प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

学び

2021年05月08日 | 法話関係
古の人は道を学んで利を謀らず
今の人は書を読んで但だ名と財とにす

(性霊集一)

昔の人は学問によって名利を求めなかったが、今の人は書を読んで名声と金銭に換算している。

…………………………

学ぶことは大切です。
そもそも私達は何も知らず、言葉さえもわからないまま生まれてきて、親や周りの人によって「学び」の第一歩を踏み出しました。学ぶことからすべてが始まったのです。

私達の人生はその後も死ぬまで常に学ぶことに裏付けられています。学びを止めたときに、人は終わります。生きているうちに本当の意味で「学ぶことがなくなった」と言えるのは、ブッダ・覚者になった時だけです。
仏教では、覚った人を「無学」と呼びます。「学がない人」ではなく、「もはや学ぶことがない人」です。その逆の私達のことを「有学」と呼ぶのです。

さて、「学ぶ」と言っても、学ぶ内容には色々なものがあります。それぞれ大切なことばかりですが、もっとも大切なことは「生きて死ぬこの私とは何か」を見極めることです。この一生に留まらない、この生命の実相を把握して、「死んでも死なないワタシとは何か」を見つけ出すことが最も大切です。真に学ぶべきは、これを措いて他にありません。
ところが私達はいずれ死ぬことを何となく脇にやってしまって、如何にたくさん稼ぐか、如何に知識を積み上げるか、如何に他人に褒められるか、如何に他人に好かれるか、如何にプライドを満足させるか、如何に自分がこの世をうまく渡るか…のために学ぶことだけをしてきました。

繰り返しますが、それも大切なことです。

しかし、最終的には、そのような学びは死ぬ時には用済みになるような話ばかりです。後生には役に立ちません。
ですから、そのような「如何に自分の役立つか」という学びをしながらも、「生きて死ぬこの私とは何か」「死んでも死なないワタシとは何か」をいつもじっくり考え、先人、つまり釈尊や弘法大師の教えを学ばなくてはなりません。
まさに名利とはまったく違う真の「学び」です。

しかし人間と愚かなもので、そのような「学び」すら、如何にたくさん稼ぐか、如何に知識を積み上げるか、如何に他人に褒められるか、如何に他人に好かれるか、如何にプライドを満足させるか、如何にこの世をうまく渡るか…のために使ってしまいます。
自慢するために、偉く思われるために、仏教を利用してしまうこともあります。
これは悪い僧侶や変な宗教の話ではなくて、私も含めて、油断するといつでもそうなってしまいます。それだけ「如何に自分の役立つか」という意識は根強いのです。

だから何を学ぶにせよ、まず第一に「役に立つか立たないか」という気持ちをすっぱり捨て、ただこの自分の本当の有様を見極めて苦を越えること、そして実はそれは「わたしひとり」ではなく、他者への慈悲が根本にはなくては「学べない」ことを知り、名利ではない学びを私達はコツコツと死ぬまで続けていきたいものです。
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仏生会

2021年04月08日 | 法話関係
人よく道を弘むという
この言は実なるかな


『性霊集十』

人によって道が広まるということは真実である

……………………………

本日は仏生会、いわゆる「花まつり」、釈尊、お釈迦様の誕生日です。
釈尊は今から約2500年前に、インドでお生まれになられました。釈迦族のカピラヴァストゥという小さな王国の王子で、何不自由ない生活をされていたそうです。
29歳ですべてを捨てて出家され、35歳で覚られてブッダとなられ、仏教はそこから始まりました。

さて、それでは仏教というのは、釈尊が作り上げた教えなのでしょうか。
釈尊は、「そうではない」と仰っておられます。仏教の教え、それを「ダルマ」と言うのですが、そのダルマは「ブッダがこの世に出ようと出まいと、覚った者がいようといまいと、宇宙のはじめから変わらず存在している理法、道理であり、私つまりブッダはそれを発見して完全に理解しただけであって、決して新しい何かを作ったり主張したわけではない」というものでした。
また、「このダルマ、宇宙の道理というものは、私の前にも覚った者はいるし、私の後にもまた、覚る者がいるだろう」とも仰っています。

