प्रज्ञापारमिता

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仏道と学問

2020年06月05日 | 仏教・思索
仏教は学問ではない、という話。

僕は仏教学は好きだしその類の本も読みますが、基本的な立脚点が違いますから、別に仏教学がこうだから何がどうだ、とまでは考えていません。参考にし、また尊重はしますが、何が何でもそれに依拠するわけではない。
たとえば「縁起」について、学問的には釈尊と龍樹がまったく一致しているかは疑念があるのですが(縁起・無自性がイコール空であるか否か、相依性縁起の問題とか)、僕は全く一致している、と言うのみです。それを基盤に大乗の仏道は成り立ちます。それが正しいか間違っているかは議論の対象にはなりません。まさに同じであるという地平で我々は2千年やってきたし、その道筋に間違いはなかったと認知していますから、それで良いのです。
その上で仏教学を知り、学問的にそれは違うという見解を学び、その齟齬を受け止めながら、そのズレに立ち上がる一致を見出して控え目に会通していくわけです。学問と違い、仏道はすでに明らかです。明らかな道に確信もなく、世の終わりまで流動的に変化する学説に右往左往して、いったい人はいつ道を歩き始めることができるでしょうか。
また、釈尊伝における記述、たとえば四諦や十二縁起は釈尊の自説です。後世の付加とは見做さない。相互の伝記に違いがあったとしても、どちらも事実であり、読むごとに如何なる加持を感得し教訓を得るかがすべてであり、文献学的な差異の追求は我々の道においては存知しない領域(聖書の四福音書解釈と似たような話かな)。
その仏教者の基盤に立ちながら、仏教学をなるべく客観的な学問として理解し、理解してから腹に落とす(理解せずに腹に落とすと、あらゆる意味で学問と仏道を混同する)。
いかなる部分でも様々な解釈があって良いし、仏道にもバリエーションはあるし、時や場所により変化していくのもまた事実だけれど、しかし今ここに生きる僕自身(とは何だろう?)の仏道において、その事実はあまり意味を持たない。
仮に報身仏が顕示されたからと言って、それを学問的に分析して解釈し否定するか肯定するかを決めるのだろうか(それが悪い顕現か否かは仏教学ではなく仏道に照らして判断せよ)。目前の事実に包まれ涙を流し一致を知り、それを受け入れて生きていくべきではないだろうか。
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四大学派

2020年05月21日 | 仏教・思索
インド・チベットにおける四大学派についてのメモ。


●説一切有部 無形象知識論 …認識対象はある

●経量部 有形象知識論 …対象はあるが刹那滅であり認識は知識内の表象

●唯識 有形象唯識派 …対象はなく一瞬間前の顕現した意識が認識の原因
    無形象唯識派 …認識は思惟であり迷妄、本質は思惟を離れた光輝く照明そのもの

●中観 …知識も対象も実在しない
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対人評価

2020年05月08日 | 法話関係
大成は欠けたるが如く
大盈は沖(ムナ)しきが若し   (秘蔵宝鑰第四)


大成はかえって欠けているように感じたり、満杯は空っぽのように見えたりするものである。

…………………………

我々人間は「社会的動物である」と言われるように、どうしても一人で生きていくことはできず、常に誰かの助けをもらいながら、また自分も誰かを助けながら生活をしています。
「俺は自分一人で生きている」みたいな顔をしている人であっても、実際には社会の中で誰かのお陰で生きてきたし、これからもそうやって生きていきます。

このように私たちは他者との関係を色々と切り結びながら毎日を送りますが、その中でどうしても「相手を評価する」ことをしていきます。
「この人は役に立つか立たないか、危害を加えて来るか来ないか、性格が良いか悪いか、好きなタイプか嫌いなタイプか、お金持ちか貧乏か、健康か不健康か、頭が良いか悪いか、職業は、国籍は、学歴は、顔カタチは、家柄は…」等々、人は無意識のうちに素早く相手を評価して判断して、自分にとって価値がある相手かどうかを決めているのです。
これは一瞬で直感的に決めてしまう部分と、後で得た情報(職業や学歴や国籍などは一瞬ではわかりません)と、そのふたつを合わせて判断しています。

ところがこの判断と言うものが信用できないのです。
「あんな人だとは思わなかった」というのはよく聞く話です。

なぜそうなるかと言うと、人は自分の価値観や常識やそれまでの経験、狭い自分の視野の中で相手を評価してしまうからです。それで相手を見たとき、どうしても自分の常識や思い込みに当てはまらないものは馬鹿馬鹿しく見えてしまったり、愚かに感じてしまったりするものです。逆にそこで感心してしまって心酔して騙される、ということも起こります。

