प्रज्ञापारमिता

言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。
究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。

ブログ休止のお知らせ

2018年08月10日 | 閑話休題
10年に渡り駄文を連ねて参りましたが、本ブログを休止します。
停止・削除ではありませんので、今後とも記事は見ることができる状態にしておくつもりですが、新規更新はストップといたします。

今後の発信は基本的にFacebookのみとさせていただくつもりです。

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よろしくお願いいたします。
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欲するべきもの

2018年07月16日 | 法話関係
黄金律、つまり黄金のように素晴らしいルール、というのがあります。それは、「己の欲するところを人に施せ」というものです。聖書に出てきます。
一方で、銀律というものもあります。これは「己の欲しないことを他人に施すことなかれ」です。仏教経典に出ています。

このふたつ、黄金と銀と呼ばれるように、前者の方が優れていると一般には言われていますが、よく考えると必ずしもそうは言えないと思うのです。たとえば、自分が欲するものが果たして他人にとっても好ましいものでしょうか。ひとりよがりで「これが素晴らしい」と思って人に押しつけるように物をあげたりしても、きっと相手にとっては迷惑であったり、時には害を及ぼすこともあり得るのです。
断っても断ってもしつこく勧誘してくるセールスマンみたいなものです。

しかし後者の銀律のほうは、自分がされたくないことを立ち止まって考えてみて、それを他人にしない、という賢明さがあります。これは目立たないことですが、より深い態度だと言えるでしょう。

しかし実はこの両方とも、まだまだなのです。もう一歩、深い考えがあるのではないでしょうか。それは、「他者の欲することを彼に施せ」です。これを白金律と言うそうです。
ここには、「自分が欲する」や「自分がされたくない」という「自分が」という心を離れて、まず相手の心を見つめよう、という思いがあります。これは黄金律や銀律よりも一段高い考え方です。

しかしだからといって、相手のして欲しそうなことばかりやっていたら、それはきっと相手のためになりません。子育ても同じで、子供の欲しいものを際限なく与えるだけなら結局はその子のためにならないのと同じです
ですから、「他者の欲することを彼に施せ」というのは、その人の欲や感情に沿っていればいいということではなく、その人の心の平安と、より善き人間になっていけるようなことをしてあげなさい、ということなのです。

「でもそれじゃ、相手の欲するものじゃないじゃないか」と思われるかも知れません。しかし、果たしてそうでしょうか。

まず、人は不幸になることを願いません。それを欲することはありません。そしてどう考えても、際限のない欲の追求は不幸への門です。ですから、それを知っているはずの心の奥深くの魂のレベルでは、本当にはそれを求めることはありません。不幸への門だと気づいていないだけで、そこに気づけば際限のない欲などは求めないものです。
人は煩悩によって欲望によって何かを欲することがありますが、私たちはそれを相手に与えるのではなく、よく考えたらそれは不幸への入り口であるとお互いにそこに気づき、本当には何を求めるべきなのか、幸せへの門は何であるのかをよく考えて、人として欲するべきものをちゃんと欲するように、また与えるようにしなくてはなりません。

では、その本当に求めなくてはならないもの、相手に与えなくてはならないものとは、なんでしょうか。
それは簡単に答えられます。慈悲の心、困難なときにこそそばにいてあげること、見捨てないこと、一緒に楽しみ泣く心、排除しないこと、つまり、「思いやりの心」です。
これがあれば、人は助け合って生きていけます。善き人間になれます。誰であれ求めているものです。これをお互いに与えあうことこそが、「他者の欲することを彼に施せ」ということの本当の意味なのです。
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ॐ オウム

2018年07月07日 | 仏教・思索
オウム真理教の地下鉄サリン事件で、死刑が執行されました。

あの事件があって、「オウム」という言葉が「気味悪いもの」という風に世間では思われてしまいましたけれど、もともと「オウム」というのはインドでは古くから使われてきた大切な言葉で、仏教でも使われ続けてきたものです。「おんころころせんだりまとうぎそわか」などの頭についている「おん」が、「オウム」です。

