प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

一人一切人

2019年10月08日 | 法話関係
一人一切人 一切人一人

『弥陀の妙偈』


ひとりの人は一切の人であり 一切の人はひとりの人である

…………………………

ラグビーのワールドカップで、連日熱戦が行われています。
日本代表も3連勝で、次の試合に勝てば文句なく決勝トーナメントに進出することになります。

さて、ラグビーには昔からよく言われる言葉があります。

One for All, All for One.
(ひとりはみんなのために、みんなはひとつの目標のために)

…という言葉です。

冒頭に掲げた「一人一切人 一切人一人」も、英語に訳すと「One for All, All for One」になります。

しかしお気づきでしょうか、少しだけ意味が異なります。

ラグビーの場合、一人はみんなの為に尽くし、みんなは唯一の目的(トライ)の為に尽くす、という意味です。試合を見ればわかるように、みんな必死に相手を止め、ひとりがゴールに飛び込みます。
つまり、ひとりの人間→みんな→目的、そういう一直線の意味になります。だから「All」はどちらも「みんな」ですが、「One」は「ひとり」「唯一の目的」で、最初と二番目の意味が違います。

では、「一人一切人 一切人一人」はどんな意味でしょうか。

この言葉は平安時代後期、良忍上人という方が阿弥陀如来から直に授けられたとされる言葉ですが、『華厳経』に書かれている「一切衆生の身、一衆生の身に入り、一衆生の身、一切衆生の身に入る」が元になった言葉と言われています。

意味は、「わたしひとりに全宇宙が収まり、全宇宙はわたしひとりそのもの」、つまり宇宙とこの私は別ではなくまったく同じで、「あなたは私であり、私はあなたである」ということ、互いに分けられずに繋がっている。《縁起》である、ということです。本当はひとつですが、「取り敢えず分けて考えているだけ」、《海と波》のようなものなのです。

つまり、「ひとり=一切の人」「One=All」です。ラグビーのように「ひとりの人間→みんな→目的」の一直線の意味ではなく、すべてが繋がり「私はあなた、あなたは私」「私は宇宙、宇宙は私」という、すべてが互いの関わりの中で生き生かされている、生きとし生ける者の身体や自然だけではなく、精神や魂のレベルまで、また時間や空間も含めすべて深く絡み合っているのだ、という話です。

これが心底わかればブッダです。仏様です。
しかし私達はなかなかそこまではわかりません。頭でわかっても、心底わかる、腹でわかるのは難しいです(それがわかると腹が立たなくなりますし、愚痴や嫉妬や不安、死への恐怖などがなくなりますが、なくなっていないとしたら、まだまだ腹に落ちはていないのでしょう)。

ただ、この「互いに分けられずに繋がっている《縁起》」を、なるべく良い繋がりにしていくことは出来ます。それは《思い遣りと慈悲》で繋がりを太くしていくことです。いずれにしても私達はすべてと繋がっています。あとはその繫がりを如何なるものにしていくか、が大切なのです。
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筏、六文銭

2019年09月07日 | 法話関係
筏に遇うて彼岸に達しぬれば法すでに捨つべし
自性なきが故に

『秘蔵宝鑰 第九』


筏に乗って仏の岸に着けば、筏は捨てられる。
筏はさとりへ導く手段であるから。

…………………………

令和さいしょの秋分の日、つまりお彼岸の中日は9/23(月曜日)ですので、この秋の彼岸は「9/20〜9/26」の期間になります。
まだまだ残暑もあり、なかなか実感は湧かないのですが、確実に秋に向かいつつあります。

さて、そもそも「彼岸」とは「川の向こう岸」のことで、「川のこちらがわ」を「此岸」と呼びます。もちろん、仏教では、「彼岸」は仏のさとりの世界、「此岸」は私達の迷い苦しみのある世界を表します。