インド映画に『パッドマン』というのがあります。

(中略)

この映画にあるように、「こうに決まってる」「常識はずっとこうだったから」というのは、それほどいつも正しいというわけではありません。自分が安易にわかったつもりになっていること、あるいは「あの人はちょっとバカなのじゃないか」「あいつは凡人だ」と決めつけたり、逆に「あの方は素晴らしい、生き仏だ」「あの先生こそいちばん信用できる」などという頑なな思い込み、でもそれは本当にそうなのかな、といつもちょっと立ち止まって深く考えてみる癖をつけることで、目の前の人の新しい面、より真実に近い姿が見えてくるようになるかも知れませんね。

とにかく自分の知恵や知識はいつも足りないと思い、そして相手をすぐに判断して「こうだ」と決めつけず、謙虚に相手を見て何でも柔軟に捉えてみること、そうやってお互いに尊重しあいながら社会の中で助け合い、思いやりを持って生活していく。
特にコロナのことで気持ちもギスギスして攻撃的になりがちです。
身体の距離は取っても、心だけは優しい気持ちで繋がりを絶やさないことが、私たち人間にとってもっとも大切なことなんじゃないだろうかと思います。
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三密

2020年04月08日 | 法話関係
真言門に略して三事あり
一には身密門
二には語密門
三には心密門なり
   (大日経開題)

真言には略して三つの部門がある。それは仏の内密である身体と言葉と心に関する法門である。

…………………………

新型コロナウイルスで世界中が悲惨な状況となり、百数十万人の感染者、また十万人に迫る・あるいは超える犠牲者が出てしまっています。
日本においても大都市には緊急事態宣言が発令され、感染者・犠牲者とも増え続けています。まさに非常事態で、それは大都市だけではなく、地方都市や農山漁村に至るまで他人事ではありません。
今こそ、我々一人一人の自覚ある行動が求められており、それが自分自身や家族、地域社会を守ることになります。

STAY HOME。これが世界中の今のキーワードです。家にいること。人混みに行かない。外出は最小限に、出掛ける場合も衛生に気をつけて、他人との距離を保つこと。マスクをすること。帰ったらすぐに手を洗いうがいをすること。それが自分自身や家族、地域社会を守ることになるのです。

厚生労働省は、私たちが生活していくにあたり、「三密」を避けること、つまり

(1)換気の悪い“密”閉空間
(2)多数が集まる“密”集場所
(3)間近で会話や発声をする“密”接場面

これらを避けることを強く要請しています。皆さんも必ず守ってください。
余談ですが、「集近平を避けよう」という言い方もインターネットの世界では言われています。「集まらず、近づかず、閉鎖空間に行かない」という意味です。

さて本題ですが、実はこの「三密」という言葉は、仏教にもあります。真言宗にとっては非常に大切な言葉です。意味はもちろん、厚生労働省の言うものとはまったく違います。
『ブリタニカ国際大百科事典』には、仏教の「三密」についてこう書かれています。

【仏教用語。主として密教でいわれ,身密,口密,意密の総称。仏の身体と言葉と心によって行われる3つの行為は,不思議であることから三密と称される。また衆生の身体と言葉と心によって行われる3つの行為(三業)も,その隠された本性においては仏の三密と同等であるとされる】

つまり簡単に言うと、仏教でいう「三密」とは、「仏によって為される身と口と心の行い」のことで、それは実は「私たちの普段の身と口と心の行いと同じである」という意味なのです。
真言宗では、この私が本当は仏であることに気づきなさい、と言い続けています。私たちの本質はつまらないものではない、単なる凡人凡夫ではない、無力な者ではない、私たちは仏陀である、如来である、ということです。それに気づいたとき、私たちは自覚ある仏・ブッダとして新しく生きていけるのです。

4/8はお釈迦様の誕生日ですが、私たちも日々ブッダとして生まれていく気持ちでいなくてはなりません。それを意識する日でもあります。

人間は「身と口と心」以外の行動をすることは出来ません。
たとえば端座合掌して真言をお唱えする、読経する時、そういう時は身と口は仏と同じです。心はまだ違います。しかし仏を思い、念じ、真剣に拝むならば心も仏と一致します。その瞬間、あなたは仏以外の何者でもありません。普段の行い(三業)が仏の行い(三密)になっています。
それが四六時中そうなっていけば、それを「仏陀」と言います。私たちはそれを達成しても一瞬のものですが、お釈迦様や弘法大師はそれを身に付けられて仏を自らに成就された方々です。私たちもそれを目指していかなくてはなりません。

