प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

国家と宗教

2018年10月04日 | 時事関連
新しい文科相の「教育勅語発言」問題のニュースを見ながら、そもそも宗教者としての国家とは何かな、と、少し考えてみた。

「国家」というアラビア語は「ダウラ」といって、「移ろい易いもの」という意味だそうだ。確かにイスラームにおいて「移ろわないもの」は神のみであって、他はすべて移ろい易いものに過ぎないわけだけれど、殊更に国家をそう呼ぶのは、これが持つ吸引力が強くまた偶像視されやすいからだろう。国家を体現する独裁者の巨大な肖像画や銅像は世界中に見られる。

実はこういうものへの覚めた(冷めた)視点というのは、本来は仏教にも共有されているのではないか。イスラームにおいてはダウラよりもウンマ・信仰共同体が本来的な公共単位であるけれど、仏教においてもやはり国家よりサンガ(四方サンガあるいは菩薩ガナ)が意識の上では本来的なまとまりとして意識される(キリスト教にもエクレシアという概念がある)。現実の政治単位は便宜的、二義的なものだ。具体の生活に有用な限り活用される(ここでは王政か民主制か社会民主主義かは問われない)が、それは上位概念である宗教を統制できない。

こういう思想は近代政治学理論と相容れないかも知れないけれど、宗教の側からの国家観とは本来、そういうものなのだろう。その点で、現実の国家と宗教を政治の側から統一的に構想するのは国家主義と見なされて否定される。そのような立場の宗教とベクトルが違うのであり、仏教が国家ありきの国家神道(もちろん共産主義も)を拒否するのも、恐らくはこのような観点から考えられると思う。

そうして、逆に宗教の側から国家を統制するという立場も当然ここから出てくるわけで、日本に於いては加賀門徒がそうだったかも知れないし、中国の太平天国や現代イラン、ISISもその系譜に連なるのかも知れない。その体制は当該宗教者以外には国家神道と判別がむずかしいだろうけれど、構造がやはり違う。
もちろん当該宗教者以外にとっては、どちらにせよ圧迫者が国家か宗教かの違いに過ぎないわけだけれど。

仏教者として、教育勅語、ひいては国家、天皇とは何か、果たして宗派というものがサンガ・ガナとして位置づけられるのか、それとも国家的性格の虚像なのか、現実の政治単位とどう関係すべきなのか、考えるべきことは多いと思う。
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パリでのテロ

2015年11月14日 | 時事関連
フランス・パリで連続テロ。
現時点で、100名を遥かに越える犠牲者。

 互いに助けよ
 闘うなかれ
 互いに融合せよ
 破壊するなかれ
 調和と平和
 而して
 無益に争うなかれ

        ~ヴィヴェーカーナンダ~


 この世において 
 いかなるときも
 多くの怨みは怨みによっては
 決してやむことがない
 怨みを捨ててこそやむ
 これは永遠の真理である

           ~『ダンマパダ』~
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安保法制について

2015年07月16日 | 時事関連
このブログでは、あんまり「重めの」政治に関しては基本的には書かないようにしています。
檀家さん、仏教徒の方には色々な政治的立場の人がいますし、基本的にはこのブログは「お寺のお知らせ」と「仏教伝道」を目的としていますから、仏教以外の部分で分断をもたらすような記事は、基本的には書きません。

しかし、今回の「安保法制」に関するニュースは、日本全体の未来、ひいては仏教者としてのスタンスにも関わる重大な問題でありますので、敢えて、「考える材料」をここに提供したいと思います。

私自身の考えとしては、保守でも革新でもなく、自民支持でも民主支持でも維新支持でも共産支持でも社民支持でも、もちろ公明支持でもありません。あくまで仏教者としての立場から、このような問題を考えています。

以下、最初の動画は自民党の立場です。
その次の動画、また最後の動画は、安保法制反対の立場のものです。

これらの動画をご覧になり、みなさんも改めて、考えてみてください。


教えて!ヒゲの隊長


【あかりちゃん】ヒゲの隊長に教えてあげてみた

【#本当に止める】6分でわかる安保法制
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ネパール建造物被災

2015年04月28日 | 時事関連
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150427-00000037-jij_afp-int