「死後の世界」ではありません。

さとれば、その人は生きたまま彼岸にいるし、死んでも迷うならば此岸から彼岸には渡れません。つまりそれはあくまでも、さとるかさとらないか、の違いです。

では、お彼岸の行事とは何なのでしょうか。

まず、先祖供養ですが、これは仏様の加持により既に彼岸に渡られたご先祖様に、しっかりと私たちが守り導いていただけていることへの感謝、その導きをちゃんと受け止められるようになりたいという祈り、です。まだお育てを頂いている段階の先祖、万が一にもまだ迷い苦しみにある人(先祖のみならず、無縁さんや生きている人まで含め)があれば、この時期にしっかりと仏様の慈悲や智慧を学び、彼岸に渡れるように…と祈ってください。さとりの心になり、安楽で平安な仏になってください…と。

次に自分自身も、彼岸の心、さとりの心になりたい、平安で清らかで落ちついた心、慈悲と智慧に満ちた光のある人間になれるよう、祈り「行動する」期間です。
その具体的な行動は「六波羅蜜(施・戒・忍・進・禅・慧)」ですが、この6つが自分の心を清め明るくし、慈悲と智慧を育てて、彼岸の心を達成させます。
つまり、この6つの実践が、さとり・彼岸への筏になります。正確には、「彼岸に渡る六文銭」となるのです。

この六波羅蜜なくしてはさとりの心にはなれません。六文銭なくしては筏に乗れません。しかし、彼岸・さとりの岸に到着したら六文銭を支払い手元になくなるように、「六波羅蜜」などの「教え」もいらなくなります。
さとりの岸に到着した人は、もう仏です。別にルールや決まりなどなくても、内面から溢れる自然な慈悲や智慧で完璧です。言葉による教えにこだわらず、自由自在です。六文銭などなくても、自由に川くらい渡れます。

弘法大師はそれを、

筏に乗って仏の岸に着けば、筏は捨てられる。
筏はさとりへ導く手段であるから。


と表現しておられます。

もちろんまだまだ半人前で迷いの此岸にいる私達は、教えに従って学び実践する必要があります。

この秋のお彼岸には、先祖供養とともに改めて六波羅蜜を意識し、自分自身がさとりの心・彼岸の心・慈悲と智慧の心・光あふれる人間になれるよう精進してまいりましょう。そうして、それを心がけ実行した功徳こそが、亡き人への手向け、回向供養になるのです。
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十三仏

2019年08月16日 | 法話関係
一切法は一法 多尊は是れ一尊なり

(宗秘論)


すべての存在はひとつに尽きる。多数の仏は一仏にまとまる。

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【十三仏】

不動明王 初七日 慈悲
釈迦如来 二七日 ●過去
文殊菩薩 三七日 ●過去
普賢菩薩 四七日 ●過去
地蔵菩薩 五七日 現在
弥勒菩薩 六七日 未来
薬師如来 七七日 東
観音菩薩 百か日 ○西
勢至菩薩 一周忌 ○西
阿弥陀如来 三回忌 ○西
阿閦如来 七回忌 東
金剛界大日如来 十三回忌 根本
虚空蔵菩薩 三十三回忌 智慧

十七回忌は胎蔵大日如来、二十五回忌・五十回忌は愛染明王、百回忌は五秘密如来…などもありますが、基本は十三仏です。故人の迷いの段階から覚りの段階まで、順を追って導いてくださいます。


【干支守り本尊】

千手観音 子年
虚空蔵菩薩 丑・虎年
文殊菩薩 卯年
普賢菩薩 辰・巳年
勢至菩薩 午年
大日如来 未・申年
不動明王 酉年
阿弥陀如来 戌・亥年

自分が特に縁を感じて信心する仏様は様々ありますから、縁を感じるならばどの仏様でもしっかり拝まれて結構です。わからない場合は生まれ年ごとにも守り本尊がありますから、それを意識されるのも良いと思います。
まず第一に菩提寺の御本尊、次に個人的な念持仏(あるいは干支の守り本尊)。

