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サマータイムの導入に向けて

2006-08-07 17:01:11 | Weblog
 
サマータイムの導入に向けて
 
ファイル名 :LtdIZ91NCf.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3538.html)
 
 
本文の内容一部
 日本でも、資源問題と環境問題の解決策の一つとして、夏のあいだの時計の針を1時間進める「サマータイム」を導入しようという動きが活発になってきている。自民・公明・民主などの超党派の国会議員による「サマータイム制度推進議員連盟」が早ければ4月にも国会に法律を提出すべく検討に入っているという。
 このサマータイムは、海外ではデイライト・セイビング・タイム(Daylight Saving Time)とも呼ばれている。これは、太陽光(Daylight)を節約・有効活用(Saving)しようという時間制度(Time)という意味である。具体的には、4月から10月の昼間の長い季節に時刻を1時間早めて時間を有効活用する制度のことで、例えば、我が国における夏至における日の出の時間は、地域によって異なり、午前3時半~5時半となっているが、国民の約8割の起床時間は午前6時以降となっていることから、日の出と共に外が明るくなっているにもかかわらず、カーテンや雨戸を閉めて部屋の中を暗くして寝ているのが一般的である。サマータイム制度を導入すれば、日の出時刻が1時間遅くなるためこうした起床前に有効活用できていない時間を短くすることが可能となり、日没が1時間遅くなった分、照明の点灯時間を1時間遅くすることが可能になる。これがサマータイム制度の基本的な仕組みである。
そのメリットはおもに次の3つにあるといわれている。
① エネルギー消費の節減による環境問題への対応
② 余暇の拡大とそれに伴う経済効果
③ 交通事故や犯罪発生率の低下
 
キーワード
サマータイム, 環境問題, デイライト・セイビング・タイム, 地球温暖化, 温室効果ガス削減

ニート対策-職業訓練券の効果-

2006-08-07 17:00:39 | Weblog
 
ニート対策-職業訓練券の効果-
 
ファイル名 :v9DmRaOvWM.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3535.html)
 
 
本文の内容一部
 ニート(NEET)とは、「Not in Employment,Education or Training」の略称で、通学も就職もしない若者を指し、英国で生まれた造語で、フリーターとの最大の違いは、求職の意思すら持ち合わせていない点にある。ニートの存在が公的に意識されるようになったのは、平成16年度の労働白書からで、厚生労働省はこの中で、15~34歳までを対象とする「若年層無業者」が52万人にのぼると指摘している。経済的な視点でニートを考察すると、将来の日本自体の経済競争力を落ち込ませ、「すべての国民に負担が重くのしかかって」くるものの代表例の生活保護と年金が、いま以上に負担が重くのしかかるだろう。経済成長しないこと自体が様々な歪みを生じるわけだが、最も顕著に現れるのが上の2つであると思われる。また、国内だけでなく、国際的競争力をも損なう由々しき問題としても捉えられている。
 ニートに該当する若者の事件も頻発しており、これは、生きることに目的が見つからない、社会に対して希望を見出せないニート層の深刻な一面が垣間見られる。
 このように、ニートが注目されるなか、内閣府と厚生労働省は定職に就かない若者らを対象に、専門学校などで使える職業訓練券配布する新事業に乗り出すことに決めたという。自分に合った訓練施設を選べるようにし、フリーターの増加や失業率の高止まりが問題になっている若年層の就業を支援するため、用途を限定した利用券を個人に配る仕組みである。専門学校など特定の就業支援施設に補助金を与える従来の制度に比べ、訓練を希望する若者が施設を選べるため、施設側のサービスの質を高める効果も期待できる。若者がそれぞれ自分に合った職能を目指して訓練支援を受けられるのがポイントである。
 しかしながら、これが有効なニート対策となるかは、まったくの未知数である。
 国もとうとう本腰を入れてきたかという感じであるが、これはパラダイムの転換である。
 
キーワード
ニート, フリーター, 職業訓練券, NEET, 対策

多摩の近代化遺産

2006-08-07 17:00:08 | Weblog
 
多摩の近代化遺産
 
ファイル名 :XqyPBwTJiT.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3533.html)
 