ではそもそも、この「オウム」とはどういう意味なのでしょうか。

「オウム」はॐ(AUM)と書きますが、もともとは瞑想のために祈りの言葉の前後に唱えられる聖なる音でした。宇宙の根本の響き、ということで神聖な音とされたのですが、意味の解釈は様々あったようです。ヒンドゥー教という宗教では、宇宙の創造・維持・破壊を象徴し、神そのものの印とされました。
仏教でも、「おんころころせんだりまとうぎそわか」のように、「オウム」=「おん、唵」を使います。『守護国界主陀羅尼経』では、仏の三身(法身・報身・応身)を表すと書かれていますが、弘法大師の『秘蔵記』では、「帰命・供養・三身・驚覚・折伏」の五つの意味があると書かれています。また、「出生」という意味もあります。

以上のように様々な意味があり、修行のために非常に大切にされ重視されてきた言葉が「オウム」なのですが、残念ながら「あの事件」以降は、世間であまり良いイメージを持たれなくなりました。
数千年も大切に伝えられて来た「聖なる言葉」が、あの事件ひとつでぜんぶ吹っ飛んだのです。
非常に残念なことなのですが、よくよく考えると、こういうことは日常的によくあります。長い間かけて積み重ねてきた信用を失うのは一瞬です。ふとした出来心で、それまで頑張ってきた生活が即座に崩れてしまいます。みんなで大切に伝えてきたものも、誰かが悪用すれば、そこまでのみんなの努力も水の泡です。

ですから私たちも、毎日毎日を大切に積み重ねると同時に、それを台無しにしないように気を付けて自分を律していかなくてはなりません。「過去の業績」など、今現在の目の前の行為ひとつで、いくらでも台無しになり吹っ飛ぶものです。
修行もご供養も同じことです。毎日毎日の積み重ねが根本ですが、油断しないで、いつまでもコツコツと精進していくことが大切です。
同時に、他の人に対しては、もしその人が悪いことをしていても、今現在の状況ですべてを判断してしまうのではなく、その人の過去の良い部分をきちんと見てあげることも大切です。そして今もし良くなっているのならば、過去の悪い部分は忘れてあげましょう。

そうやって、公平な目で、自分自身では「自分の・先祖の・先人の積み重ねてきたものを粗末にしない、貶めない」ように努力し、他の人に対してはいつも良い部分を見るようにし、「あれはこういうものだ」と決めつけずに色々な視点で見ていくこと、そうやっていれば、穏やかな人間関係も築いていけることでしょう。
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普遍

2018年06月20日 | 仏教・思索
死んだらどうなるか。

無になる、天国や地獄に生まれる、大きな存在(神など)とひとつになる、何かに輪廻(転生)する、霊になってさまよう…色々な見解が人類の歴史を通じて表明されてきた。蓋然性の高低も立場や時代や地域によって違うし、結局は客観的な証明はできない。現代社会では、「無になる」というのが公式的には蓋然性が高いと見なされるであろうけど、一皮むけばインテリであっても案外、多様な感覚を持っているだろう。

まぁどのような見解であっても自由だ。自由だけれど、それぞれの見解において人は誠実であるべきであって、ある見解を持っている人が、他の見解を否定しながらそこに自分の見解を押しつけようとしてはならない。自分の領域に止まっているべきだ。

たとえば、「無になる」。

結構、それはひとつの見解だ。しかしそれをキリスト教や仏教の考え方に導入しようと努力すべきではない。断滅論そのものは可能性としては真かも知れないけれど、仏教ではそう考えていない。無理にそれを操作したり解釈したりして、無になるのだという見解を仏教に導入する必要はない。
また同時に、仏教の立場から創造神の存在を否定してキリスト教やイスラームに手を突っ込む必要も意義もない。逆もまた然り。

