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わたしが「わたし」であるために―『妻を帽子とまちがえた男』を読んで

2006-08-10 15:08:58 | Weblog
 
わたしが「わたし」であるために―\『妻を帽子とまちがえた男』を読んで
 
ファイル名 :FmKDEvmlHn.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/6/D5698.html)
 
 
本文の内容一部
 喪失・過剰・移行・純真 たとえば、わたしはいまキーボードを打っている自分を自覚している。自分が何をやっているか、その行動にどんな意味があるかもわかっている。更に言うならば、以前にもこうして時間に追い立てられるようにキーボードを打ったことがあるのも覚えている。それはわたしの過去であり、現在のわたしを象る一部である。そう考えると浮かんでくる疑問がある。過去が本当にわたしの一部なのだろうか。そもそも、わたしはどうしてわたしなのだろう。わたしはどうして、わたしをわたしと思えるのだろうか。この疑問は、哲学的なものに聞こえるかもしれない。しかしわたしがわたしでいられるというのは、それが当たり前の日常にあって実はとても心理学的な体験なのだ。神経学的な機能に異常を来たした人々を知ると、その事実が納得できる。
 オリバー・サックスは本のなかで、機能の異常を4部に大別して記述している。喪失、過剰、移行、そして純真である。機能について従来の概念に当てはまるのは明らかに病理的な喪失と過剰である。移行や純真は個人固有の精神世界に関わるもので、ほとんどの場合これらが神経学上の相関を考えられることはない。移行の章では、人生は時として器質的な病気が介入することによって変えられうるということが示されている。また純真の章では、知恵遅れの人々は抽象的な物事を理解することは出来ないが、それに惑わされることもないとある。興味深くはあるが、移行も純真もわたしの望む「わたしであること」についての示唆を与えるものではない。症状をもつ人は自分を取り巻く世界への対し方は変わるだろうが、本質としての人間性は変わらないと考えられるからである。やはり絶対的に人の本質そのものを変容するのは、神経学的な機能の喪失、そして過剰であろうと思われる。
 
キーワード
精神医学, 認知心理, オリバー・サックス, 症例研究, 自己論