そのダルマを覚る場合に、誰からも教えられずとも、自分ひとりで修行をしてそれを達成する人がいます。釈尊もそうでした。そういう優れた人は他にもたくさんおられたと思います。
しかし、基本的には、先達、つまり師匠や優れた先生の弟子となり、あるいは先人の智恵、特に経典の教えを学びながら修行してこそ、覚りへの道を歩いていくことができるのだと思います。
人から人、時代を超えて伝えられてきた釈尊の教え、仏教の教えというものが2500年という時間を超えて現代の私たちにまで伝わっています。

ダルマ、宇宙の道理というものは永遠の真理ですが、それを覚り言葉にして他者に伝えられたのは、釈尊がはじめの人です。教えとしての仏教は、釈尊から始まりました。
本日は、その釈尊の誕生を記念する日です。ここから仏教が始まり、私たちの生きて死ぬ意味や苦楽の人生のあり方、救われ方、そういうものの本当のところが教えられ始めたのです。
私たちの精神、心の本当の意味での自由というものが、釈尊の誕生から言葉となって教えられ始め、以後の人々、先達、もちろん弘法大師もそのおひとりですが、そういった人々によって現代まで伝えられているのです。

私たちは釈尊、そして釈尊から始まった仏教に縁のある者ですから、世の光である釈尊がお生まれになり、ダルマという道が指し示された、そのことに感謝と畏怖の念を持ちつつ、どうぞ今日一日は「善く生きる」とは何であるか…を意識しながら過ごしてみてください。
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輪廻と浄土

2021年04月06日 | 仏教・思索
死ねばどうなるか。

今は「近代仏教学」だの唯物論的科学主義だのに依拠した「常識」とやらで、輪廻も浄土も「単なる喩え」や「倫理上の要請」だの、「インド思想的な考えを仮に利用しただけ」などと言われたりするが、果たしてそうなのだろうか。
少なくとも業を前提にする限りは、「覚らない限り、世俗において」輪廻あるいは後生は絶対であり、それを否定することは断見であり邪義になるしかないのではないか。
またこれに関して、「魂」を「無我」を理由に否定することもあるが、そもそも否定される魂とは、二元的世界観における主体あるいは客体としての「常一主宰」たる魂のことであり、一時的な現象に過ぎないものとしての主体たる「私」、無常なる自我は厳然と存在しているのではなかろうか? 無常なる主体や魂まで無存在であるとするならば、すべての現象的存在すべてを否定することになり、それは虚無論であり、常見と同じ地平で邪見である。

仏教の原則に沿う限り、輪廻は厳然と事実。
そして浄土とは、この娑婆世界に外ならない。

弘法大師「一切経開題」に、

迷えば即ち濁悪の処 悟れば即ち清浄の処にして無染の境なり また浄土と名付く

…とある。

浄土とは別の場所にあるのではなく、この世である。一水四見というが、同じこの世にあれ、ある人にとっては地獄であり修羅であり天界であり、覚者には寂光土そのものである。生まれ変わり死に変わりして流れ着く地獄乃至仏界はすべて「ここ」であって、何もよその不可視の平行宇宙に行くわけでもない。ただ、それを見て感覚する我々の状態によって、違ったように見えてくるのみである。
たとえば西方十万億土とは、今の我々の心の有り様と如来の覚悟がそれだけ隔たっているということであり、実際には髪一筋の距離すらもない。

世俗にあれば輪廻に溺れ、覚れば存在しない輪廻を自在に泳ぐ、往生は輪廻の枠内、先は密厳国土即ち娑婆世界であるしかない。一水四見であれば、娑婆も浄土もあなた次第。その見解やサンスカーラが変わらなければならないのであろう。