 
本文の内容一部
私は山形県の出身だが、現在は東京都多摩市で一人暮らしをしている。今回『近代化遺産』というテーマで課題が出た時、真っ先に頭に思い浮かんだ多摩市の近代化について調べてみようと思った。
まず、現在、多摩市は東京都に属しているが近代の初めの1893(明治26)年までは神奈川県に所属しており、北多摩・南多摩・西多摩郡の三郡を総称して、いわゆる「三多摩」と呼ばれていた地域である。大きく見れば、埼玉・山梨・神奈川の三県と東京の区部とに位置する地域であり、北は丘陵と近世の新田地域、西は2千㍍級の山岳地帯、南は山梨県の西部と神奈川県の相模台地、東は首都東京に接し、さらに横浜・川崎という大都市につながっている地域である。そして、中心といえる地域を示すことができない東西に長細い形をしており、その間を多摩川が貫流しているのが地理的特徴である。この多摩川(写真1)は多摩の住人にとっては物流と文化の道でもあり、生活文化と切り離せない存在であった。反面、この川の水源とその管理を廻っての水問題がいつの時代も表出しており、川の立場からの歴史が描かれることが大事だと思う。
 
キーワード
遺産, 社会学, 近代化, 多摩市

国会単独立法と国民立法

2006-08-07 16:59:36 | Weblog
 
国会単独立法と国民立法
 
ファイル名 :oPXWwY4sA8.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3522.html)
 
 
本文の内容一部
<「国会は、必要があると認めるときは、議決により法律案を国民投票に付することができる。その場合、投票の過半数の賛成があるときは、右法律案は法律として成立する。」という趣旨の法律が制定されたと仮定する。この法律に含まれている憲法上の問題について論じなさい。>
1.設問の法律は、国民投票により法律を成立させることを認めるものである。しかし、憲法は代表制の下(前文、43条)で国会を国の唯一の立法機関と定め(41条)、また、法律案は両議院で可決したときに法律となるとしている(59条1項)ことから、当該法律が憲法に反しないかが問題となる。
 確かに、憲法は、法律は両議院の可決のみで成立し、他の機関は参加しないこと、すなわち立法は国会の手続きのみでなされるという国会単独立法の原則を採用している。しかし、国会は国民による選挙で選ばれた代表者で構成されており、とすれば、国民主権原理を採用する現行憲法の下では、国民により立法がなされるという国民投票による立法、直接民主主義的な制度も許容されるといえるのではないか。そこで、国民主権の意義が問題となる。

2.国民主権とは、国政についての最高の決定権、つまり、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威が国民に存することを意味する。日本国憲法は、前文において「主権が国民に存する」と規定し、また、第1条において「主権の存する日本国民」と規定しており、国民主権原理を採用しているが、その具体的意味内容については争いがある。
(1)この点、国民主権の持つ正当性の契機を重視し、国民主権にいう国民とは、観念的統一体としての全国民であって、現在の国民のみならず、過去・現在・未来の国民を含む自然人たる国民の総体をさし、実定法上国家機関として活動する国民とは異なり、具体的意思表明は予定されていないことを前提に、国民主権とはこのような国民全体が国家権力の根源ないし正当性の根拠であるという原理であると解する説もある(最終的権威説)。しかし、この説では、国民主権が全く建前化してしまい、妥当でない。
(2)たしかに、現行憲法は代表民主制を大原則とし(前文、43条)、憲法改正の国民投票(§96)・最高裁裁判官の国民審査(§79)の他は、人民主権にみられる人民発案、リコール制といった直接民主主義的制度を採用していない。
 
キーワード
国会, 立法, 国民立法

国会議員と命令委任

2006-08-07 16:59:04 | Weblog
 
国会議員と命令委任
 
ファイル名 :UUvldSgLXh.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3521.html)
 