ユネスコとしても、修復はかなり難しいとの見解が出ているようですが、緊急支援の段階が落ちつけば、これらの修復のための活動に対しても、とりわけ仏教徒・ヒンドゥー教徒の主体的な活動が大切になります。ユネスコは大きな力になりますが、それ以前に、ここは信仰の場でもあり、聖地でもあります。「文化財」としてだけではなく、信仰の立場からのコミットも重要になるでしょう。
同時に、観光資源としても重大です。今後のネパール経済の復興、人々の生活基盤・産業基盤の復興にも、これら宗教建造物・文化の保全は絶対に必要になります。
今後のユネスコ、またネパール政府、仏教・ヒンドゥーの諸団体の活動を注視して、微力ながら、積極的な募金・寄付を継続していくように考えています。
緊急支援の段階が終われば世界の関心も急速に薄れていくでしょうが、その時点からが、勝負です。


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ネパール大地震、歴史遺産の被害甚大 「修復不可能」

【AFP=時事】25日にネパールで起きたマグニチュード(M)7.8の大地震では、同国が誇る豊かな文化財にも大きな被害が出ている。専門家によれば「取り返しのつかない損失」だという。

首都カトマンズ(Kathmandu)では12~18世紀に建てられた寺院や仏像の数々が、週末の昼どきに発生した地震で崩壊し、がれきの下に人々が閉じ込められた。

国連教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録され、観光名所となっている市内のダルバール広場(Durbar Square)では、200段のらせん階段で知られる9階建ての「ダラハラ塔(Dharahara Tower)」が礎のみを残して崩れ落ちた。地震発生時にちょうど塔に登ろうとしていて被災した観光客は、揺れが始まって数分で塔が崩れたとして「100人以上が中にいたのではないか」とAFPに話している。

ユネスコは、古都パタン(Patan )やバクタプル(Bhaktapur)などと合わせ、カトマンズ盆地(Kathmandu Valle)にかつて栄えた王国の文化遺産がどの程度の被害を受けたのか、情報収集を急いでいる。

ユネスコ・ネパール事務所のクリスチャン・マンハート(Christian Manhart)代表は、AFPの取材に「カトマンズ、パタン、バクタプルにそれぞれあるダルバール広場に甚大な被害が出たと理解している」「複数の寺院が倒壊し、パタンでは寺院2か所が全壊した。最も被害が大きかったのは(カトマンズの)ダルバール広場だ」と述べた。

マンハート代表によれば、カトマンズの西方およそ280キロにあるユネスコの世界遺産で、ブッダ生誕の地とされるルンビニ(Lumbini)についても、被害状況を確認しているという。

インド・マドラス大学(University of Madras)のP・D・バラジ(P.D. Balaji)歴史・考古学部長は、文化財の被災状況を映像で確認し、これらの歴史的な遺跡が完全に再建される可能性は低いと指摘。「ネパールと世界にとって取り返しのつかない損失だ」「被害が大きすぎて、完全修復は不可能だろう」と述べた。
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ネパール支援

2015年04月27日 | 時事関連
4/25、ネパールの首都カトマンズ近郊で大規模な地震が発生し、数千名の人命が失われ、貴重な街並み・文化遺産も壊滅状態となっています。
日本をはじめ各国も支援に入っていますが、私たちも出来る範囲で、支援していきましょう。

寄付金・義援金に関しては、以下の組織などが行っています。

▶日本赤十字社 http://www.jrc.or.jp/contribution/150427_003568.html
▶国境なき医師団日本 http://www.msf.or.jp/
▶シャプラニール http://www.shaplaneer.org/support/jishin_nepal.php
▶日本ネパール協会 http://nichine.or.jp/JNS/?p=7771

ネパール製品を買う事で、現地の産業を支えることも大切です。
寄付金よりももしかしたら、仕事をしっかりと確保していくことのほうが、長期的には重要なことかも知れません。
ネパール製品を売ることで現地の産業を支え、売り上げの一部を寄付する会社として、

▶ティラキタ http://www.tirakita.com/

このようなところもあります。
ここで買い物をされるときは、「ネパール製」を選んでください。
他にもフェアトレードや雑貨通販、服飾、食品関係など、ネパール製品を扱う会社や店はいくつかあります。

また、ネパール国内の亡命チベット人の支援が手薄になりそうです。
ネパール政府に抑圧され、中国政府からの横槍・圧力もかかっています。
チベット人支援の為に、カトマンズのシェチェン僧院の支援組織もあります。