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お盆

2019年08月08日 | 法話関係
三界法水に沐し 六趣甘露に飽き
同じく愛纏を出でて 共に覚道を成ぜん

(性霊集六 天長皇帝雨乞)

すべての生き物が仏の教えを蒙り、地獄餓鬼乃至人間天界の者も甘露を味わって、皆ともに愛執から離れて覚りへの道を歩もう。

…………………………

ご先祖様、故人がお盆に「帰ってくる」とは、どういう意味でしょうか。普段はここにいないのでしょうか?
お盆は大切な人やご先祖様を思い起こし供養する時ですが、同時に、大きないのちの流れを意識して、みな同じひとつのいのちの中にいるのだ、海と波のように・・・と、生きとし生けるすべてに感謝する時でもあります。

さて。

令和最初のお盆の時期になりました。
お盆は旧暦7/13〜16、今の暦では一ヶ月ほどずれまして、8/13〜16の期間になります。七夕も本来は盆行事で、旧暦7/7、つまり新暦では8/7頃に準備を始めます。

お盆には、よくこんな質問を受けます。

「ご先祖さんが帰ってくると言うが、では普段はお祀りしなくていいのでは?」…あるいは、「お墓と仏壇のどちらに先祖がいるの?」

…等等。
皆さんはどう考えていますか?

簡単に言いますと、ご先祖さんあるいは故人は、手を合わせるところいつでもどこにでも本当はおられます。ただ日常、私達がそれをなかなか意識していないだけ。
仏様の世界はクラウドみたいなもの、あるいはラジオの電波みたいなもので、いつでもどこでもあるんですが、スイッチを入れて集中しなくては、なかなか繋がっていることを意識できないものです。

人はなかなか普段は忙しさにかまけてしまうのですが、時期を区切り、改めて姿勢を正してご先祖さんに向き合う機会を作ることで、繋がりを回復していけます。そうやって「自分の心を開いて心新たに先祖を迎える」、それを「ご先祖さんが帰ってくる」と表現しています。

自分の心の中に迎え入れたご先祖さんは、同時に他の人の心にもいるし、浄土にもいるし、来世にもいます。どこにでもいるのです。
あとは、手を合わせる方が会いたいと願うかどうか。

ただその「会いたい」が執着になってはなりません。執着は「どこにでもいるご先祖さん、親しい故人」を、「ずっとここだけに」縛る心ですから、それは大きな世界、大きないのちの流れを堰き止める行為になります。
そうではなく、手を合わせる時に自分自身が大きな世界・流れのなかにあり、ご先祖さんや故人とその都度に新しく出会うのだ、という気持ちでいてください。

それでは、よいお盆を迎えられますように。
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お寺は水飲み場

2019年07月26日 | 法話関係
『百喩経』という、様々な説話を集めたお経があります。仏教を喩えを使ってわかりやすく説いたものです。
『百喩経』の説話はなかなか面白いものがたくさんありますが、今日はその中からひとつ短いものを、ご紹介します。わかりやすく訳された『ブッダの小ばなし』(多田修編訳、法蔵館、2019)からの引用です。

…………………………

夏のことです。
この日は特別に暑くて、あちこちに熱中症になりそうな人がいます。この人ものどがカラカラで、フラフラしながら歩いています。

「あそこに水がある! なんだ、かげろうで景色がゆれているだけか…」

それでも歩いていると、ついに大きな川にたどり着きました。
でもこの人、川の水を飲もうとしません。そばにいた人が聞きました。

「のどがかわいてるんでしょ。なんで水を飲まないの?」

「飲もうと思ったのですが、多すぎて飲みきれません。だから飲みません」

…………………………

「そんなバカはいないだろ〜」と皆さん、たぶんそう思われるかも知れません。確かに、実際にこんな状況になったら、皆さんも私も水を飲むと思います。

しかしこの話は、「譬喩、もののたとえ」です。
仏教を学ぶ、あるいは実践する時によく考えてみてくださいね、というお話なんです。

仏教にはたくさんの経典があります。一生かけてもぜんぶは読み切れません。ものすごい分量です。
また、研究書や解説、論文まで入れたら、どのくらいあるかわかりません。使われる言語も多様ですし、難解で哲学的なものもたくさんあります。
実践するにしても、真言念誦、念仏、題目、瞑想、座禅、たくさんあり、それぞれひとつをやるにも一生ものです。また、戒律もあります。