なぜ人は、他人に対してまでも世界観を一致させたり統一させようとするのだろうか。そこに何の意味があるのだろう。違うと言うことをそこまで恐れるのは何なのだろうか。一方が正しければ、他方は必ず誤りなのだろうか。
普遍というものも、常にある観点からの整合性を持った全体の説明原理であり、最初の仮定あるいは前提、見方の枠組みがわずかでもずれてしまえば、結果として導き出された普遍なるものもまったく様相を異にする。結局、普遍というものはある種の特殊に名付けられたらものに過ぎない。

そのような中で、しかし我々はそれでも、本当のところ、をやはり求めてしまう。特殊的普遍ではない普遍的普遍とは…と考えてしまうものだ。
そのための道筋も多様なものがあり、その真摯な模索の歴史もまた、我々の思想の重要な蓄積である。
そうして大乗仏教は、「見解を持たないこと」をその模索の第一歩とした。見解というものの性質を見極め、足下を掬われないように、自在に多様な見解を解体しながら、見解以前の、言葉以前のところに引き返し、前進せよ。時間のない時の経過を見つめ、空間なき場所で進退せよ。
しかしそれは仏教の立場だ。他の「見解を必須とする立場」を原理的に否定することはできないのだから、それはそれでこの世界に並列的に共存していくしかない。お互い、他者に「普遍」を強要はできないし、すべきではない。
そうしてさらにこれを突き詰めれば、仏教だとかキリスト教だとか科学主義だとかいうカテゴリーではなく、個別のひとりひとりのバリエーションだけ、相違がある。
それはそれでいい。美しい。
一色に塗り込められた世界、マスゲームのように揃えられたら世界よりは、多様な雑踏のほうが、全体として俯瞰したとき、却って普遍的普遍に近いものだと僕には思える。

そういう雑踏の交通整理は、雑踏の特定の一員の価値観を敷衍するのではなく、相互関係性に立脚した流動的な「社会契約」であって然るべきである。こんなことは(特にマイノリティには)当然なのだけれど、マジョリティ(と思い込んでいる)人々には、案外、見えていない部分でもあったりする。
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3つの論理

2018年06月18日 | 仏教・思索
宗教上の「理屈」には3段階あって、これを意識できていない人とはあまりうまく意志の疎通ができない。

まず、よく言われる「内部論理」というものがあり、これは宗教宗派の教学や信仰のことである。それらは内部においては整合性がある一貫した体系に大抵の場合はなっている。世界観、と言っても良い。
それから、「一般的な論理」の場がある。これはそれぞれ内部では完結した一貫性のある論理であったとしても、前提が相違していたりする場合は他者には通じない。そこを理解して、対話の場を設定するにあたってより一般的な基準、文献学や論理(学)、相対的な見方を働かせる必要がある。
三番目は、「個人の論理」であって、たとえば「内部論理」だからといってそれに100%同じ、というわけにはいかないのが通常だ。なぜなら内部論理といえども、それはあくまで自分自身にとっては「他者性」を必ず帯びているのであるから、常に自分自身が経験している事態からはずれている局面から生み出された理論である。内部であっても、自己一身から見れば「外部」でもある。
相対的に近いか遠いか、というのはあるけれど、外部性・他者性を帯びていれば、それは個々人の論理とまったく同じということにはならない。

つまり、明らかにその3つの論理でもって他者の考え方を「啓蒙・矯正」等できない道理なのに、この世界ではそれをやろうとして論争が絶えない。まったく無意味なことだ。

しかし同時に、我々はそのような他者の論理(その始めは母語の習得だ)を学びながら、徐々に個人の論理を形成していく。だから幅広くそれらを学び知る必要はあるだろう。しかしそれは素材として知るのであって、出来合いの料理として受け入れてはならないし、自分にとっての料理も他人には素材なのだ、とは知っておく必要がある。それを料理だと言って他人の口に押し込むなど論外だ。