▶シェチェン僧院 http://karuna-shechen.org/news/help-earthquake-victims-in-nepal/

ネパール政府が台湾の援助隊を拒否したりしていますが、
中国政府の顔色を窺うのを即刻やめて、しっかりと自立的活動をするよう、願います。

なお、以上の情報はそのまま、福楽寺ウェブサイトトップページにも掲載しております。



ネパールでは今後、インフラや建物の復興再建も行われるでしょう。諸外国、特に中国からの投資は莫大になると思われます。
この時点でその話はしないほうがいいのでしょうが、将来のネパールを考えた時、今からしっかりと考えておくべきところがあると思います。

カトマンズなどはあの中世的な街並みそのものが観光資源として、ネパール経済の重要な部分を占めていると思うんですが、今回の地震でかなりの部分が損壊したと思います。
再建するときに、できるだけ「復元再建」していく必要があると思うんです。
コストと安全性重視だけで建物を作ってしまうと、街並みが中国や日本の地方都市のような殺風景なコンクリの箱が並びかねず、そうなると観光としての魅力がなくなり、中長期的にネパール経済に悪影響を及ぼしかねません。
ですからインフラ・建造物の再建はすぐに始まるはずですが、その時に耐震をしっかりと確保した伝統建築・従来の街並みの復興、これを絶対にしていかなくてはならないと思います。
そのあたりのコストは諸外国の支援を投入すべきです。ネパール自身の将来を考えても、これは絶対でしょう。

伝統建築にどう耐震設計を適応していくのか、その分野では日本は世界最先端のはずです。
この分野での支援を、日本は絶対にネパールに申し出るべきです。コスト面も含めて、支援すべきです。
そうしないと、一旦、つまらない中国地方都市風の建築物が並びだすと、もう取り返しがつきません。
必ず、復興の最初期の段階から、日本がこの部分でもリーダーシップを取り、ネパールの将来を見越して支援すべきです。

緊急援助、人命優先は当然ですが、ネパールと言う国はこれからも続きます。そして現実問題、観光立国です。
ネパールから観光を奪うと、経済的に立ち行かなくなり、中国やインドへの過度の依存が更に甚だしくなり、独立性もあやしくなりかねません。

日本には目先の救援だけではなく、長期的な国家支援をぜひ、やって欲しいと思います。


被害がこれ以上に甚大になりませんように。
文殊菩薩の聖地・カトマンズ、ネパールの方たちが守られますように。
また、隣国のインド、チベットの方たち、旅行者の方たちも守られますように。
亡くなられた方が、如来の導きによって良き後生に至れますように。

おんあらはしゃのう
おんあらはしゃのう
おんあらはしゃのう

おんあみりたていぜいからうん
オンマニペメフーム
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イスラム国・川崎国

2015年03月04日 | 時事関連
http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/410732/

英紙デイリー・メールによると、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が殺害したクルド人男性の肉を調理し、解放交渉に訪れた母親に食べさせていたことが分かった。2日付で台湾・自由時報が伝えた。

英国から祖国のイラクに戻ったクルド人、アブドラさんが証言した。アブドラさんは「イスラム国」の蛮行を見ていられず、英国での生活をすべて捨て、イラクの反「イスラム国」組織に加入した。アブドラさんによると、最近、クルド人女性が「イスラム国」に拉致された息子を救うため、「イスラム国」本部に乗り込んだところ、殺害された息子の肉を食べさせられるという残忍な目に遭った。

母親によると、「イスラム国」戦闘員は意外にも親切で、「長旅でお疲れでしょうから先に腹ごしらえをして下さい」と煮込んだ肉やスープなどを振る舞ってくれた。母親はこれを食べ終えた後、息子の居場所を尋ねたところ、戦闘員たちは「お前がたった今、息子を食べてしまったよ」と嘲笑したという。



もちろんプロパガンダ合戦ですから、真実かどうかはわからない。わからないけれど、事実だとしたらもう、言葉がないですね。死者を鞭打つだけでなく、母親にまでこのような仕打をするとなれば、もはや宗教どうこう以前の問題で、こいつらは人間としての最低限の心すら捨ててしまったとしか思えない。
戦争の是非はここでは問わない。
しかし戦うのであれば、「敵」と戦え。卑怯者め。
いかに高尚な大義を掲げたとしても、こんなことをしている奴に正義はない。神も許さないだろう。