これらはすべて、私達の魂の渇きや苦しみを乗り越えさせるためのものですが、あまりにも膨大で、説話の主人公の前を流れる大きな川のようで、私達も仏教という大河を前に呆然としてしまいそうです。

そうして、「私に仏教は難し過ぎるわ」

と、一切を「私に関係ない」と捨ててしまう人もおります。
でもそうじゃない、大河すべてを飲み干さなくても、渇いた分だけを手で掬って飲めばよいのです。自分に縁があった「ひとつの教え」「ひとつの実践」を見つけ、それをコツコツとやるだけです。
僧侶は川の専門家です。だから川の全体をちゃんと学ばなくてはなりませんが、渇きを癒やすためならば、必ずしも川すべて飲まなくても良いのです。

この説話は、川の大きさにびっくりして、ひと掬いの水すら捨ててしまうというお話でしたが、それはまったく愚かでもったいない話です。仏の教えを学びまた実践することも実はまったく同じなんだ、という喩え話で、そうやって仏教すべてを捨てるのは非常にもったいないことだ、と教えてくださっています。

お寺は「川岸」です。
仏教はいつもお寺に流れています。行事だけでなく、うちのお寺では毎月、法話会や御詠歌をしています。それ以外でも、いつでも水が飲みたくなれば来てください。

お寺は川岸、仏教の水飲み場です。

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ハーモニー

2019年07月18日 | 法話関係
未だあらじ 一味美膳を作し
片音妙曲を調うる者は

「性霊集十 種智院式」


ひとつの味だけで美味しい料理を作ったり、ひとつの音だけで素晴らしい曲を演奏したりすることなど、未だかつて一度もない。

…………………………


令和に入って数カ月が経ちましたが、相変わらず嫌なニュースばかりが目につきます。平成が終わり、新たな時代は前向きに明るく…と願っていますが、なかなかうまくいかないようです。

犯罪や戦争や差別、いじめなどはなぜなくならないのでしょうか。
仏教では、答えは簡単です。それは、

・三毒(貪・瞋・痴)があるから
・自他を分けて自分、あるいは自分たちだけを重視するから

このふたつに尽きます。
これをまとめて煩悩と言いますが、108あるとされる煩悩の根本は、三毒と自他分別にまとめられます。
そしてこれをひとつにまとめると、それは

・「自我意識」

…となります。
自分自身をなくせ、ということではなく、「私が、私の、私を」と、常に自分を中心に置いて喜怒哀楽に右往左往する「自己中心的な心」をなくせ、ということです。

政治問題もそう、宗教戦争や差別問題もそうですが、争いの根本は「私は正しい、私を尊重しろ」と、多様な考えや様々な人がいることに耐えられず、わがままな自分を振り回すところにあります。

弘法大師の仰るように、どれだけ素晴らしい調味料でも、それひとつではどうしようもないし、美しい音も「ド」しかなかったら、曲にはなりません。
「私が、私の、私を」を振り回すのではなく、身の回りの他者や色々なものを受け止め取り入れながら、違いを楽しむくらいの心でお互いを尊重し感謝して暮らしていければ、すぐには難しくても、少しずつ平和平穏な社会になっていくのではないでしょうか。
まずは自分の身の回りから、新たな時代を暖かく穏やかなものにして参りましょう。
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水のちから

2019年07月08日 | 法話関係
感星銀漢は下灑の功深し
湖水天池は上潤の徳普し
故に能く屮卉これに因って鬱茂なり
蟲卵これに頼って長生す

(性霊集二益田池碑)


