प्रज्ञापारमिता

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実践

2019年01月22日 | 仏典の言葉
若し法身は無始の時より無差別無数量なるも
法身を得んが為には、応に功用を作さざるべからず


「摂大乗論」

仏の究極的な法身は本来的に時間を超え分別次元を超えていると雖も、自分自身が法身となる、つまり覚りブッダとなるには、努力し実践しなくては意味はない。

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いくら銀行口座に莫大な資産があっても、それを忘れていたらないも同然、知っていても引き出し方を知らねばないも同然、引き出し方を知っていても実際に引き出さなければないも同然。
通帳の数字だけ数えながらホクホクして餓死しかけていないか、我が身を顧みてみたい。
たとえば、十善戒を知り解釈することが大切なわけではない。やさしく思いやりを持ち、怒らず、悪口を言わずに明るく生活できているか、だ。エラソーに説教し優劣を競うよりも、穏やかに慈悲を持ち今日を生きるほうが圧倒的に尊い。知識は根拠だから大切だが、根拠だけでは意味はない。
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懈怠と慈悲

2018年12月23日 | 仏典の言葉
『摂大乗論釈真諦訳』

精進の行は久遠時の中に於て、一切の善を修す。若し衆生に於て慈悲心無ければ、自身を愛惜し、修行する所に勝れたる功徳有ることを見ざるが故に、修行する所の中に於て疲怠の心を生ず。此の心有るに由りて精進すること能ず、即ち是れ懶惰なり。懶惰は即ち是れ退弱心の因なり。

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なぜサボるか。
なぜ「俺じゃだめだろうな」と思うのか。

大悲がないからだ。

菩提心というのにも色々な定義があるけれど、ある定義によればそれは、

・布施心
・三解脱門…空観
・慈悲心

とされている。
そうしてその実際上の根本は慈悲心に他ならないのであって、これがなくては菩提心がないということであり、菩提心がなければ当然、仏道において本当の意味で精進するなどは不可能だ。
「本当の」と言うのは、たとえば自己顕示や自己満足、虚飾や自慢や支配のためにそれを「しているように見える」場合があるからであって、大抵はそれは無自覚で自分みずから誤認していたりするので、そこに慈悲があるのかを常に再確認しながらやったほうが良い。
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六波羅蜜の解説

2018年12月17日 | 仏典の言葉
大乗仏教の実践の基本は六波羅蜜です。
原理的に波羅蜜乗と真言乗を分離していく考え方もあるのですが、如何にしても現実生活においては具体の実践方便は重要であって、その根本はやはり六波羅蜜であります。
この六波羅蜜は様々な経論に説かれておりますが、この度は無著菩薩『摂大乗論』からご紹介します。この論書の第四章(入因果勝相)では十一節に渡って六波羅蜜を説いていきます。

この中から、第五節・第七節を取り上げましたが、非常に明快簡潔に六波羅蜜を解説されていますので、参考になさってください。

以下は岡野守也・羽矢辰夫による現代語訳からです。


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第五節 名称について

どのような意味で、六波羅蜜という名称を立てるのか。どのような意味として見るべきか。
一切の、世俗、声聞、独覚の布施などの善の機能のなかで、もっとも勝れ最高だからであり、〔悟りの〕彼の岸へ到りうるから、それゆえに共通して波羅蜜と呼ぶ。
物惜しみ、嫉妬、また貧困、下賎の苦しみを破滅するので、「陀(da)」という。また、大資産家になることができ、また富と徳の資源を誘引するので、「那(na)」という。こうした意味があるので、「陀那(Dana)」(布施)という。
誤った戒律や悪しき道を鎮めるので、「尸(si)」と名づける。また、善き道と三昧を得ることができるので、「羅(la)」という。
瞋りと恨みの心を除くことができるので、「犀(ksa)」と名づける。また、自他の平和を生み出すので、「提(ti)」という。
怠惰ともろもろの悪しき存在を除くので、 (vi)」と名づける。また、いいかげんでないということを実行し、限りない善き存在を生み育てるので、「梨耶(rya)」という。
注意散漫を除くことができるので、「持訶(dhya)」と名づける。また、心を 導いて内面に集中させるので、「那(na)」という。
一切の〔誤った〕見方を滅ぼし、誤った知恵を除くことができるので、「般羅(pra)」という。真実の相を対象として、その種類に従って、一切の存在を知るので、「若(na)」という。