さて、川崎の事件だけれど、在日外国人の疎外の問題など取り沙汰されているけれど、それはそれとして、子供はこういうものに影響されやすい奴もいる。少年Aは自分たちのグループを「川崎国」と名乗り、正座させて首をカッターで切ったそうな。イスラム国を模倣したこと明白。
大人の愚かな行為が、思わぬところで影響を及ぼす。
自分たちのやっていることが、間接的にアホに影響を及ぼして不幸を再生産していくということを、私たちも自覚しなければいけない。ここまでの残虐なことじゃなくても、たとえば職場や地域での「いじめ」や村八分も、子供たちはよく見ている。政治家の自己中心的な言動や罵声、恫喝も同じ。どんどん子供たちに悪い影響を与えていく。
「子供の世界のいじめ」というのは、私たち大人の世界の写し絵だから、「最近の子供は…」などと、大人は決して言ってはいけない。それは大人たちの現実であり、間接的に大人たちの行動そのものだ。アホなのは、私たちも同じだ。
川崎の殺人事件も、主犯は厳罰に処されるのは当然ではあるけれど、私たち大人がどのような社会を今、作ってしまっているのか。その精神性をもう一度、しっかりと洗い直すべきではないだろうか…と、そう思う。

あと、子供たちも、「社会が悪い」とは決して言うな。社会が良かろうと悪かろうと、行為をするのは、あなた自身だ。社会ではなくて、あなたが、現前に、その行為をするのだ。社会のせいにして自分の行為を正当化するのは、卑怯者のすることだ。

この双方から、しっかりと良い方向に変えていくこと。
大人・社会は影響の大きさを自覚し、よりよき社会は大人ひとりひとりの自覚にはじまること。子供たちは、そんな腐った社会なんかに負けることなく、しっかりと生きていくこと。卑怯者にだけはなってはいけない。それは最高に格好悪いことだ。
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ムスリムとの交流の必要性

2015年01月22日 | 時事関連
好むと好まざるとに関わらず、日本もこれからイスラーム世界あるいはムスリムとの接触は増えていくのだと思います。欧米で移民のみならず白人のムスリムも増えつつあるのは、結局は疎外された若者の受け皿になっているからで(もちろんそれだけじゃないけど、そういう面も多大にあると思う)、真剣に何かを求めて既存社会に違和感を感じる人に対しての宗教としての力は、イスラームにはやはり非常にあるんですよね。

日本でもそのうち、日本人ムスリムは増加していくことになると思います。その時、私たちは異質なものとして彼らを排除していくのか。それはオウムに向かった若者を排除したのと同じで、同質のムラに入らざる者は無視する、叩く、ということでどうしようもない。どうして仏教じゃなくてイスラームなのか、あるいは新興宗教に行くのか、その根本的な原因を、自己反省的に分析したほうがいい。

いずれにしても、特に仏教僧侶は数だけは日本でもっとも多い宗教者なのだから、みんなイスラーム、ひいてはセム一神教の知識をもっともっと、つけなきゃいけないんだと思うんです。幕末に切支丹の勉強をした僧侶は多かったけれど(それは共存ではなくて排除のためだったにせよ)、今こそ建設的な方向性を目指して、私たちは彼らを知る努力をしなくちゃいけない。事態が「そうなってから」の後追いではだめです。私たち僧侶こそ、時代の先を見つめ、また事象だけでなくその根源的な宗教性のレベルまで見極めて、ある意味で「先導者」とならなくてはならない。

日本の場合、たとえば東京ジャーミィはトルコ系だったかと記憶してますが、ワッハーブ派の系統ではないムスリムたちが日本ムスリムの主流になって共存していけるよう、応援しなくてはいけないのかな、とも思う。まぁ、イスラーム信仰のありかたを仏教者が方向づけするなんて高慢で僭越だけれど、正直、ワッハーブ系はしんどいかな、と思うし…。もちろん争いを永遠に続けていいわけでもないし、全人類がひとつの宗教に統合なんて出来ない以上、共存していくことが出来る方向性の建設的な話し合いはしなくちゃいけないけれど、一部の過激主義者とはやはり、現在の状況を考えたら、やはりちょっとしんどいかも…と思ってしまう(これにしたって、ワッハーブの人たちと直接に話し合えば違う視点が出てくるかも知れないわけですが)。
結局、そのためには、ともかくイスラームといって十把一絡げに否定したり忌避したりするのではなく、またオリエンタリズム趣味で憧れるのでもなく、霊性の部分で対話していくチャンネルをもっと作らないと。政治家や経済人にできない役割が、私たちにはきっと、あるんです。マスコミや政治に左右されず、仏教者としてどうすべきなのか、よくよく考えたいものです。


