प्रज्ञापारमिता

言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。
究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。

2019年01月19日 | 弘法大師聖句
三界の業報 六道の苦身
即ち生じ即ち滅して念々不住なり


「吽字義」

これまでの行いの結果としてこの世で来る心で生きている。生命は生滅を繰り返して一瞬たりとも留まることがない。

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カルマ、業については差別の問題があり、近年は避けられがちなテーマではあるけれど、善因楽果・悪因苦果は過ちなき事実であるというのが仏教の立場であれば、たとえば今の苦しみや境遇は過去のカルマの結果であることは疑いはない。
ただ気をつけなくてはならないのは、因は一つではなく複合的であること、共業というものがあること、そして「現在の結果」は実は結果ではなく、過程にあるということ。今の業が未来に働きかけていく。念々不住。そこに本質も解答もなく、プロセスの一部を切り取り固定化して差別をするならば、した者こそがいずれ苦の果を結ぶだろう。
いずれにせよ業は動くのだから、今為すことがすべてだ。さらに言えば、人間に生まれている時点で、仏道を歩む・また触れる機縁があり、これは生半可なことではなく、それだけで過去に善業あったればこそ。
同じ時代、同じ地球にともに生きている仲間は、みな大なり小なり苦に引かれながら、過去の業を消化し、また現在に業を形成して生きていく。手を取り合い、助け合いながら生きるしかないし、慈しみ睦み合う社会を作らなくてはならない。みな大同小異なのだから。
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崩れゆく

2019年01月14日 | 弘法大師聖句
百の媚の巧なる笑も枯れ曝せる骨の中には更に値うべきこと難く 
千の嬌の妙なる態も腐ち爛れたる体の裏には誰かまた敢えて進まん

「三教指帰下」


なまめかしく笑っていたあの美人が、今では骨になって会いにくる人もいない。さまざまに愛嬌をふりまいたあの美女も、腐ちてその肢体に誰も振り向かなくなった。

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美しい美男美女、のみならず、美しい伝統芸術、儀礼、服飾、音楽、自然の景色であれ親しい人間関係であれ、愛情や友情であれ、この自分自身すら、すべては移り行き、過ぎ去り、朽ち崩れてしまい、いずれ跡形もなく消え去る。だからこそ「美」やあらゆる観念には価値があるのだが、いつか…いや、今も崩れ行きつつあると、ここに留まることはないと、心底、理屈ではなくて心の底から、わかっておいたほうが良い。
そこから開ける幸せは、深い。
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人間崇拝

2019年01月11日 | 東亜仏典の言葉
当に知るべし、衆生は自ら度するべきものにして、仏は度すること能わざることを。努力よや、努力よや。自ら修して他の仏力に椅ることなかれ。経に云はく、夫れ法を求めむ者は仏に著いて求めず。

『頓悟要門』

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「日本仏教の特徴の一つは人間崇拝にある」とは中村元先生の指摘を俟つまでもなく、インドや中国の仏教を鑑みても確かにそれはそういう傾向があるかな、とは思う。確かにどの国や宗教についてあってもカリスマ崇拝はありうるし、また現にあるわけだけれど、理屈や思想的基盤を突き詰めるよりも、現前の人や事態に随順する傾向はやはり強め、とは言えるだろう。
「信」についての日本独特の(信を初門ではなく究極の立場に置く)信中心主義、たとえば日蓮における「以信代慧」「末代幼稚の頸に…」などは典型だし、また真宗などもそうだけれど、智慧より信、ダルマより人格的仏、仏より現前の人、原理原則より状況、という抜き難い傾向、これを長所と考えるか短所とするかは様々な立場があるだろうけど、まぁ、日本仏教の特徴のひとつとは言えるだろうかな。
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宇宙

2019年01月07日 | 法話関係
あけましておめでとうございます。

昨年末に、中国の無人宇宙船が月の裏側への着陸に成功した、というニュースがありました。素晴らしいことですが、宇宙全体の広大さに比べたら、月などはまだ地球の玄関の内側程度のことで、私たち人類はまことにちっぽけな存在に過ぎません。
地球は太陽を一年かけて一周します。そして太陽が銀河系を一周するのには、約25億年かかるそうです。その銀河系も実は無数にある他の銀河系に比べたら特別に大きなものではないようで、宇宙のことを考えると少し怖いような、圧倒されるような気分になってきます。