また、葬儀や法事における供養の意味についても一言しておく。
向上門に約して述べる。現に迷う我々の立場からの実践の道。

さて、再び問うが、人は死んでどうなるか。

別世界に往生はしない。別の世界などはない。
すべては縁起である。客観的に構想されるような、ここでないどこかのパラダイスなどはない。死後は、修行を進めてない限りは善趣か悪趣に行く。死後は、必ず、楽の多い境涯か苦の多い境涯か、どちらかに引かれ行く。
それは基本的には、本人の生前次第。
この認識された足下の世界を、眼を閉じながら経巡る。我々は縁によって家族になり友となり敵となり、ここに生きている。
この縁は続くのだし、今もがっちり繋がっている。来世でどういう関係性に再編成されるかはわからないまま、いずれにしても絡み合う。
供養するとは、その縁に沿って、自分の善業を伝えて故人…それは目の前の隣人になっているかも知れないし、他の衆生として輪廻しているかもしれないが、その故人にとっての善縁としてもらい、今まさに生きている彼らの苦の要素を減らせるように働きかけること。
閉じた祈りではなく、働きかけること。

もうひとつは、自分が善く生きること。
故人とは、来世も関わり続ける。つまり、自分が善趣にあれば、彼らを助けられる。仏になれば一番だけれど、故人よりももっと善趣に生まれられれば、それだけできっと助けになる。

供養とは、今生でも来世でもすべきことで、実際に可能だ。供養は死者のためじゃない。すべてのためだ。
今この自分の隣の人たちと、相互供養の生活をしているだろうか?
そういう生死流転の中でいつか仏となり、この世界を浄土と観る。相互供養に切れ目はない。故人への弔いあげなどもない。弔いあげは、我々が仏となった日にしか、やってこない。

浄土は、ここにしかない。
穢土もまた同じこの土にあり。
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十二支縁起

2021年04月06日 | 仏教・思索
私たちの苦の人生は、どうして起こるのでしょうか。
楽しみがあったとしてもそれは束の間、いずれ人は老い、病に伏して死にいたり、愛する生活、愛する人とも別れひとり旅立っていかねばなりません。
生まれ変わり死に変わり、覚り仏となるまでは延々とこの苦しみが続いていきます。

仏教ではこの苦しみの構図を、十二支縁起として示しています。

その十二とは、以下です。

無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死

これらをまず3つに分けます。

【惑】
無明・愛・取
【業】
行・有
【苦】
識・名色・六処・触・受・生・老死

惑というのは「主客二分的な思考により、楽のみを求め執していくこと」で、迷いの心のことです。この迷いの心を起こすことで、業が起きてきます。業にはふたつあり、まずもっとも微細な「自他分別のわずかな思い」によって、行が起こります。行(サンスカーラ)とは身口心の三つの行為のことですけれども、正確には「具体的な三業を引く根本的な無意識・盲目的な行為への傾向性」のことです。次の「有」は、そうやって徐々に強化された傾向性に支配された三業による「存在への確信」に基づく輪廻的生存の行為全般、を指します。この「行と有」の原因が、惑なのです。
そしてそういう業の結果が、苦です。「識・名色・六処・触・受・生・老死」というのは、五感や心に感覚的に触れた物事を客観的かつ確実に存在すると認識して執着し、それに楽を追い求めて結果として苦に至りながら、いつまでもある筈のないこの肉体や生活の諸々が手から漏れ落ち流れ去る現実に途方にくれて更に苦を深めていく事態の構造を示しています。
そうしてその苦の結果、更に心が混乱して無明を深め、新たなサンスカーラを形成して闇から闇へと、生死流転を繰り返していく。

この無限連鎖の構造を明らかに見て、その「非実在性」を明らかに知ることが、仏教においてもっとも大切な物の見方でもあります。


無明 惑
行  業
識  苦
名色 苦
六処 苦
触  苦
受  苦
愛  惑
取  惑
有  業
生  苦
老死 苦
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帰依

2021年03月09日 | 仏教・思索
私達の実践の基本は、ともあれ如来を拝むこと、帰依することです。

私達は本当は如来と別のものではなく、つまり多様な波のような私達は本来は「バラバラに分かれたものではない一大海」に他ならないのですが、それに気づいていないだけ。
海はただ海であるだけですが、私達は自分を海と別の波だと見做してしまって、孤立した生を生きている。しかし海は波と常に一体で、勝手に分離したと思っている、あるいは海など知りもしない私達に常に働きかけています(働きかけるのは私達の立場から言える事態で、海の立場からは働きかける対象などありはしない)。