それにしても、お偉い方の交流会じゃなくて、市井の坊さんとムスリム指導者たちの気楽な交流会や勉強会って、できないもんですかね。特に日本人同士の。私はチャンネルがないのでどうしていいかわかんないですが、論争ではなくてお互いをより知っていくための、友人としての交流会が必要です。欧州みたいにああなっちゃったら、それこそ友人として交流するのにも凄いエネルギーが必要になって来る。今の日本だからまだぎりぎり、何とかなると思うのだけれど。
そしてこういう市井の交流は、ムスリムだけじゃなくてクリスチャンやヒンドゥー、神道と仏教など、どんどん広げていくべきだと思う。比叡山宗教サミットもいいけれど、あんな「高尚な」集まりじゃなくて。一緒にメシ食って、ハイキングや小旅行でもしながら、という交流こそ、実は重要なのではないかと思います。
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言論の自由と誹謗中傷

2015年01月21日 | 時事関連
Facebookから。

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時事通信より
【ワシントン時事】キャメロン英首相は18日に放送された米CBSテレビのインタビューで、フランスの週刊紙シャルリエブドがイスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに関し、「自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する」と述べた。
「他人の信仰を侮辱することはできない」として表現の自由にも制約があるとの認識を示したフランシスコ・ローマ法王に反論したものだ。(2015/01/19-05:41)

………

こんな考えをどのくらいの人が支持するのだろうか。私は支持しない。
たとえばイスラームの独善性や信教の自由のなさ(とりわけ改宗の自由に関して)は、私は気に入らない。気に入らないし、それは間違っているとすら思うから、それは「私の立場で意思表示して」「語り合う」ことは大切かも知れない。私の思っているものとしての人権問題にも関わることにもなるし。バーミヤンの石仏破壊は歴史への侮辱であり、仏教徒の心情を傷つける。それは明確に間違った蛮行であるとも思う。そういうのは、批判してもいいと思うけれど、その批判は誹謗中傷とはまったく違う次元のものだ。また、一部の地域で行われる女性抑圧も宗教的背景があれば、それは「私の立場として」反対する。けれど、そのことと、「言論の自由は相手の感情を害してもいい」というのは、まったく違う。論理筋道を通して、また教理や歴史を踏まえて議論するのはいいけれど、誹謗中傷や下品な揶揄をもってして、対話が成立するのかと言えば、それは絶対にない。イスラーム圏であっても、「女性は抑圧ではなくて保護されているのだ」という主張があり、それはそれとして、彼らの文脈をよく理解して話をすべきであり、自分の価値観を絶対視して疑問を持たず、断罪するのは間違いではないかと。
だいたい、ナチスについて、「たとえば彼らの実際上の政策によって達成された「良い面」は皆無であったかと言えばそうではないだろう。もしまったくの悪政であれば、あれだけの支持はあり得なかった」…という「意見」もあるけれど、それは無条件に違法行為とするドイツなど、言論の自由がないとも言える。今回のイスラーム揶揄がそのままユダヤ人揶揄だとしたら、事態はまったく違っていただろう。それは、二重基準でしかない。
結局、「我々の価値観」がすべてであり、それに反するものは悪であり、そうでないものを誹謗中傷する権利はある。逆はない…というのであれば、それは「彼ら」中心の言いたい放題でしかない。そんなものは「彼らの手前勝手」であって、「理念としての自由」とは言わない。