雨を降らす星々、万物を潤す湖や海によって、草木が茂り、生き物たちが生き生きとする。

…………………………

雨の季節です。
雨は言うまでもなく水ですが、人間の身体の70%は水で出来ています。少々は食べなくても人は死にませんが、水は数日飲まなければいのちの危険に晒されます。水はいのちの源です。
この水、地球を太古の昔から循環していまして、雨が降り、川となりまた地下水となってまた海に流れ込み、蒸発して雲を作り、また雨となって降り注ぐ。自然の摂理です。
人間や動植物は、その偉大な大自然の水の循環の途中に立って、幾ばくか必要な水を頂きながらいのちを保っています。おおきな水の大循環、つまり「いのちの源の偉大な巡り」の中に入れさせて頂くことで、私たちはなんとか生きているわけです。
感謝しないではいられませんが、果たして感謝は足りてるでしょうか? 水を単なる道具か何かのように考えていないでしょうか。地球の水の循環を崩してまで手に入れる「豊かな生活」は、最後には私たちのいのちを脅かすことになるでしょう。

さて、水はいのちの源ではありますが、集中豪雨による洪水や、あるいは津波などによって、水は人のいのちを奪うこともあります。
ものごとには常に二面があり、「与えるもの」は「奪うもの」と表裏一体です。片方だけで完結することはありません。ましていのちを与えるほどの強い力を持つならば、その力は逆にも大きく働きます。ものごとは万事それです。

人間も、「悪に強い者は善にも強い」と言われます。
人間には誰にも強い力があります。なにしろ70%が、偉大な水で構成されていますから。もとがいのちの塊なのです。
だから私たちにも、他者を生かす力があるし、殺す力もあります。いずれにしても力があるので、あとはそれを「どう使うか」。自然の摂理はコントロールし切れませんが、自分自身を作り上げている力をコントロールすることは可能です。それを、善く、他者のためにコントロールして活かさなくてはなりません。
その活かし方を教えるのが、仏教です。仏の教えです。
まず自己の内に秘めた力を整えるのが、十善戒。それを他者のために働かせるやり方が、四無量心です。
このふたつの指針を常に胸に置いて、自分が持っている力を発揮し、破壊ではなく互いに生きるために使って、幸せな生活、明るい生活にして参りましょう。

…………………………

十善戒

不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。排斥しない。
不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
不妄語…嘘をつかない。
不綺語…きれいごとを言わない。
不悪口…悪口を言わない。
不両舌…二枚舌を使わない。
不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
不瞋恚…怒らない。イライラしない。
不邪見…仏教の教えを正しく学び、般若空の正しいものの見方をする。

四無量心

慈…楽を他者に与えたいという心。
悲…他者の悲しみや苦しみを抜いてあげたいという心。
喜…他者の喜びを自分の喜びとまったく変わらずに喜ぶ心。
捨…「私が・あなたに・何々を」の区別心を捨てた平等心。




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他人の病

2019年06月07日 | 法話関係
如何が己身の膏肓を療せずして たやすく他人の腫脚を発露すや

『三教指帰』


どうして自分の重病を治療もしないで、他人の腫れた脚をとやかく言うのか。

…………………………

「病、膏肓に入る」と言いますが、これは病気が重く深刻になることです。膏は心臓の下、肓は横隔膜の上あたりで、身体の一番奥深い部分と言われています。

ただここでお大師さまが仰っているのは、身体の病のことではなく、心、精神、つまり私たちは自分自身が煩悩や不完全さを抱えていながら、それを軽く見て他人の欠点ばかり直してやろうとしていないか、ということです。
しかもそれは相手を思いやるより、自分自身が気持ち良くなりたい、思うように他人をコントロールしたい、という欲でしかなかったりするものです。

他人の欠点を見る前に、それに負けないくらいの自分の欠点に気づきなさい、という教えです。

聖書(ルカによる福音書6章41・42節)にも似たような言葉があります。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」