さて、身と口はどうにかなるとして、心をどうにかするのは難しいものです。また、拝んでいないときにどうしたら身と口と心が仏と一致するのでしょうか。
実は拝む時に心をどう作っていくか、どのように考えるかは、きちんとした理論、理屈、やり方があります。光明真言のときはこう、般若心経ならこう、薬師如来真言ならこう…という風に。しかしその場合であっても、根本には慈悲心、思いやりの心が大切で、どんな高尚な理屈も、結局は慈悲として働かなくては価値がありません。意味がないのです。
ですから日々の中ではとにかく慈悲と思いやり。これに尽きます。

厚生労働省のいう「三密」も、自分の身を守るとともに、大切な家族や地域社会を守りたいという思いやりが基本です。仏教の「三密」も思いやりです。どちらも慈悲と思いやりの行動そのものです。

4/8から4/14まで、ご本尊・薬師如来をご開帳しています。この仏様も慈悲の塊です。人を救いたい、病を治したい、そういう願いのこもった仏です。私たちも仏です。この薬師如来の心をこそ、自分の心としなくてはなりません。

あなたこそ、慈悲の仏なのです。
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お大師まいり

2020年03月29日 | 閑話休題
【先ほど僕がFacebookにアップした投稿の転載です】 


弊寺では土砂加持法会は意外に密集、また食事接待では明らかに「濃厚接触」になるため規模を縮小して行いました。
また、4/12・13の「お大師まいり」は全霊場一律に「お接待の中止」と相成りました。

しかしやはり寺院は信心の場です。

近年の「お大師まいり」は、各札所での地域の方の接待のレベルの高さや観光協会が実施する「スタンプラリー」が注目され、やれ霊場札所のインバウンド戦略だのサイクルツーリズム開発だので盛り上げる機運があったわけですけど、寺院としてはここは一度ちょっと立ち止まり、素朴な信心とは何かとか、願いや救いを求めて回られる方にもっと目を向けていく、そんな機会にしたいものです。

弊寺はお接待は今年はいたしませんが、それ以外は通常通り巡拝していただけますし、御朱印やお灯明も変わらず受け付けます。この二日間は基本的には本堂にいますが、実際ヒマになりますので、法話や雑談など希望の方は、遠慮なく話し掛けてください。
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荒神さん拝み

2020年03月28日 | 仏教・思索
本日28日は三宝荒神の縁日でもあり、福楽寺の裏手にある荒神社にて、今般の新型コロナウイルスの早期沈静化と、並びに人心の安寧を祈らせていただきました。
三宝荒神は自然の威力を司り、また竃神として拝まれますが、実は疫神でもあり、まさにこのよう時にこそご活躍をされる神様であります。

  

祈ってどうにかなるなら苦労はしない、という言葉もあります。
そういう言葉を投げられたことも一再ならずあります。

確かに、人はいつか病になり、死にます。

僕の昔のブログから引用しながら書きます。

【諸行無常である限り、体の病はいつかは受け入れなくてはならないし、人の命には限りがあります。天寿は如何ともし難い。釈尊も他の覚者・先師・諸菩薩の方々も、皆、その道を歩まれて、形色の身体を去りゆかれました】

しかし重要なことは、

【三毒煩悩の病をこそ超克して如来蔵一大海を覚し、もって現世に菩薩行を生きる者となることです。諸々の現実的な病を癒す等等という資生の誓願も、結局はその「菩薩行を生きる者となる」為の勝方便と受け止めなくてはなりません。
「祈った、癒された」…それだけでは、無意味です】

イタリアで倒れた神父方のように…あそこまでの行為ではなくとも、僕たち日々に思いやり、愛、慈悲を行うためです。そのための健康です。

【「祈った、仏性を感じた、信じた、他者の仏性を拝む…あぁ、自他不二だったのか」。現世利益を通して、本当の実相に目覚めることこそ肝要です。そして真剣な祈りは、必ず、そこに到達します。それが「信」です。
具体的な癒し・現世利益ついてはその後に来る筈のものです】

そして、

【現実に不思議な「しるし」があり、病が癒えることもあります】

これは僕も目の当たりに経験済みのことで、本当に不思議なことはあります。しかし、そこ終わったなら無意味です。
思いやりや愛や慈悲を行うための祈りであり、仏や神、Something Greatとの一体性や繋がりを静かに自覚していく重要な時間が、祈りです。僕たちはそこが基盤です。