その働きかけを、感得できなくとも信じて受け止めようとするところに加持が感応していくのです。

分けてしまう私達の考え方、つまり主客対立するものの見方により、あるもの、つまり「私ではない波」に対して、或いは好きだから欲しい、嫌いだから排除したい、という考えが形成されるのですが、この第一を貪と呼び、第二を瞋と名付け、その元凶たる主客対立する見方を痴と称し、合わせてそれを三毒、つまりあらゆる苦の根源というのです。

だから、まずは「波は海であり、如来は私である」と信じねばなりません。

しかしいきなりそう「如実に知る」ことは出来ませんから、まずは波である私には海である如来からの加持があることを信じ、二元対立の私達の認識世界に、慈悲によって具体的に海が波として顕現して、つまり如来が加持により主客のものして現れてくださると観想をしていく必要があります(観想の中に現れるまでは仏像や仏画、あるいはマントラ自体などがその顕現です)。
その顕現した如来は、もちろん私自身なのですが、まずは対境として礼拝する、対象として帰依する、そうして波が実は海であるしかなかったのだと自覚していく。

その時、もはや、海だの如来だのと誰がそれを名付け、また認識しうるのだろうか?
波以外に海を海をたらしめるものはあるだろうか?

それが成就されるまでは、如来に帰依し続けなくてはなりません。
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ちぎり捨て

2021年02月13日 | 弘法大師聖句
さぁお寺の危機だ、仏教を広めなくてはならない…ということで、色々なイベントやら企てをする僧侶が多くいます。また、多くの僧侶がSNSを利用している時代でもあります。
最近はクラブハウスというSNSも話題になっていて、まぁああいうものも利用の仕方によっては「効果的」なのかも知れません。

ただざっと見渡してみると、SNSにせよイベントにせよ、残念ながらうまくいっているばかりではなく、内輪で盛り上がるあまり却って「新しい人」が入りにくい雰囲気になってしまっていたり、軽すぎて仏教そのものまで「そんなもんか」と思わせてしまっていたり、甚だしくは酒を飲みながらの娯楽偏重イベントや、SNSでも僧侶の立場で間違った知識や偏ったことを垂れ流し、挙げ句に汚い言葉(慇懃無礼も含む)を書き連ねて「法を下げる」場面も見られるのは残念なことです。
僕自身もイベント的なことに関わりはあまりないものの、SNSは使いますし、元がなかなか口も悪い方なので気を付けねばなりませんが…。

しかし根本的に、仏教の危機(お寺の危機…もしかしたら経営の危機、自分達の生活不安も…?)だとて、そこまで手段を選ばずの勢いで「発信」すべきなのかな、と思わなくもありません。それこそこんなブログを書いたりSNSをやりながら言うのも何ですが…。

弘法大師の『性霊集』にこういう言葉があります。

 高山澹黙なれども禽獣労を告げずして投り帰き
 深水言わざれども魚龍倦むことを憚らずして逐い赴く


つまり、山や海はどーんとそこに黙って存在しているだけで、生きとし生ける者たちは挙ってそこに行き集う、というようなことです。

インドにラーマクリシュナというヒンドゥー教の聖者がおりました。また、ラマナ・マハリシという方もおられましたけれど、共に100年くらい前の方々です。現在でも世界中の人々に敬われ信仰もされていますが、彼らは自分自ら布教活動に邁進して…ということはほとんどしていません。

