10月05日 | 東亜仏典の言葉
三蔵に三義あり。
内は定慧戒を為し、外は経律論を為し、
陀羅尼を以て之を総摂す。


唐円敬『唐故宝応寺上座内道場臨壇大律師多宝塔并序』

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6年前にこのブログでも紹介した言葉。「三蔵」と呼ばれる人とは如何なる人物であるか、ということを示す文章です。
三学を内に据えて、経律論を講説し、陀羅尼真言ですべてを包み込む…いや、言語以前のゼロポイントと形而下との結節点としてそれを体現していく。
そこまでやれて三蔵という。
経律論を研究講説のみあって三学なし、陀羅尼真言の義理もわからないならば、それは字面のみの頭の体操に過ぎないのだろう。
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こだわる

2018年10月03日 | 東亜仏典の言葉
知識による理解を積んで智慧を得たことで、さとり得たと思うのは正しくない、といわれる。この言葉に基づいて、ある人は、知識による理解を捨てて、道にかなう者になろうと思う。しかし、この人は、知識による理解を捨てさえすれば、という執着の思いに妨げられるから、道にかなうことができないのである。

夢窓国師『夢中問答集』


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「私は服装にこだわらない」と言って敢えて雑な格好をする者がいる。「礼儀にこだわらない」と頭を下げない者もいる。「私らしくいたい」と人と違うことをする者もいる。
本当にこだわらないならば、あるものは使えばいいし、世の常のことはさっさとそのようにやればよい。それだけのこと。そうでないから、いつも対象概念に縛られて不自由だ。
言葉にこだわらない者は、言葉をよく使える。そこのこだわる者、それが取る者であれ捨てる者であれ、どちらも言葉に縛られて沼に沈む。
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無明

2018年09月30日 | 東亜仏典の言葉
穢身を悪んで、仏身を尊ぶ。
これを無明と名づけ、又、妄想と名づくなり。

覚鑁『阿弥陀秘釈』


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縁起・無自性・空である。

無明とは何か。それは分離である。分割である。
主客相対に思考が縛られて、卑下や高慢や信仰や侮蔑が心に根を下ろして知らず泥沼に笑顔で、あるいは憂鬱な顔で沈んでいくことである。
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東亜仏教世界

2018年09月30日 | 東亜仏典の言葉
東亜仏教。

基本的に僕はこの言葉を、中央アジア大乗仏教、中国大陸、朝鮮半島、台湾、ベトナム、そして日本において「漢字を使って実践されてきた仏教の伝統」という意味で使っています。
これからこのカテゴリーでは、そういう伝統において語られた言葉を、時々紹介していきたいと思います(弘法大師空海については別にカテゴリーを立てています)。主には論書や先人の語録などですが、様々な立場のものを紹介したいと思ってます。

なぜ東亜仏教に限定しているのかと言いますと、インド仏教やチベット仏教は放っておいても巷に良く紹介されているし、親しみやすい本もあります。また評価も高い。
しかし残念ながら東亜仏教は徐々に忘れられつつあり、あまつさえチベット仏教やテーラワーダよりも下であるかのような扱いをされたり、古臭い遺物…時にはよく知ってもいない人からは侮蔑の対象になったりもしています。

本当にそうでしょうか?
そんなに価値がないのでしょうか?

こういう場所で体系的な紹介は出来ません。しかし色々な文章の断片だけでも紹介することを通して、その奥に意外に深遠なガチの仏教思想の世界が広がっていることを、ちょっとだけでも知っていただけたらな…と。
そう願っています。


なお文章は、「訓読文」もしくは「現代語訳」のどちらかで書きます。
現代語訳の場合は私訳の場合もあるし、東大仏青『現代人の佛教聖典』(大蔵出版)その他の文献を使う場合もあります。予めご了承ください。
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