【事ここに至った時、その人の利益観は劇的な変容を遂げていることでしょう。
繰り返しますが、単なる現世利益は、ただそれだけのことです。
本質をしっかりと見極め、自分自身の本有の仏性をこそ覚すべく祈りの生活をしたいものです】
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祈りと努力

2020年03月21日 | 時事関連
Newsweekの記事から。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2020/03/post-351.php

【また、プロテスタント系の宗教に夢中になっている遠い親戚(スイス人女性)は、「神が守ってくれているから、自分や自分の周囲は感染しない。もし感染しても大丈夫だ」と言っている。彼女は高齢者の訪問介護をしている。もし彼女が感染してクラスターを発生させてしまったらと想像すると怖いが、ご主人が諭そうとしても、聞く耳は持たないそうだ。
カトリック教の中にも、似たことを発言する人がいる。保守的な思想をもつことで知られるE補佐司教は、感染と戦うには衛生管理などは不要で信仰が大事だとし、「奇跡を期待しています。神のお力とご加護を信じています」とインターネットで発信しているそうだ】

………

以下、賛否両論あるとは思いますが、僕自身の考えです。

イタリアやスペインを中心にヨーロッパが冗談ではなくなって来ていますが、相変わらず「宗教」に関して「カテゴリーエラー」を起こしている人がいるみたいですね。
病気の感染と信仰や「宗教の正邪」はまったく関係なく、敬虔な信徒でも無信仰者でも罹患については基本的には同じですよ。ウイルスは物理的アタックなのです。たとえば包丁で刺されるのと同じで、信仰があれば刺されても血が出ない、なんてことはありえません。ウイルスは目に見えないから神や霊的なレベルのものと誤認してるのか知れませんが、ウイルスは物理的なものです。

宗教の、あるいは祈りの役割は、たとえばウイルスの沈静化を祈るのは有効だと思います。法界力、加持力はそこにも働きかけるでしょう。人の心やカルマにも働きかけるように。でも目の前で現在進行形で猛威を振るうものがあれば、それはどうしたって危険なわけです。
病気にはなっても病人にならず、が宗教の真髄でしょう。それは今の状況で言えば、感染が拡大しても(病気になっても)パニックにならない・状況を過小視過大視もせずに冷静に見極める(病人にならない)、そのような心を祈りによって与えられる・発現していくこと。その強さを函養すること。
基本はそこです。

奇跡は起こり得ます。それは祈りを通して起こるのでしょう。しかしそれは奇跡であって、お金を入れたら商品が出てくる自動販売機ではないんですよ。キリスト教的には、奇跡は恩寵であるのですが、それは「こうしたらこうなる」的なオートマチックなものではありませんよね。そこに期待して具体の対策を放棄するのは罪です。あなたが仮に奇跡に与かっても、今まさに誰かが物理法則に従って死んでいるわけです。そこを人力の及ぶ範囲で努力して防ごうとするのは、この世を委託された人間の務めではないんでしょうか。祈りを中心に据えた努力。祈りだけに注力する段階ではまだないし、やれることは個人レベルでもまだたくさんあると思います。
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お経をよむ

2020年03月19日 | 仏教・思索
お経を「よむ」というのは、読む・詠む・誦む…のどれでしょう。

読むというのは、基本的に黙読ですからこれは違うような気がします。詠むというのは歌を詠む、という時に主に使いますのでこれもちょっと違う。和歌を作ったり、あるいはそれを吟詠することですね。芸事の意味合いが強いでしょうか。誦も実は詠と似たような意味合いがあります。

さて。

お経を読誦する、と言います。

日本仏教の世界ではこの場合、読は経文を見て読むということで、誦は暗唱して唱えることとして考えられています。
ですからお経を「よむ」という場合、詠は芸事のイメージが強いので除外するとして、「読か誦」を使うのが良いと思われます。ただ、「読む」というと、どうにも字を追って読書するイメージが強くなるので、個人的には「誦む」が(経本を目で追っていたとしても)まぁ無難かな、と。

そもそも読経というのは、「口ではなくて耳で読め」と言います。確かにこの声は自分が出しているわけですが、経文はブッダの言葉、ブッダの声です。それを己心のブッダ・仏性が震えながら説法をしておられるのであって、「俺が誦んでる」だなんて考えてはいけません。ブッダとしての自分が…となれば良いですが、まだまだそこまでの自覚がない我々は、この声はブッダの声であって、それを自分の発声器官をお貸しして説法をしてくださっている、と思うべきです。