自分のことをやる。

それに尽きていました。それが自然に感化を及ぼしていくわけですが、私としては、自分自身はとてもそこまでの存在になれないとも思いつつ、しかしそういう姿勢にこそ宗教者の真髄があるのではないかと思われるのです。
布教するな、ということではありません。それでは「小乗」になります。そうであってはならない。法施は重要です。でも「仏教やお寺の危機<だから>ネットを使って」「セミナーで学んでフィードバックして経営基盤を安定させて」「SNSで親しみやすく発信」というのも、それはそれでまた何か違和感があるのです。
そういうのがすべてダメとは言わないです(成功例もあるでしょうし、仏教への接点や窓口の存在としてそれらには大きな意味があるとは思います)が、本筋のことを地味にそれだけをやり続け、社会的・経営的な「成果」などにこだわらずに縁に従って仏教の話をする。あとはなるようになる。
そういう形が基本になくては、いずれ小手先の、あるいは一過性の好奇心に沿ったものなどは古くなり飽きられて終わる、そうしたら次の新しい何かをまた持ってきて…という、ちぎっては捨て、ちぎっては捨て、の挙げ句に仏教そのものまでちぎり捨てられやしまいかと、杞憂であれば幸いですが、少しだけそんな気持ちになってしまうところもあります。
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加持

2021年02月08日 | 法話関係
本日は厄除け薬師祈願、大数珠繰りの日ですが、新型コロナが収束していないため、感染予防のために、縮小開催となります。
午前九時より、住職独座にて、祈願に申し込まれた皆様の一年間の息災を修させていただきました。

祈願というものについて本日はお話をいたします。
これは供養についてもまったく同じ事ですが、祈願や供養には三つのものが揃わないと意味がありません。
三つとは、

・自らの信心と、日々の功徳の回向
・仏様の加持
・宇宙いっぱいの様々な縁の力

です。
これらひとつひとつにも力はありますが、三つすべてが合わされば、そこに本当の祈願なり供養というものが実現します。

つまり「拝んで貰ったから大丈夫」では不十分で、自分自身の信心と日々の行いの良い部分をしっかり仏様に見ていただき、その良き結果を他者に回し向ける慈悲の心が大切です。それがあれば、他のふたつの力は自然に自分に加わって参ります。

ぜひ今年一年の恙なき生活というものを、信心を以てご祈願ください。

さて、「しっかり信心して祈願する」ということはどういうことかと言いますと、第一には「しっかり仏様に自らを委ねていくこと」に尽きます。仏様は私たちに常に慈悲の力を「加えて」くださっています。導きを「加えて」くださっています。護りを「加えて」くださっています。
それをしっかり信じて理解し感じようと努力して、その力をちゃんと受け止めて「保持しよう」と決意してください。
この「加え」と「保持」があるところ、「仏様の加持がある」と言うのです。この加持をしっかり感じて信じ生活していくところに、何があっても揺るがない心の柱が立ちますし、供養の誠や祈願の結果もふさわしく達成されていくものです。

仏様、如来、ご本尊の存在は厳然とあります。おとぎ話でも例え話でも気の持ちようでもありません。それをしっかり信じて理解し感じようと努力して、その力をちゃんと受け止めて「保持しよう」と決意し行動するところに、明々白々に現れてきてくださいます。

真に頼りになるものは、仏様のみです。喜びも悲しみも楽しみも怒りも、そして憂いも、まずすべて仏様に投げ出して、仏様に委ね、仏様にご相談ください。必ず、導いていただけます。
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水波

2021年01月24日 | 仏教・思索
海が見えない
波しか見えない
海を見ているようで
私の目には波しか見えていない

「波は海じゃないか」

あなたはそう囁く

でも私には波の姿ばかり

波はどこまでが波なのだろう
海はどこからが海なのだろう

海はどこに行ってしまったのか
海はどこに

波のような私
波のように生まれ生きて死んでいく
形を変え動き絡み合いながら

海はどこに行ってしまったのだろう
私の海は



南無世尊般若波羅蜜多母
私があなたでありますように
あなたがすべてでありますように
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六波羅蜜と真言念誦

2021年01月24日 | 仏教・思索
仏法においては勝義諦である空性に帰入することが成就である。これは般若そのものであり、『根本中頌』に余すところなく解明されており、仏法の真髄はここにおいて示される。勝義諦の仏法は、ここに尽きる。この先はない。
しかし世俗にある我々は勝義だけでは道に迷う。「言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない」24・10。つまり言葉と世俗の実践を経なくては空性に随順することはできないのであるから、ここに世俗諦としての仏道を記していこうと思う。