つまり、自分の欠点を軽く見たり無視するならば、相手に通じるものも通じないのです。「あなたに言われたくない」となるのがオチです。
逆に、自分自身がちゃんと「善い人間」になる努力をしていれば、敢えて他人に「脚の腫れを治せ」「目のおが屑を取り除け」など言わずとも、いずれ自然に相手に伝わっていくものです。

弘法大師は、他人よりまず自分を見つめなさい、と教えておられます。良い部分はますます伸ばす、悪い部分は徐々に良き方向に向けていく。他人に優しく、自分に厳しく。当たり前の話ですが、なかなかできないのが私たちです。
しかしとても大切なことですから、お互いにちょっとずつ、頑張って参りましょう。
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篤く三宝を敬え

2019年05月07日 | 法話関係
【今回は、副住職の法話です】


令和元年5月8日。
元号が改まってから初めての法話会です。ゴールデンウィーク中は令和ゆかりの地がたくさんの人で賑わっていました。

さて、日本の元号はぜんぶで248ありますが、一番最初の元号は何だったか覚えているでしょうか。

そう、大化です。
西暦645年、初めての元号が「大化の改新」のあの大化です。豪族の政治から天皇の政治に移行する重要な事件でした。また、令和の出典として話題になった日本最古の歌集「万葉集」の編纂がされたのも同じく7世紀のことです。
つまり、政治的・文化的に日本という国の形がだんだんと作られてきた、我が国のスタートの時期というのが7世紀頃なのです。

その7世紀の初め頃、日本という国のスタート地点に活躍された方が聖徳太子です。
聖徳太子は冠位十二階を定め、法隆寺や四天王寺を創建されたほか、「十七条の憲法」を制定して「日本の国というのはこういうあり方である」と日本の進むゆく方向を示されました。
その第2条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」という風に始まる条文があります。その後はこのように続きます。

「生きとし生けるもの最後に行き着くところは、どこの国でも究極の宗教です。どの時代でも、どんな人でも仏教を尊ばないものは無い。人間に悪い者は少ない。良く教えれば正道に従う。仏教に帰依しないで、何で曲がった心を正すことができようか。」

つまり、「仏法僧の三宝を敬い生活することが、人が人として生きていくための社会の大切な基本理念である」という風に示されたのです。

ではその三宝とは何かといいますと、まず仏様、それから仏様の教え、そしてそれを身をもって実践されている人々の集まり、というこの3つです。仏教徒とはこの仏法僧の三宝を信じて、自分も従って行きますという決心をするところから仏教というものが始まります。
3というのはつまり仏道を歩む始まりの数字なのです。この三つを信じて敬うというところから、仏教や信心が始まります。日本のスタートに聖徳太子が示されたこの三宝の教えは、私たちが信心を持って仏道を歩むまず第一歩目のスタートのための教えでもあるのです。

さてでは、スタートがあるのなら、ゴールはどこになるのでしょうか? 三宝の3がスタートの数字。では仏教のゴールの数字は何でしょうか?

先月4月8日はお釈迦様のお誕生日でありました。お釈迦様がお生まれになった時、7歩歩いて天上天下唯我独尊というふうにおっしゃったと言われています。これは六道輪廻、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・・・という6つの迷いの世界を超えた7番目の覚りの世界に私は至ろう、という宣言なのです。
迷いを超えた安楽の7つ目の仏の世界、悟りを開いた先にある完成の数字、ゴールの数字が7ということになります。

ですから仏教では3と7という数字をとても大切にします。だから法事は、3と7にまつわる年にやるのです。

3は始まりの数字、7はゴールの数字。信心を始める人がしっかりとその道を歩き始めるために、三宝つまり「仏様とその教えとそれを実践する人々=仏法僧」を信じて敬って従いますと決意しスタートを切る。そして六道輪廻の世界を超えた7つ目の仏の世界に安楽の境地、浄土に至る。