さて、「宇宙」という漢字ですが、宇は空間、宙は時間を表します。空間と時間が組み合わさって、私たちの生きる宇宙・世界は成り立っています。これはもちろん物理的な世界もそうですが、精神的・こころの世界も同様です。
私たちのこころの世界を作るのは、必ずまずつながりが必要です。家族や友人や地域・職場の人とのつながりです。それがあってはじめて、私たちのこころが動き始めます。生まれてからすぐ砂漠の真ん中で、誰にも会わず、言葉も何も教えられなければ、こころは動き出しません。これは「宇宙の宇=空間」のようなことです。
次に、こころは過去と未来があるから、動きます。過去も未来もない世界がもしあれば、こころどころか、物の運動もないのです。過去の時代の蓄積や経験があって文化や歴史があり、私たちは人間らしくなり、未来を想像しながらこころを動かします。これが「宇宙の宙=時間」です。

仏教では、この「宇宙の宇=空間」でこころを人間らしく活かすためには慈悲が必要と教え、「宇宙の宙=時間」を見つめてこころを人間らしく活かすためには智慧が必要と考えます。
「仏様・御本尊」とは、この空間と時間の無限が、つまり完璧な慈悲と智慧が、私たちにもわかるように現れて下さったお姿なのです。つまり、私たちのこころがあるのは、すべて仏様の働きがあってこそ、なのです。
そして、動いているこの私たちのこころとは、実際には仏様の無限の慈悲と智慧の働きと別のものではありません。ただ、煩悩や無知によって私たちがそこに気づいていないだけですから、その汚れをいつも掃除しながら、自分自身が仏様の慈悲と智慧そのものだ、その光と一体なのだと念じながら手を合わせていくと、必ず無限の空間、無限の過去未来を目の前に見ることができます。そこには、昔亡くなった懐かしい顔も見られるし、遠くの大切な人も目の前に見えてくるのです。

本当は誰もひとりではなく、同じなのです。みなすべて、ここにおります。
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あけまして

2019年01月01日 | 閑話休題
あけましておめでとうございます

旧年中はお世話になりました

本年もどうぞ宜しくお願い致します



毎年、ことしはどういう一年にしようかと考えたりしますが、考えたところでそのように進むわけではなく、取り敢えずは右往左往して心が折れそうになりつつ、なんとか一年を乗り切って新年を迎えられたこと、ホッとしてます。
未だに「生きること」に慣れないままで生活することに精一杯、善知識にならなあかん坊さんとしては皆様に申し訳ない気持ちですが、もがいてます。

今年は元号も変わるし、僕自身、色々と変えていく必要も痛感しておりまして、アウトプットを減らしてインプットにシフトした一年にしたいと考えてます。知識面という意味だけではなく、何と言うか、階梯…僧侶としてもそうだし、人としての。階梯を一段、上がりたい。惰性もあり、停滞気味で辛い。

そんな感じで。

頑張ります。
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懈怠と慈悲

2018年12月23日 | 仏典の言葉
『摂大乗論釈真諦訳』

精進の行は久遠時の中に於て、一切の善を修す。若し衆生に於て慈悲心無ければ、自身を愛惜し、修行する所に勝れたる功徳有ることを見ざるが故に、修行する所の中に於て疲怠の心を生ず。此の心有るに由りて精進すること能ず、即ち是れ懶惰なり。懶惰は即ち是れ退弱心の因なり。

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なぜサボるか。
なぜ「俺じゃだめだろうな」と思うのか。

大悲がないからだ。

菩提心というのにも色々な定義があるけれど、ある定義によればそれは、

・布施心
・三解脱門…空観
・慈悲心

とされている。
そうしてその実際上の根本は慈悲心に他ならないのであって、これがなくては菩提心がないということであり、菩提心がなければ当然、仏道において本当の意味で精進するなどは不可能だ。
「本当の」と言うのは、たとえば自己顕示や自己満足、虚飾や自慢や支配のためにそれを「しているように見える」場合があるからであって、大抵はそれは無自覚で自分みずから誤認していたりするので、そこに慈悲があるのかを常に再確認しながらやったほうが良い。
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人間とは何か