実践の前提として、人は出離の心と菩提心が必要である。
いかなる好ましいものであっても、すべては移ろい崩れ去り、我々を執着や愛欲に縛り付ける因となる。だからそれを気に留めるな、捨て去れ。「またそれを得たい」と思わず、輪廻の中には何も好ましきものはあり得ないと考え、また悪しきものも真実にはあり得ないと考えて、頼りにならないものを頼りにならないと知る。輪廻と世俗を厭え。
この出離の心を胸において、次いで菩提心を起こすべきである。
菩提心とは、つまりはこういうことである。『三十七の菩薩の実践』に曰く。

「無始以来より私を愛してくれた母たちが苦しみもがいているならば、自身の幸せなど何になろうか。それゆえ、限りなき衆生を救うために菩提心を生起させ」て、「いかなる現象もそれは自身の心であり、心の本性は本来戯論より離れている。そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない」。この出離と菩提心の生起が仏道のはじめである。
菩提心の詳細については後述する。

さて、仏道は具体的には、六波羅蜜に沿って進められるであろう。
勝義諦の空性とは般若波羅蜜である(一般に縁起=無自性=空とされるが、実際には無自性と縁起は世俗諦であり、それらは勝義には空であるという意味である。たとえば十二支縁起は世俗諦であり現実だが、それは妄念の形成過程を示す構造であり、実体としては空であり実在しない。相依性縁起も言語認識による概念設定で無自性であるが、いずれにしても空性により成立しない。世俗や言語、概念、主客など一切法は成立しない。それを般若波羅蜜という)。この認識の完成が仏法の完成である。他の五波羅蜜は世俗諦であるが、般若波羅蜜なき五波羅蜜は世間の単なる世俗的行為であり、仏法の完成には導かない。般若波羅蜜に裏付けられた五波羅蜜のみが仏道を進める力になる。そして般若波羅蜜は五波羅蜜なくしては我々には知られない。五波羅蜜により引き出される般若波羅蜜のみが、まさしく空性の成就をもたらす。この六は一連の数珠のようなもので、ひとつも欠けてはならず、たとえば「布施」の中に他の五がすべて具足されていなくては波羅蜜にはならない。
六波羅蜜は「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」である。「布施・持戒」は利他であり、「忍辱・精進」は自利、「禅定・智慧」は解脱を成ずる、つまり六波羅蜜で自利利他解脱を円満するとされる(『宝行王正論』)が、たとえば自利とされる精進波羅蜜においても利他の戒律実践が説かれているのであり、単純な図式化はできない。自利利他相即不二である。
なお華厳系統では、般若波羅蜜を開いた「方便・願・力・智」を加えた十波羅蜜もある。方便波羅蜜において真如への滅・戯論寂滅があり、そこにおいて「般若が優れた形で働いて、方便・誓願・力・智〔と呼ばれるのであって、四波羅蜜は般若と別ではない〕と理解すべきである」(『入中論自註』219)などと説明されるが、基本は六波羅蜜であるから、ここでは六波羅蜜に沿って示す。

さて、六波羅蜜はチベット仏教サキャ派のギャルセー・トクメー・サンポ『三十七の菩薩の実践』二十五~三十節がわかりやすいので、まずそれを掲げ、補足していく。

「【布施】悟りを得るためにこの身さえ犠牲にする必要があるのなら、外界のものなどなおさらに、見返りや成果を期待せず布施を行ずる。それが菩薩の実践である。【持戒】戒律を守らずして自利の完成はない。それでいて利他を成し遂げる願いをもっても笑われる。それゆえ、世俗の欲を放棄して戒律を遵守する。それが菩薩の実践である。【忍辱】善という財を求める諸菩薩を傷つけてしまう者もまた、尊い宝も同然である。それゆえ、あらゆる者に恨みをもたず忍耐を修習する。それが菩薩の実践である。【精進】自利のみ得ようとする声聞、独覚も、頭に移った火を消そうと努力するのを見るならば、すべて衆生のためになる功徳の源泉となる精進に励む。それが菩薩の実践である。【禅定】「止」を伴ったすぐれた「観」が煩悩を克服するのをよく知って、四無色定を超越した禅定を修習する。それが菩薩の実践である。【智慧】智慧のない五つの波羅蜜だけならば、完全なる悟りを得ることはできない。それゆえ、波羅蜜行を伴った三輪無分別智を修習する。それが菩薩の実践である」