第七節 六波羅蜜の違いについて

もろもろの波羅蜜の違いはどのようなものだと知るべきであろうか。
それぞれに三種あることによって、その違いを知る。
布施の三種とは、第一は真理の教えの施し(法施) 、第二は財産の施し(財施)、第三は恐れのない心の施し(無畏施)である。
持戒の三種とは、第一は抑制し防御する戒(守護戒)、第二はあらゆる善を包摂する戒(摂善法戒)、第三は衆生を受容し利益する戒(摂利衆生戒)である。
忍辱の三種とは、第一は他者の辱めや攻撃に堪える忍(他毁辱忍) 、第二は苦しみを安らかに受けとめる忍(安受苦忍)、第三は真理を洞察する忍(観察法忍)である。
精進の三種とは、第一は積極的に努める精進(勤勇精進)、第二はいっそう実行する精進(加行精進) 、第三はあきらめて撤退することがなく、壊されることなく、自己満足することのない精進(不下、難壊、無足精進)である。
禅定の三種とは、第一は安らかなる心に止まる禅定(安楽住定) 、第二は神通力を引き出す禅定(引神通定) 、第三は他者を利益する禅定(随利他定)である。
般若(智慧)の三種とは、第一は無分別に到る行の般若(無分別加行の般若) 、第二は無分別の般若[そのもの] 、第三は無分別[智]の後に得られる般若である。
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毀誉褒貶

2018年12月12日 | 仏典の言葉
ひとは、他人のことばによって(他人が「お前は盗んだ!」といったからとて)盗人であるのではない。ひとは、他人のことばによって聖人であるのではない。自分がその人のことを知っているように、神々もまたかれのことを知っている。

「テーラ・ガーター」

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釈尊の十大弟子のひとり、マハーカッチャーヤナの言葉です。
根拠もなく盗人呼ばわりされて「その通りだ」と受け入れる者はいないのに、根拠もなく褒め上げられるとすぐさま有頂天になったり「そうかも知れない」と思ってしまうとしたら、それはまったく愚かな話だ。しかしそれはよくある光景でもある。
お世辞を言い合うことの気持ちの悪さは、この構造を誰も理解していないところにある。
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技芸

2018年11月30日 | 仏典の言葉
不退転の菩薩大士は……世間的な芸術や技術の事柄、そのすべてをも、智慧の完成のおかげで、ものの本性(法性)と一致させる。かれはさとりの世界(法界)と関わりのないような如何なるものも見ないで、あらゆるものがそれに導いていくと見る。

『八千頌般若経』

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比丘は歌舞音曲も絵画もNGだし、厳密にはスポーツ観戦や詩文、世俗の物語の類もアウトである。しかし大乗仏教はそもそも当初より芸術的な傾向が濃厚な中から生まれてきた。
それはダルマの俗化ではなく、俗の…誤解を恐れずに言えば、俗の聖化でなくてはならない。在俗のダルマ・バーナカ、居士法師のあり方と同じだ。常にそこを意識していなければ、いつでも僕らは仏教を俗な目的のための消費材にしてしまうし、自己満足の道具、渡世の手段にすらしてしまうのだから。

ちなみに「菩薩大士」というのは、自利利他円満の大乗仏教者を言う。覚りに向かう菩薩だけなら声聞にもあり、利他に邁進する大士だけなら無宗教者でもいる。兼ねて合わせて、はじめて大乗の菩薩大士である。
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仏典

2018年11月19日 | 仏典の言葉
佛は独り我が為に法を説く

『大品般若経』

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仏教には「八万四千の法門」と称されるような膨大な聖典があります。
もっとも基本となる大正新脩大蔵経は、分厚い大判の漢文びっしり三段組みで100冊近くありますが、それですべての文献を収載しているわけではない。それほど膨大であります。
で、どうしてこんなにたくさんあるのか、ですが、仏教学的には様々な回答が可能でしょう。歴史的な増広だの発展を跡づけて行けばいいのです。
しかしそれは学問の話であって、仏教者としてはすべてこれダルマの顕現です。そう受け止めなくてはならない。
ではなぜこれほどの数、種類があるのか。それは「この私」が右往左往して落ち着かず、絶えずふらふらきょろきょろして生き方の背骨が定まらないから、ダルマが色々な現れかたで顕現されていて、縁に応じて目の前に「どん」と座ってくださるのです。「おまえ、聞け!」と。
膨大な仏典は、そういうわけですから、今ここで、この自分にのみ、直接に語りかけているブッダの慈悲にほかなりません。ならばこそ、威儀を正してそれを読むに当たり、面前にブッダがおわすと知らねば、仏典を読んだとは言えないのです。こちらの姿勢がすべてで、仏典を直説とするか単なる文献とするかは、ひとえにそこにのみ関わっています。
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事釈と理釈

2018年11月13日 | 仏典の言葉
我が滅後において五百年は諸の比丘なお我が法において解脱堅固なり。次の五百年は我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は我が法中において多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は我が法中において闘諍・言訟し白法隠没し損減して堅固なり。

『大集月蔵経』

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いわゆる「末法思想」にもいくつかパターンがあり、「正法・像法乃至末法」の三時説が主流ですが、ここに挙げた「五五百年説」というものも有名なものです。
これを事釈のみで考えると、さていつからが末法であるか、後五百歳であるか、などという末節の議論になり、仏滅年代がああだこうだと隘路にはまっていきます。
こういうものは自己一身においてどう考え如何に作用進展するのか、という理釈こそ重要であって、自分自身の境の浅深がそのまま解脱堅固乃至白法隠没堅固に他ならず、たとえば五姓各別であれ諸々の教判であれ「西方浄土や地獄」であれ、事釈で考えてしまったらあまり有意義なことにはなりません。
経典に描かれる「荒唐無稽な話」なども同様で、事釈であれば無意味、精々が単なる比喩表現になってしまいます。しかし理釈によってこれら受け止めるとき、すべてが真実の教法になって立ち上がってきます。
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論争の無益