 
本文の内容一部
<国会議員について、いわゆる「命令的委任」の制度を導入する法律を制定することは認められるか>
1.命令的委任とは、議員が選挙人の意思に拘束されることを意味し、選挙人の意思に反するときには、議員は選挙人から直接に議員の地位を奪われることとなる。そのようなことが認められるかを考えるにあたっては、日本国憲法における代表民主制をいかに考えるかが問題となる。具体的には、「国民主権」の意義と「全国民の代表」の意義がいかなるものであるのかを考えなければならない。

2.国民主権とは、国政についての最高の決定権、つまり、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威が国民に存することを意味する。日本国憲法は、前文において「主権が国民に存する」と規定し、また、第1条において「主権の存する日本国民」と規定しており、国民主権原理を採用しているが、その具体的意味内容については争いがある。
(1)この点、国民主権の持つ正当性の契機を重視し、国民主権にいう国民とは、観念的統一体としての全国民であって、現在の国民のみならず、過去・現在・未来の国民を含む自然人たる国民の総体をさし、実定法上国家機関として活動する国民とは異なり、具体的意思表明は予定されていないことを前提に、国民主権とはこのような国民全体が国家権力の根源ないし正当性の根拠であるという原理であると解する説もある(最終的権威説)。しかし、この説では、国民主権が全く建前化してしまい、妥当でない。
(2)たしかに、現行憲法は代表民主制を大原則とし(前文、43条)、憲法改正の国民投票(§96)・最高裁裁判官の国民審査(§79)の他は、人民主権にみられる人民発案、リコール制といった直接民主主義的制度を採用していない。しかし、憲法は国民に憲法改正権を認めており(96条)、憲法という国家の存在を基礎づける基本法をかえる権力が国民に存すること、つまり国家権力の究極的な行使者は国民であることを認めていると解すべきである。
 
キーワード
国民主権, 命令委任, 主権

『日本と中国の関係』

2006-08-07 16:58:32 | Weblog
 
『日本と中国の関係』
 
ファイル名 :JTOweecDDo.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3520.html)
 
 
本文の内容一部
 講義を聞くまで私は日中戦争が単なる日本の侵略戦争であり、時代の波に乗ったものとあえて乗らなかったものの優劣が決した戦争だという認識を持っていた。皮肉なことにそれまでの長い間、中国文明は日本文化の根源であり、中国人は日本人に対して優越感を抱いていたが、時代の波に脆くも崩れ去った事実を日中戦争は象徴していた。
 日中戦争に至る経緯の中で、日本の取った政策は果たして正しかったのか?結果ではなく経緯を重点的に考えたい。日中戦争が日本の中国に対する侵略であったことは先に述べた通りである。そもそも何故日本は中国へ戦争を仕掛けたのだろう。それは日本の国土的特徴にある(と推定する)。資源に乏しく、山や川が多い日本では欧米へ対抗する自国力に劣っていたと言わざるを得ず、将来的にも明るい展望は見えてこなかった。そこで隣国であり、広大な土地と、資源を持つ中国に目を向けたのである。いわば欧米の脅威から自国を守るためには中国やアジアの広域の領土を得なければならない。というのが当時の見解であったと私は考察する。
 確かに当時の視点で見つめることは必要だ。しかし、現代だからこそ見えてくるものがある。私はこう考えている。何故侵略ではなく、協力を選ばなかったのかと。そこに日本の功罪がある。自国を守るために中国の何人もの人々を殺戮し、領土を得、中国の土地の恩恵を得ようとするのは余りにも身勝手ではないか。そこまでするほど日本は中国に敵対心(劣等感)があったのか?答えは否である。中国は過去に日本に対して恩恵を与えてきた。遣隋使や、遣唐使、さらにさかのぼれば弥生時代から交流してきた。日本は古くから彼らに恩恵を受けていたのである。先進文明という名の兵器に怯え、その血脈ともいえる恩恵の歴史を裏切ってしまった事こそが日本の根本的な功罪なのだ。
 
キーワード
日本, 中国, 日中関係, 国際比較

『命あるものの意味について―副題;生きると言うこと』

2006-08-07 16:58:00 | Weblog
 
『命あるものの意味について―\副題;生きると言うこと』
 
ファイル名 :ws25IwLPxN.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3519.html)
 