布施波羅蜜。自らの種々の財を施すことであるが、菩薩の布施は空性を基本とした大悲心に基づく。二乗や凡夫の布施は得楽や苦の抑止のために行われる。つまりここに自利なのか利他なのかの分かれ目がある。

持戒波羅蜜。すなわち三業をもって他に利益をなす十善戒を守り抜くという誓願を立てる。不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒を身戒、不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒を語戒、不慳貪戒・不瞋恚戒・不邪見戒を意戒とする。
不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。排斥しない。
不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
不妄語…嘘をつかない。
不綺語…きれいごとを言わない。
不悪口…悪口を言わない。
不両舌…二枚舌を使わない。
不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
不瞋恚…怒らない。イライラしない。
不邪見…仏教の教えを正しく学び、般若空の正しいものの見方をする。
十善戒は「三輪清浄の無所得戒」、つまり戒も利他行である。殺生から両舌を七不善というが、その対治の不殺生乃至不両舌を七捨と呼び、意三戒が七捨を動機づける基盤となる。

忍辱波羅蜜。特に怒りを断つこと。怒りはすべての資糧を破壊する。不瞋恚戒と関わる。

精進波羅蜜。善に努力する義であるが、これをふたつに分ける。
 福徳の資糧・・・布施・持戒・忍辱
 智慧の資糧・・・禅定・智慧
この「世俗と勝義・積善と離業」の双方に努力することを精進という。

禅定波羅蜜・智慧波羅蜜。このふたつは解脱を成ずる波羅蜜であるが、修道にあっては「禅↔慧」であって、相互に絡み合う一体的なものである。
真実義を決択する般若波羅蜜は勝義諦であるが、これは世俗のこととはある意味で隔絶している。というのも、仏陀(或は菩薩大士)と凡夫(或は初心の菩薩)は一水四見の如く、世俗を世俗諦として見るか邪世俗として見るか、勝義を知るか知らぬかという点で隔絶しているからである。
世俗と勝義については、基本的には三つに分けて考えられる。チャンドラキールティなどは四つに分けるが、いずれにせよ切り方の問題である。
その三つとは、「邪世俗・世俗諦・勝義諦」である。邪世俗とは間違えて認識した世俗であり、縄を蛇と見誤ったり、確認できない形而上学的な観念(神など)を実体視するもの、あるいは常断二見等であり、要は「世間一般の見方」であり、錯誤である。世俗諦とは言語化された「勝義への志向を持つ世俗の捉え方、教義」であり、四波羅蜜もこれに立脚して成立する。世俗諦がなくては勝義は把握できない。究極的には「無顕現・一切空」の勝義諦のみであり、邪世俗・世俗諦ともにすべて本来的には成立していないと見るのが仏陀である。邪世俗・世俗諦は幻のように成立していないのであるから、勝義諦とは真実には関わらないものである。それらはすべて世俗諦によってプロセス・階梯として現れるだけであり、登ったら捨て去られるものである。しかし世俗諦がなくては現世での用は為されないのであり、また仏陀であれ方便として世俗諦がなくては、そもそも仏陀とは何であろうか?
四つに分ける場合は「唯世俗」があり、これは如来が世俗を見渡す場合のことで、如実知見のことである。邪世俗→世俗諦→勝義諦を向上門とすれば、唯世俗は如来の向下門において働く観方であり、唯世俗として観ながら世俗諦として法を説くわけである。