2018年12月19日 | 仏教・思索
誰でも仏になる可能性(仏性)はあり、その器である(如来蔵)。
ただその器は空っぽ(阿羅耶識)なのであって、そこには本来、毒も薬も甘露の水も入っていない(無自性)。毒=悪を入れれば毒=苦の人間になり、薬=善を入れれば薬=楽の人間となる(縁起)。そうして、地獄乃至天界に行くことになる(輪廻)。甘露の水を入れれば(下種)、菩薩となり仏となる。
器は相変わらず器で、何であれ入れることができ、何かが入るから器である(空)。
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六波羅蜜の解説

2018年12月17日 | 仏典の言葉
大乗仏教の実践の基本は六波羅蜜です。
原理的に波羅蜜乗と真言乗を分離していく考え方もあるのですが、如何にしても現実生活においては具体の実践方便は重要であって、その根本はやはり六波羅蜜であります。
この六波羅蜜は様々な経論に説かれておりますが、この度は無著菩薩『摂大乗論』からご紹介します。この論書の第四章(入因果勝相)では十一節に渡って六波羅蜜を説いていきます。

この中から、第五節・第七節を取り上げましたが、非常に明快簡潔に六波羅蜜を解説されていますので、参考になさってください。

以下は岡野守也・羽矢辰夫による現代語訳からです。


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第五節 名称について

どのような意味で、六波羅蜜という名称を立てるのか。どのような意味として見るべきか。
一切の、世俗、声聞、独覚の布施などの善の機能のなかで、もっとも勝れ最高だからであり、〔悟りの〕彼の岸へ到りうるから、それゆえに共通して波羅蜜と呼ぶ。
物惜しみ、嫉妬、また貧困、下賎の苦しみを破滅するので、「陀(da)」という。また、大資産家になることができ、また富と徳の資源を誘引するので、「那(na)」という。こうした意味があるので、「陀那(Dana)」(布施)という。
誤った戒律や悪しき道を鎮めるので、「尸(si)」と名づける。また、善き道と三昧を得ることができるので、「羅(la)」という。
瞋りと恨みの心を除くことができるので、「犀(ksa)」と名づける。また、自他の平和を生み出すので、「提(ti)」という。
怠惰ともろもろの悪しき存在を除くので、 (vi)」と名づける。また、いいかげんでないということを実行し、限りない善き存在を生み育てるので、「梨耶(rya)」という。
注意散漫を除くことができるので、「持訶(dhya)」と名づける。また、心を 導いて内面に集中させるので、「那(na)」という。
一切の〔誤った〕見方を滅ぼし、誤った知恵を除くことができるので、「般羅(pra)」という。真実の相を対象として、その種類に従って、一切の存在を知るので、「若(na)」という。

第七節 六波羅蜜の違いについて

もろもろの波羅蜜の違いはどのようなものだと知るべきであろうか。
それぞれに三種あることによって、その違いを知る。
布施の三種とは、第一は真理の教えの施し(法施) 、第二は財産の施し(財施)、第三は恐れのない心の施し(無畏施)である。
持戒の三種とは、第一は抑制し防御する戒(守護戒)、第二はあらゆる善を包摂する戒(摂善法戒)、第三は衆生を受容し利益する戒(摂利衆生戒)である。
忍辱の三種とは、第一は他者の辱めや攻撃に堪える忍(他毁辱忍) 、第二は苦しみを安らかに受けとめる忍(安受苦忍)、第三は真理を洞察する忍(観察法忍)である。
精進の三種とは、第一は積極的に努める精進(勤勇精進)、第二はいっそう実行する精進(加行精進) 、第三はあきらめて撤退することがなく、壊されることなく、自己満足することのない精進(不下、難壊、無足精進)である。
禅定の三種とは、第一は安らかなる心に止まる禅定(安楽住定) 、第二は神通力を引き出す禅定(引神通定) 、第三は他者を利益する禅定(随利他定)である。
般若(智慧)の三種とは、第一は無分別に到る行の般若(無分別加行の般若) 、第二は無分別の般若[そのもの] 、第三は無分別[智]の後に得られる般若である。
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QUEEN、イラン、仏教