そもそも、お互いに違う立場の者同士が誹謗中傷して傷つけあう世界が平和なのか、理想なのか。ヨーロッパ的価値観こそ至上であり、すべての「後進地域」はいずれ「普遍的西欧」に追いつくべきだという植民地主義的思想が、無意識のうちに彼らの心に巣食っているとしか思えない。
そしてこれは、少なからず日本人の中にもあるし、中国人の中にも根強くある。多様性の否定は碌なことにならない。人類の共和というのは、多様性を否定して統一する中にあるのではなく、多様性の中に一致を見て、そこにおいてともに進むことでしか達成できはしない。

ただ、「他人の感情を害する」のが権利と私は思わないものの、これを法で規制するとなるとまた他の問題が出てくる。それを運用する者の価値観によって恣意的に運用されてしまうから。そうなるとまっとうな批判ですら出来なくなってしまう。だから難しい問題なのだろうけれど、政治指導者や宗教者が、それを「権利だ」と言ってしまうのは、どうにもまずい事ではないだろうか。
「自由主義社会にあっては、他人の感情を害する言説も一律に規制するわけにはいかないが、倫理的・道義的にそれはなされるべきではないし、それが自然なこととして通用する成熟した社会に向かうべく、各人が自覚をもって対話をすすめていかねばならない」とても言えばまだ良かった。その時、欧州にある二重基準的なインチキはまず、自分たちで改善していかなくてはならないけれども。

日本の場合、朝鮮人絡みの言論がよくこういう話題の対象になるけれど、それだけじゃない。部落、皇室、原発など、他の「微妙な話題」もある。それぞれ「自分の立場ではないもの」に対して理性的でないことをしている。ザイトクもそう、カウンターもそう。どちらも下品で対話しようという意思が見られない。先の総選挙で、共産党が安倍総理の顔をドラムに貼り付けて叩いてたけれど、そういうのも一緒。対話を遠ざけて自己満足しているだけで、何もポジティブな意味はない。

個人的なことを言うと、たとえば私は中国も韓国も嫌い。だからと言って、中国人と韓国人に民族的な忌避感情はない。なぜ嫌いか。それは「事象の問題」であって、決して「血」の問題ではなく、また血の問題であってはならない。中国のチベットやウイグルへの抑圧、資源帝国主義、拡張主義は大嫌い。また、歴史問題での捏造とプロパガンダも許してはならない。しかしそれはあくまでそれらの「事象」の問題であり、学問的に、政治的に、論理的に詰めて攻めていくことであり、個々の存在としての中国人にその批判の対象をすり替えるのは、間違っている。韓国・韓国人に対しても同様。
この類の錯誤は、日本にもある。また、あえてその錯誤を利用するという点では、中国や韓国の政治は非常に幼稚でもある。日本政治もその幼稚な土俵に上ることを辞さない構えに見えるけれど、それは後退ではないか。そういう退歩的な手段を取らずとも、圧倒的な、感情抜きの理詰めと広報で、戦う事は可能だろう。またそれが、真に自尊心のある立場というものではないだろうか、と。
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高野山

2013年03月31日 | 時事関連
高野山真言宗で「事件」続出です。
本山の運用失敗にはじまり、鹿児島の寺院による総連ビル買収問題、住職が実母を刺し殺す…等々、なんともやり切れない事件がマスコミ報道に乗ってしまっています。
まぁ、最後の事件は個別の事案ですからともかくとして、最初のふたつは非常に問題です。本山・宗派としての体質の問題にも関わることですから。

私の自坊は真言宗御室派ですから他宗派の事と言えばその通りなのですが、私自身には高野山真言宗僧籍もありますし、高野山大学、真別処などで長年お世話になった宗派でもありますから、何か意思表示をしないといけないだろうな…と思ったので、フェイスブック上で縷々、意見を述べてまいりました。
それに、日本仏教という括りにおいては、いかなる宗派であっても僧侶である以上は無関係ではありません。信頼の失墜、日本仏教の宗門の体質問題という点では、ある程度はどこも共通した「闇」を抱えていると思います。壇信徒から見れば、宗派というよりは「坊さん」として同一視されることは避けられませんし…。

と。

そんなわけでネット上でも発言はしていたのですが、正直、ここ数日は「アホらし」くなって来ました。どうも私が問題だと思う部分と、他の僧侶の方が問題だと思うところがズレているように感じますし、それ以前に、一般の方からの(揶揄中傷も含め)意思表示は散見されるのですが、一連の事件に関して僧侶サイドはほとんど重大視していないような雰囲気、「他人事」のような雰囲気が感じられ、もはや私が何を言おうとどうしようもないのかな、と。
…もちろん元々、私みたいな末端の凡僧の発言など何の影響力もないんですが(笑)