 
本文の内容一部
Reno1
 生命倫理学(総合科目)を受講して最初の半期が経過した。どれも中身が濃く重い内容のもので、じっくりと考察させられた。今までにこのような重い内容に触れたことがなかったのでそう言った意味で、新鮮な新たな知識が得られるものだったことを述べておこう。
 まず、この講義のテーマとして「命の対話――ふたたび生と死を考える――」とある。このテーマ“生と死”は人類の永遠のテーマであると言える。神の領域とまで言われていた“いのち(生命)”すなわち“生と死”を操れるようになる程に発達した人間の技術力。けれど、こういったものには必ず責任が伴う。人間は一人ではない。様々な考えがある。答えは決して一つとは限らない不確かなものでした。

Reno2
 私が興味を持ったものとしては[遺伝子の希望と危険性、人工生殖、体をめぐる医療]でした。医療の発達に伴う人間の権利を倫理的にとらえることは手段の一つとして有効で有意義なものです。また、主な単語としてクローン、ES細胞、遺伝子情報、遺伝子診断、ヒトノゲノムの前塩基配列解読、臓器売買{幹細胞の代表的なもの}受精した胚(受精卵)から取りだした「胚性幹細胞」(ES細胞=Embryonic Stem Cell) 胎盤や成人の骨髄から取りだした「骨髄性幹細胞」臓器移植、安楽死など。様々で聞き慣れない、しかし決して倫理学的には外せない単語がある。どれも私たちの体に関するものです。そしてどれもが解決しがたい問題点を抱えています。例としてはすでに存在する人間(いのち)の利益のための行為が他者の利益を侵害することがあるということ。そして、その判断を倫理的にどうするのか決して究明されてはいない。これに対する混迷と不安は技術を求め続けてきた事への代償でもある。私たちはこのことに対してどのように付き合っていくのか議論しなければならない。
 
キーワード
命, 生死, 倫理, 医療, 法律

「マスコミはいのちの現場をどう伝えたか」

2006-08-07 16:57:29 | Weblog
 
「マスコミはいのちの現場をどう伝えたか」
 
ファイル名 :H1U3mbhJSn.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3517.html)
 
目次

Reno1 「いのち」を巡る価値観の衝突
Reno2 生命倫理の限界
Reno3 メディアの取り上げ方
Reno4 考察
 
本文の内容一部
Reno1 「いのち」を巡る価値観の衝突
・臓器移植、安楽死、クローン、ES細胞、遺伝子診断など・・・、すでに存在する人間(いのち)の利益のための行為が他者の利益を侵害することがある。例としては臓器移植、存在する人間を脳死と判断するとして、それが互いの利害関係を産む。なぜなら、その他者にとっては、[存在する人間の生命維持をすること=新鮮な臓器が失われる]ということであり、他者自らが不利益となるからである。しかし、それはもう本人の意思の問題であって、本人、または家族が生命維持を望むのであればそれはどう判断するべきなのかが問われている。→助かる見込みがない場合の生命維持に意味はあるのか?などの疑問がある。

Reno2 生命倫理の限界
・Reno1であげたように生命倫理は限界がある。「自己決定」の論理だけでは社会を納得させられない、出口のない迷路を彷徨っているような現状である。

Reno3 メディアの取り上げ方
・メディアはスキャンダルばかり取り上げる傾向があり、社会全体の価値観を取り上げたものとはいいがたい。また、先端医療に関して「いのち」に対する疑問提起はほとんど見受けられない。
 
キーワード
マスコミ, マスメディア, 命, 倫理

<遺伝子の希望と危険性、人工生殖、体をめぐる医療>

2006-08-07 16:56:57 | Weblog
 
<遺伝子の希望と危険性、人工生殖、体をめぐる医療>
 
ファイル名 :tNamzq9uk.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3516.html)
 