それぞれの論理を広く提示することは良い。それは重要なことだ。
しかし、すべきなのはそこまでだ。

なお、仏教においては上記の論理はすべて妄想であって、迷いの根源となる、と考える。あくまでこの世界を渡るための便宜としての道具でしかなく、道具そのものは目的でも究極でもなく、それ自体の優劣などには実際にはそこまでの価値をおいていない。
しかしそれはあくまで仏教の立場であって、ある観念(神など)の実在を基準にして内部論理を立てる立場もあることはわかる。またそれらの考え方の濃度や観念は人の数ほどありうるのだから、僕としてもあくまで個人の論理を提示するだけだし、「結局どうなのか」は、それぞれみなさん自由に学び考えていかれればよいのだろう。
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経集 228~230

2018年05月24日 | 釈尊のことば
彼らは、ゴータマの諭しにもとづいて、こころをしっかりと保ち、欲がない。得るものを得た彼らは、不死の境地に入って喜びを得、安らぎを享受している。また、この優れた宝は、ビクの集いの内にある。この真実によって安穏でありますように。
(スッタ・ニパータ228)

インドラキーラ(帝釈天の門、王の門)がしっかりと大地に固定されていて、四方からの風にも揺るがないように、いくつかの尊ぶべき真実をしっかり見いだす立派な人は、そのたとえのようであるとわたしは言う。また、この優れた宝は、ビクの集いの内にある。この真実によって安穏でありますように。
(スッタ・ニパータ229)

深い智慧によって見事に説かれた、いくつかの尊ぶべき真実を、はっきりと理解する人々は、いかなる時にも、こころが散漫でなく、第八の生を受けることはない(預流果に至れば七度の生まれ変わりまでには涅槃に至る)。また、この優れた宝は、ビクの集いの内にある。この真実によって安穏でありますように。
(スッタ・ニパータ230)

…………………………

釈尊の教えを考え理解して体得し、そこに惑わずしっかりと立つならば、預流果に至る。不退転であり、正定聚である。これらはビクの集いサンガの中にある、というお話です。僧宝です。
大乗仏教であれ何であれ、僧宝であるビクの存在は信の対象です。同時に(同時に、です)、大乗仏教ではその僧宝とは何であるか、という概念はよりラディカルな考究が為されていきますが、今はサンガを菩薩ガナという観念で捉え直す、ということだけを言っておいて、ここでは文字通りの意味で受け止めておきましょう。



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経集 225~227

2018年05月20日 | 釈尊のことば
釈迦牟尼は、究極の瞑想によって煩悩が滅せられ、欲を離れ、不死の境地に到達された。いかなるものでも、彼によって説かれた教えに等しいものは何ひとつない。また、この優れた宝は、教えの内にある。この真実によって安穏でありますように。
(スッタ・ニパータ225)

最高の目ざめられたお方が讃嘆された清らかな瞑想はアーナンタリカ(究極の瞑想)と呼ばれる。この瞑想に等しいものは誰も知らない。また、この優れた宝は、真理の内にある。この真実によって安穏でありますように。
(スッタ・ニパータ226)

世の人々が褒め称える八輩の人は、これらの四双の人である。彼らは突き抜けたお方の教えを聞いて目ざめたーーー施与されるに値する人々である。彼らに施与すれば、大きな果報がある。また、この優れた宝は、ビクの集いの内にある。この真実によって安穏でありますように。
(スッタ・ニパータ227)

…………………………

釈尊の教え、道、それらはあらゆる他の宗教とはまったく違ったものであり、未曽有のものである。何故なら、釈尊は何も説かずして説き、歩まずして歩む道を示し、見解を立てずに世界すべてに中糸を通して連ねられた。
それに目覚めれば、僕たちも安穏にあるだろう。
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経集 222~224

2018年05月19日 | 釈尊のことば
ここに集う生けるものたち、地上のものでも、空中のものでもーーー実にあらゆる生き物は、幸せであれ。だからこそ、わたしが話すことを気をつけて聞きなさい。
(スッタ・ニパータ222)