2018年11月01日 | 仏典の言葉
実に悪意でものを言う人々がいる一方、
また他方では、真心からものを言う人々もいる。
しかしムニは、議論が起こっても、それに近づかない。
だからこそ、ムニは何があってもこころが乱されることはない。

人はどのようにして、自分だけの見方を超えるのだろうか。
人は欲に導かれ、好みに捉われて、自ら決めつけてしまう。
そのような人は、何でも解っているように語るであろう。


「スッタ・ニパータ 780-781・悪意の経」

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悪意はもとより、善意ですら無明による執着、偏見を免れない。それによって何をか語るならば、いずれにしてもあなたは業を形成しているのであって、輪廻の軛を逃れることはないだろう。
たとえ「そうではない」と思ったとしても、業はそういう「思い」で軽くなったり消えてしまうものではないのだから。
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見よ。

2018年10月31日 | 仏典の言葉
762
さらに《楽》であると言うものを、
尊ぶべき人たちは《苦》であると言う。
さらに《苦》であると言うものを、
尊ぶべき人たちは《楽》であると知る。
理解しがたい道理を考えよ。
無知な人々はここでまごついている。

763
覆われた人々には闇があり、
よく見ない人々にとっては暗黒がある。
深く考える人々には開かれている。
あたかも、よく見る人々には視界が開けるように。
真理に至る道について正しい知識を持たない人々は、
それを目の当たりにしても解らない。


「スッタ・ニパータ」

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仏教の真骨頂は、いわゆる「ジョーシキ」で考えてはわからない。
道徳だとか倫理だとか慣習、伝統や前例や「みんなそうだから」とか、あるいはそもそも感覚的な「前提・常識・普通」というものの欺瞞や虚構。そういうものを簡単に受け入れてはならない。
しかしそれは反発しろ、ということではない。反発するということは、「それら」を実は受け入れていることのネガなのだから。

見よ、見よ。

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しかし、いったい「誰が」「何を」見ることなどできようか?

ここが分水嶺だ。

そうやって、ようやくあなたはすべてを見ることになるだろう。
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ことば

2018年10月25日 | 仏典の言葉
世尊はこのように言われた。
「ビクたちよ! 四つの特徴を具えた、よく説かれたことばがある。智者たちからみて、悪く言われたのではなく、過ちなく、非難すべきものではない。
ビクたちよ! ビクはーー
よく説かれたことばのみを語って、不快なことばを語らない。
理法を語って、理法に反することを語らない。
喜ばしいことばを語って、喜ばしくないことばを語らない。
真実のみを語って、偽りを語らない。
ビクたちよ! 実にこれが四つの特徵を具えたよく説かれたことばなのである。智着たちにとりて、不快なことばでもなく、過ちなく、非難すべきものではない」

<中略>

ヴァンギーサは……師を褒め称えた。
「安らぎを得、苦を終わらせるために説かれたブッダの安らかなことばは、実に、さまざまなことばのうちで最高のものです」と。


スッタ・ニパータ「見事に説かれた経」序・454

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僕自身、昔からけっこうバッサリ喋ってしまうことが多く、原理的な立場でツッコミをしてしまいがち。あながちそれが間違ってるとは思わないのだけれど、残念ながらそういう言い方で誰かの考えを変えさせたり、心服させる、ということはほとんどない。つまり、自己満足に過ぎないわけだ。

そもそもどうして他人の考えを変えさせようと思ってしまうのか。

大上段から文句を言う時には、いずれにしても相手を自分の思想に染めたいか、それを見ている第三者に自分の正しさをアピールしたいか、何にせよマウントを取りたいか、だいたいがそのいずれかである場合が多い。

特にSNSなどそうだ。

だいたい、実際の面識すらない者同士で何を争うのか、どうしてマウントを取ろうとするのか、いちいち自己アピールせなあかんのか。しかもタメ口…ならまだいいけれど、教え諭してやろうとか、喧嘩腰とか、そういうものが本当に多い。
僕自身も油断するとそうなってしまう場合がある。
しかし、こういうのは不快なだけで実際、意味があまりない。

文章など所詮は書かれたことしか意味していない。
その限られた範囲のことで相手の何がわかるか。言われていないことは隠されている。そういう基本的なことがわからないまま、自分のフィルターで勝手に「読み込んで」読み間違えて、それでマウントを取ったつもりでふんぞりかえって。

僕が交流サイト(まぁ2ちゃんねるから始めたわけだが)なるものを使い始めて約20年になるけれど、僕自身まったく進歩していないし、書き込む人たちもそう大して進歩はしていない。
なんか自分にがっかりしながら、この釈尊の言葉を読みました。

皆さんはどうですか?
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