3から7に歩くための資格は誰にでもあります。私たちは生まれながら「仏の子」です。仏様のこころ、いのちはちゃんと最初から心の中に備わっているのです。それは、心中の「光」です。
どうか普段の生活の中でこの光が自分の心中にあると意識して、仏様の心、自分の中に備わる仏の心を大いに発揮していきましょう。

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阿難と提婆達多

2019年04月15日 | 法話関係
お釈迦様のお弟子さんはたくさんいましたが、今日はその中から、アーナンダとデーヴァダッタのふたりを取り上げます。

まずアーナンダ。
彼はお釈迦様の秘書、随行、という立場の弟子ですが、経典によると、ずっと近くにいたために却ってお釈迦様の教えがわからず、覚るのがおそかったとされています。つまり、お釈迦様は「対機説法」で、目の前の人に合わせて相応しく説いたのですが、アーナンダはそれを逐一すべて聞いてしまったため、なかなか整理がつかなかった…ということなのでしょう。

そしてデーヴァダッタ。
彼はキリスト教における「ユダ」のような立場で、お釈迦様を殺した後に取って代わってトップに立とうとし、アジャータシャトル(阿闍世)王を説き伏せて目的を遂げようとした悪人で地獄に堕ちた、とされています。

品行方正で真面目、優れた弟子たちが多い中、このふたりはそれぞれ違う意味で異色です。

さて、では実際はどうだったのでしょうか。

このふたりについては、もちろん経典に書かれています。経典には、上のように描写されています。

しかしながら、事態はそう単純ではありません。

まずデーヴァダッタですが、彼をブッダとして崇める教団が後世、恐らく数百年に渡って東インドに存在していました。もし単なる悪人であれば、これだけ信奉者が存続したでしょうか。
経典をよく見てみると、彼は恐らく仏教以前の苦行を大切にする保守派で、お釈迦様の中道を理解せずに苦行を主張したのではないかと思えます。それがお釈迦様に受け入れられなかったので、分離独立をした分派だったのではないでしょうか。同調者がそれなりにいて、後代まで対立構図が続いたために、経典では極悪人のように扱われたのかも知れません。

アーナンダ。
実はアーナンダはかなり優秀かつざっくばらん、しかもイケメンな僧侶で、経典を見るかぎりかなり人望があった。お釈迦様と常にセットで行動もし、目立った人物でもあった。
一方、お釈迦様の後継者とされたマハーカッサパは極めて真面目かつ厳正な年長の人物だったようで、教団とは少し離れて修行に打ち込んでいた。その孤高の性格は尊敬はされども、一般の信徒の人気はアーナンダに及ばなかったように見えます。
このアンバランスを、教団維持と和合のためにどう調整するか…という時に、アーナンダは修行者としてはまだまだ半人前だったのだ、という位置付けがなされたのではないでしょうか。

アーナンダにせよデーヴァダッタにせよ、事実はどうあれ、それでお釈迦様の説かれた教えが変わるわけではないし、枝葉末節の話かも知れません。
しかし、経典を離れて考えみますと、私たちの日常においてもさまざまな「人物評」があり、噂や思い込みで他人を「ああだこうだ」と判断批評し、やれあれは良い人、これは悪い人、あれは優秀、これは取るに足らない…と相手を決めつけていないでしょうか。
実際には、完璧な善人も悪人もいないし、優秀な人も取るに足りない人もいないです。それはあくまで決めつけと、「自分の都合にとって役に立つか立たないか」「好きか嫌いか」「意見が同じか違うか」に過ぎなかったりするものです。

改めて身の回りの人を眺めてみましょう。冷静に見てみれば、違う面が見えてきます。またこれは、自己評価についても同じです。自分自身がどういう人間か、それもまた冷静に振り返ってみれば、勝手に「自分はこうだから」と限界を設定して縛っていたものが、本当に自分をしばっていたのか、自分自身でそう決めつけていただけではないか、そのあたりも新しい見え方がしてくるかも知れません。
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