だからこそ、すべての生き物たちよ! こころして聞きなさい。人間には、慈しみをもって為しなさい。彼らは、昼に夜に捧げものをしているのだから、怠らずに彼らを守りなさい。
(スッタ・ニパータ223)

この世や彼の世のどんな財であっても、天界におけるどんなに優れた宝であっても、如来(ブッダ)に等しいものはありえない。また、この優れた宝は、目ざめられたお方(ブッダ)のうちにある。この真実によって安穏でありますように。
(スッタ・ニパータ224)

…………………………

222から238までは「宝の経」。
三宝について述べ、「安穏であれ」を畳みかけていく経典です。
この世に「幸せ」とされるものはいくらでもあるけれど、ほとんどのものは仮初めの一時的な鎮痛剤のようなものだ。本当の安寧、平安、安穏ではない。
本当のことを知って、安穏であれ。
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経集 219~221

2018年05月16日 | 釈尊のことば
世間をよく知って、究極の道理を見極め、激流を越えて海を渡った人、また束縛を断ち切って、依存することなく、煩悩の汚れのない人ーーーそのような人こそがムニであると、賢者たちは解っている。
(スッタ・ニパータ219)

住まいや生き方が大きく異なる二者がある。在家者は妻を養っているが、戒めや誓いを守っている出家者には、《わがもの》というものはない。在家者たちは自制心がなく他の生き物を殺すが、ムニは常に自制して生き物たちを守っている。
(スッタ・ニパータ220)

青頸の孔雀が空を飛んでも、いつでも、白鳥の速さにはとうていかなわない。そのように在家者たちは、遠く離れて林の中で静慮するビクやムニにはかなわない、と。
(スッタ・ニパータ221)

…………………………

ムニというのはここでは主に釈尊のことであり、また仏弟子である出家比丘のことです。ところで僕は出家ではありません。在俗の法師です。こういう立場の者は2000年前のインドから存在していましたが、そのコンセプトは「大乗の実践」つまり、出家在家共通の道を探り歩くこと、この俗の世界にあって如何にここを聖化できるか、というようなことです。現実には果てしのない聖の俗化に堕することが多いとはいえ、あくまでも理想は本当の「大乗の実践」とは…ということです。
そのための根本は「慈悲・不二智・菩提心」の修習ですが、それには我執・我所執の自覚と不害への決意、そういうことが必要です。これらが生活を聖なるものとしていきます。在家も出家も比丘も法師もありません。菩薩の根本です。

以上で「ムニの経」終了。同時に、『スッタ・ニパータ』第一章《蛇の章》おしまいです。222偈からは第二章《小さい章》になります。最初は「宝の経」です。
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経集 216~218

2018年05月15日 | 釈尊のことば
自己を引き締めて、過ちをせず、若い時でも中年になっても、ムニは自己を制している。腹を立てず、また何人をも怒らせない人ーーーそのような人こそがムニであると、賢者たちは解っている。
(スッタ・ニパータ216)

他人から与えられたもので生活し、たとえ、容器の上の部介からの食べ物、中ほどからの食べ物、残りの部分からの食べ物を得ても、食を与えてくれた人に特別に丁重であったり、また傷つけるようなことを言わない人ーーーそのような人こそがムニであると、賢者たちは解っている。
(スッタ・ニパータ217)

ふと、若い女性たちにこころを惹かれたりせず、驕りや怠りから離れ、束縛から解き放たれ、情欲から離れて行ずる人ーーーそのような人こそがムニであると、
賢者たちは解っている。
(スッタ・ニパータ218)

…………………………

怒りや情欲、驕りや怠け心を制御すべし。
自分に良くしてくれる人、悪くする人、どちらでもない人。色々な人がいるわけですが、それによって応対を変えてはならない。それは相手に過度に執着してこちらの都合を投影しているだけだ。だから、すべてに親切であれ。
ギブアンドテイクやビジネス感覚は、生きていく上には必要だ。しかしそれは仏教ではない。
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