2018年12月16日 | 仏教・思索
映画『ボヘミアン・ラプソディ』がヒットしていますが、僕もQUEENは昔から好きなバンドのひとつでした。
音楽性も好きでしたけれど、フレディ・マーキュリーの生い立ちに関心を持ったのも理由の一つです。

ご存じのように、QUEENはイギリスのバンドですが、フレディはイラン系インド人です。イスラームの迫害を逃れた祖先がイランからインドに移住し、そこでフレディが生まれ(誕生はザンジバル)、後には一家でイギリスに移住。一家はムスリムではなく、イラン古来のゾロアスター教です。
つまりでイラン人としてはマイノリティ。同じく(恐らく)イラン人としては皇帝派であったのもイラン革命以降はイラン人の中でもマイノリティ。インドにおけるゾロアスター教コミュニティも無論マイノリティ。イギリスにおけるイラン人はマイノリティ。そして、ゲイであったのもマイノリティ。
ありとあらゆる点でマイノリティの立場に置かれていたわけです。
その彼が、「We are the Champion」を歌うわけです。コンサートではユニオンジャックとともに、イラン国旗がたなびく。
全くレベルは違うけど、社会や周囲からの疎外感を味わっていた僕も、多少の感情移入が避けがたかったわけです。

ところで、イラン。

フレディの一家はゾロアスター教でした。イスラーム化以前はイラン・ペルシャはゾロアスター教の国。そうしてゾロアスター教とは、光の宗教です。そうして、イラン人、あるいは中央アジアのイラン系民族の中には仏教徒もかつて多くいました。
思えば漢訳仏典の翻訳者として記憶される僧侶にはイラン人もたくさんおりましたし、中国華厳宗の大成者・法蔵もイラン人です。彼らのセレクトした仏典や論書には、光のイメージ、天使、炎、そういうものが横溢しています。非常にイラン的であり、大乗仏教的です。
ダルマというのは言語以前・概念以前です。それをそれぞれの時代や文化、言語構造のコンテクストにおいて言語化していくのが「具体の教説」なわけですが、大乗仏教においては、この「イラン的なるもの」をもっと知るべきなのかもしれません。
イラン・イスラームにおいても、いわゆるアラブ・イスラームとは異質な「光の哲学」の体系がありますが、洋の東西に及ぼされたイランの影響力はあらゆる思想の底流に、今もあるでしょう。正直、過小評価されていると思うのです。概念表象の枠組みの大きな部分を、イラン的なるものが担っています。
光背がイラン起源だ、とかいう細部だけではなく、大日如来や無量光如来、浄土、光明の概念、華厳経の中央アジアにおける編纂、…ダルマを言挙げしていく段階において、イランの力は無視できません。

仏教学の分野でもちょっとづつイランを視野に入れた研究がなされ始めているとは聞きます。この傾向は決して悪いものではないので、これから進展に期待していきたいものです。
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善悪苦楽

2018年12月15日 | 弘法大師聖句
因果は信ぜずんばあるべからず
罪福は慎まずんばあるべからず
鐘谷の応まことにゆえあり

「十住心第三」

原因と結果は信じなければならない法則であり、罪と福は慎み方の結果である。この道理は鐘が谷にこだますることと同じである。

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仏教における道徳律はこれに尽きる。
罪と福というのは、苦楽と言い換えてもいいけれど、善悪は必ず罪福・苦楽として自分がそれを受けなくてはならない。そうして苦と楽は常にセットだ。
一時はそこから逃れることは出来たとしても、どれほどわずかなものであれ、必ず実を結ぶ。
本当は善悪苦楽を超えて行かなくてはならないけれど、一足飛びには難しい。だから善悪苦楽を超える道を求め歩むための環境を、まずは整えなくてはならない。そのためにはなるべく福・楽なる状態でなくては、そういう気持ちすら起こすことは難しい。
だから、善を為せ。
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