それにしても、再来年の高野山開創1200年は大丈夫なんだろうか。
うちでも団参をやってみようかと内々で計画していたんですが、あまりにも事態が改善されないようだとやめようかな、とも思っています。そういうこともあり、取り敢えず、高野山については暫くは生温かく事態の推移を見守りたいと思います。

まぁ今のところ、私としては日日の活動を地道に続けていくだけだと思い、今まで以上に真摯に、仏教そのものに向き合いたいと思っています。そこが基本ですし、多分、そういう基本を忘れて世間に迎合したり、僧侶を何か「エライもの」と勘違いしたり…そういう所からボタンの掛け違いも出ているのではないかと思いますので、私自身、もう一度ちゃんと仏教そのものに迎えているのか、自己点検してみたいと思っています。

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日本の産業

2013年03月15日 | 時事関連
インタビュー:日本に必要なのは産業政策ではなく競争=楽天社長

最初に言っておきますが、私は楽天やユニクロの企業理念は嫌いです。グローバルスタンダード企業と根なし草無国籍企業は違います。百歩譲って、そういう理念の企業があることは認めたとしても、それを日本文化・日本社会全般にまで当てはめて考えているらしいのには、断固として反対します。
社内英語公用語化(笑)など論外で、人類文明・歴史・伝統文化への冒涜でしかありません。豊かな文化、豊かな人類史のありかたというのは一色で塗りつぶされた全体主義ではなく、多様な文化・歴史・伝統が共存し、大小様々な世界各地の独特な遺産や思想がそれぞれ維持発展される、共存共栄と相互理解の世界です。
少なくとも、そこに向かっていく意思を共有した世界です。

で、この記事。

三木谷社長
「日本人は、強いところをさらに強め、弱い産業は断念して他国にまかせることが必要だと気づくべきだ」


最初に述べた事は、伝統的な文化思想や生活・習慣のみならず、産業にも共通することです。そもそも産業というのは、それぞれの国の生活や歴史に深く根ざして形成されて来たものです。その最たるものは農業ですが、農業に限らず様々な製造業や伝統産業など、経済効率だけで推し量れるものではありません。
弱肉強食とカネ勘定だけで生活を回している人にはわからないかも知れませんが、人類が人類である以上、それ以上に大切なことは山ほどあるものです。伝統や精神文化というものは、そのひとつです。カネにはなりませんが、人類のレーゾン・デートルそのものです。

もうひとつ、実利的・国益という観点からも、三木谷氏の考えは間違っています。
自国内で極力、多様な産業基盤を確保していないと、有事の際にはどうするつもりでしょう。日本が戦争になった時…というだけではありません。有事はどこでも起こり得ますし、現在でも世界各地で起こっています。
近い将来、必ず中国や朝鮮半島は混乱する時期が来ます。アラブやアフリカは相変わらず不安定です。東南アジアは今は好調ですが、民族問題や人権問題、格差や環境問題、対中国問題を抱えています。ロシアやインドも同様です。国情が絶対に将来も安定している保証はありません。欧米も過日の勢いはなく、自由貿易という看板の下にブロック経済化しつつあります。
そういう情勢にあっては、それぞれが自国で自国を維持できる体制を整備するのが当然の選択であって、海外に依存する度合いを高めるというのは危険に過ぎます。一旦つぶした産業が復活するのは、容易ではありません。リスクを海外に依存するということは、日本の外交力の衰退に直結します。そんなことをして得をするのは、目端の効く政商や「グローバル企業(笑)」だけ。しかしそれも一時のことです。

防衛論争もそうなんですが、基本的には自国で自立してこその対等外交です。民族自決、独立国家です。もちろん現実には完全な自足は難しいのですが、そこに少しでも近づけることは「各国すべてが目指さなくてはなりません」。そういう自立した国家同士が相互に協力し交流し影響し合い発展する。そういう全体モデルを目指さなければならないと思います。
とりわけ食糧とエネルギー、資源。これは他国依存に任せてはなりません。出来るだけ自足レベルに近づけるように努力すべきが、責任ある企業家(政治家は論を俟ちません)の姿ではないでしょうか。
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