であれば、「よむ」というのは「聴む」と書いた方がいっそう相応しいのかもしれないですね。
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福楽寺土砂加持法会について

2020年03月11日 | 時事関連
新型コロナウイルス感染を食い止めるため、日本全国でさまざまな取り組みが行われているところですが、秋穂地域でも「お大師まいり」のお接待自粛等の決定がなされることになりました。

福楽寺におきましても、今年度の土砂加持法会は三月二十六日(木)の十四時から行われますが、さまざまな事情を勘案いたしまして今般、総代世話人会での協議の結果、以下の決定をいたしました。

● 昼食のお接待は中止
● 法話の中止

土砂加持供養じたいは当寺の絶やしてはならない大切な務めでございますので、どのように事態が推移したとしても予定通り十四時から本堂にて厳修いたします。また、位牌堂の霊供膳供養なども変わりなく行います。
檀家様各位におかれましては参集の自粛にお勤めをいただき、それぞれご自宅等において、ご先祖様また故人様の菩提をお祈りいただけるようお願いを致します。

卒塔婆と基金の受付は例年どおり本堂うしろにを設置してございます。ただし今回は総代世話人様のお手伝いは自粛いただいておりますので、住職か副住職が対応をいたします。
また受付に関しては、当日の九時から十三時までのほか、三月十五日以降は随時お寺にて受付をいたしておりますので、卒塔婆供養三千円を添えて、ご都合の良い時にそれぞれお参りいただいて申し込まれるか、もしくはお近くの総代世話人様にお預けいただければと思います。郵送での申し込みも受け付けております。

以上、ご理解とご協力を賜りますよう、宜しくお願い致します。

早期にこの新型コロナウイルス禍が終息し、皆様が安心して生活できる状況になることを心から祈念いたしております。福楽寺といたしましては、七月の開山忌法会ならびにお盆行事が滞りなく行われることも強く願っております。

南無大師遍金剛
おんころころせんだりまとうぎそわか


医王山福楽寺 原田智秀
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心のコントロール

2020年03月08日 | 法話関係
珠を持てば善念生じ
剣を把れば殺心の器

『宗秘論』


数珠を持てば善の心が生じ、刀剣を握れば殺意が起こる。

…………………………

心のコントロールというのは難しいものです。
それがなぜかというと、第一に心が目に見えないので「取っ掛かり、ハンドル」の場所がなかなか見つからない、ということです。ハンドル場所もわからない自動車を運転することは困難です。
次に、「自分の心」をコントロールしようとしているのもまた「自分の心」だからです。思うように制御できない自分の心で、果たしてうまくその同じ自分の心を整えることができるものでしょうか? とても難しいと思います。

だったらもう無理だ、心のコントロールなどできない、と諦めるべきでしょうか。決してそんなことはありません。

弘法大師の言葉に、「珠を持てば善念生じ 剣を把れば殺心の器」というものがあります。つまり人は環境によって心がどのようにも変化していく、ということです。心を整える方法は、環境を良くすることです。
しかし、数珠にしても刀剣にしても、目の前に転がしているだけでは無意味で、「それを手にとる」という行為は必要ですから、環境に受け身であってはなりません。また、刀剣しかない環境だからあきらめてはなりません。刀剣は手にとらなければ良いのです。そうして、数珠を探して手にとるのです。

ここで大切なことは、数珠や刀剣というのは「良い環境・悪い環境」のたとえですけれど、だからと言ってすべてを環境のせいにしてはなりません。本来、環境そのものに良いも悪いもないのです。ただ、様々な環境がある、ということです。
刀剣は殺生の心を引き起こし易いですが、良い用途に使うことも可能です。数珠は良い心を引き起こし易いですが、慢心を引き起こす場合もあるのです。環境がすべてではなく、その環境をどう良い性質のものと捉えて考えていくべきか、そこが大切です。

つまり、心をそれだけでコントロールするのは難しいのですが、今ある環境を利用して心を良き方向にコントロールしていく。「環境を良くする」というのは、環境じたいを変えてしまうということではなく、それをどう見て、解釈して、良き捉え方をしていけるか、ということなのです。
もちろん刀剣よりは数珠のほうが良いでしょう。しかし、刀剣しかない時もあります。その時には、その刀剣を立派に良く使えば良いのです。
そういうことを心がけていると、心そのものを扱って変えよう、コントロールしようという気持ちがなくとも、自然に徐々に自分の心がコントロールしていけるようになるものです。
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