さて、世俗諦と勝義諦を繋ぐのは、禅定波羅蜜である。戒・定によってのみ、世俗の凡夫に智慧が現前するのだから。つまり(これも実は世俗諦であるが)禅定波羅蜜によってのみ、「階梯を登る」ことができる。四波羅蜜は階梯であり、禅定波羅蜜は登ることである。階梯なくしては登れない。登ることなくしては階梯に意味はない。
禅定波羅蜜の行い方には多様な方法があるが、外形的にいかなる形態を持とうと、止観が基本である。
ここでは、マントラの道を説く。
般若仏母根本真言は、羅什訳『金剛般若経』末尾に記載されているものであるが、西域において特に流布したとされ、そのバリエーションがチベットや敦煌文献に残されている。
『修習般若波羅蜜菩薩観行念誦儀軌』によると、この真言の義として四つ挙げられている。要約敷衍してそれを示すと、以下の如し。

・真言自体が「諸仏菩薩の讃嘆する無量百千万の経蔵を生み出す仏母」であり、まさしくこの真言こそ般若仏母そのものであると観ずる「般若無尽蔵」の義。
・百万遍念誦と観想修習を為せば必ず覚を成就すると観ずる「根本般若」の義。
・修習するに随って、世間すべて般若波羅蜜の法の顕現つまり一切空性であることを実証していくと観ずる「般若眼」の義。
・遂には一切障碍を滅し一切諸仏の功徳を得て、大悲・空智・菩提心が成就すると観ずる「金剛般若心呪」の義。

総じて「この真言はそのまま般若仏母の現前顕現であり、覚りを成就する根本因となり、世間の実相を覚知し般若の空智に住させ、現当二世の福智をすべて獲得して成就の果に至らしめる」という「義」をすべて実現する真言である。
よくこの真言の意義を観察し、凡夫行者は尊形の意味による階梯的導きを受持し、念誦により止・観(水波観)を双修すべきであろう。

次いで、この真言の内容について具体的に見ていく。
まず全文は、
那謨婆伽跋帝 鉢喇壞 波羅弭多曵
唵 伊利 底伊 室利 輸盧駄毘舍耶 毘舍耶 莎婆訶
であり、意味としては概略、「世尊なる般若波羅蜜多母に帰依いたします。オーム、梵天よ、般若仏母よ、帝釈天よ、耳の対象よ、感官の対象よ、吉祥あれ」である。
以下。細部の解釈に移る。


(略)


以上のマントラを観行ならびに止行を双修しつつ念誦するのであるが、大悲・空智・菩提心の成就をこの「禅定波羅蜜」によって達成する。以下では、五鈷杵に示される菩提心について、大悲・空智と併せて述べる。


(略)


以上が禅定波羅蜜であり、仏道は六波羅蜜に沿って実践され、終極においては空智に随順成就して仏陀となるべきである。

まとめ

実践においては、「出離」を初門とし「大悲」を根本動機として(「世俗の菩提心」を「空智」に貫かれた「六波羅蜜」において「真言念誦」として)修習する・・・のが基本的な枠組みとなる。世俗の菩提心の内実としては、「布施・三解脱門(空観)・四無量心」を「完全に実践する為に仏陀とならんとする心」である。これは勝義菩提心を根拠として成立する。
三学に沿ってこれをまとめると、まず戒学は十善戒である。
定学は世俗の菩提心の修習(真言念誦)であるが、この世俗の菩提心の内実は「布施・三解脱門(空観)・四無量心」を「完全に実践する為に仏陀とならんとする心」であり、世俗の菩提心の中に出離(捨無量心)・大悲(慈・悲の両無量心)、六波羅蜜(布施など)の実践、空観も含まれており、すべて相互に繋がり合うので、世俗の菩提心の修習には理念的に仏道のすべてが含まれる。実際の真言念誦の観想においては、空観・四無量心を据えていくことは前述した。
慧学は勝義菩提心、つまり「いかなる現象もそれは自身の心であり 心の本性は本来戯論より離れている そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない」・「相対的観念を離れた絶対的な心の本性・光明=明智(↔無明)」・一切空性の成就そのものである。
結局は三学すべて、特に定学には六波羅蜜全体がその根底に置かれるので、「出離」「大悲・世俗の菩提心」「六波羅蜜」は具体の実践においては一体である。
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2021年01月20日 | 仏教・思索
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