目次

<遺伝子の希望と危険性、人工生殖、体をめぐる医療>
<幹細胞の代表\的なもの>
<問題点>
<受精と授精の違い>
<不妊治療>
 リスク
 愛情
 余剰胚(よじょうはい)
世界初の「ES細胞バンク」を設置、英国政府
 <ES細胞とは?>
 <ES細胞研究の利点と問題点 >
 <時代の移り変わり>
“人の生命”の商品化
未知の危険性
生命操作はどこまで許されるか
“拒絶反応”のない再生医学
おわりに
 
本文の内容一部
<遺伝子の希望と危険性、人工生殖、体をめぐる医療>
主な単語;クローン、ES細胞、遺伝子情報、ヒトノゲノムの前塩基配列解読、臓器売買
<幹細胞の代表的なもの>
・ 受精した胚(受精卵)から取りだした「胚性幹細胞」(ES細胞=Embryonic Stem Cell)
・ 胎盤や成人の骨髄から取りだした「骨髄性幹細胞」 など。
<問題点>
取り出すときに授精した胚(初期の赤ちゃん)を殺してしまうため、研究上や医療上の問題がある。
※ 胚性幹細胞(ES細胞)による再生医療を 「水子(みずこ)」をばらばらにして臓器をこしらえるのだ と嫌悪を抱く表現もできる。
<受精と授精の違い>
IVF:人工受精 (in-vitro [in vitro] fertilization)
もしくは、体外受精:卵子を体外に取りだして受精させる
AI,AID:人工授精 (artificial insemination )採取した精液を女性の子宮に注入して受精させる 日本では受精と授精の言葉が似ているため、頻繁に混同されている。
<不妊治療>
 不妊であることは元来「病気ではない」(不健康ではない)。が、なぜか 不妊症 と呼称され、治療 の対象であることが当たり前になっている。不妊治療・生殖医療には「繁殖用整形手術」めいたものも含まれる。なぜ「子どもができないことが病気」であり「治療の対象」になり「受胎できるよう努力」しないと責められてしまうことになるのか、どこかでねじれているようなモノ。
 リスク
未だに「人工的な生殖技術を用いると障害率が高めになる」という報告が続いている。
精子・卵子提供、代理母出産にまつわる法律的問題や”実の親探し”問題、施療上の各種リスク(母体・提供者が被る多大な心的・身体的負担)も少なくない。
 愛情
人工的な生殖技術を用いてまでして苦労してもうけた子供は、他の自然受胎児に比べるとより望ましい家庭環境で愛情をもって養育されている率が高いと出ている。
 
キーワード
遺伝子, 倫理, 医療, 胎児

「デス・エデューション(命の教育を考える)」 

2006-08-07 16:56:25 | Weblog
 
「デス・エデューション(命の教育を考える)」 
 
ファイル名 :r0mCG7snhd.doc
(http://www.happycampus.jp/pages/data/4/D3515.html)
 
 
本文の内容一部
 最近急増しつつある自殺には様々な背景がある。その中の一つに最近、顕著に見られるようになったネット自殺がある。ネット上で知り合った人達が誘い合わせて心中することだ。このネット自殺が、全国で多発している。何故見知らぬ者同士で心中するのか、自殺を押しとどめる有効な手だてはないのか。インターネットという新しい媒体が生んだ新しいかたちの“心中”をめぐって、いま専門家の間でもさまざまな議論が提起されている。つい先日でも主婦がネットで自殺志願者を募集し、自殺したという事件が報道されたのは記憶に新しいこととして認識されている。現代の社会は、そういう社会であることを自覚しなければならない。自ら命を絶つまでに追い詰められた人をどうすれば救うことができるか。この問いの持つ意味はずっしりと重い。ネット自殺をしようと思った人のアンケートからは「一人で死ぬのは怖い」「誰かといたほうが安心する」と言った例が多い。しかし、これは結局自分の視点からしか見えなくなっていることを示している。「死」を自分で判断し、それを実行するのが正常であるにしろ、ないにしろ私は同感できない。
 
キーワード
ネット, 医療, 命, 心理学, 倫理