この章にまとまりをつけようとするなら、「後先を考える」という観点を加えてみたらよいかもしれない。1節。「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」(1節)酒に飲まれて醜態をさらすことほど愚かなことはない。後先を考える知恵ある者なら、自分の身を抑制する。知恵は人格に結びついている。
2節、「王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う」実に、唯一の支配者を怒らせてしまったら、その怒りを取り消すことはできない。後先を考える知恵ある者ならば、怒らせるような結末は避ける。「争いを引き起こすのは愚か者」(3節)である。
4節、「怠け者は冬には耕さない」後先を考えるなら、夏にせっせとたくわえをする。後先を考えるなら「眠りを愛する」(13節)ことはないし、目を覚まして勤労を徳とするはずである(13節)。だから、後先を考える知恵というのは重要であって、それは、金や多くの真珠があるのに優る(15節)。
16節、保証人になる時も、まず後先を考えることだ。ちゃんと抵当を取っておくことだ。あるいは、そんな保証人には最初からならないことである。だまし取ったものは、その場ではその人を楽しませてくれる。しかし、悪いことは必ず発覚するし、必ずその責任を取らされる。後先を考えれば、どんなに誘惑されても、騙せそうなことがあっても、正義を貫くことだ。戦いに交えようとするなら、皆の意見をよく聞いて、皆の賛意を得てから行動することだろう。人の思いは様々である。しかしその思いを束ねずに、自分の勢いで行動してしまえば、組織が一枚岩でない醜態をさらし、自分の命まで危うくすることになる。後先考えない結末である。
「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない」(21節)。リビングバイブル訳の方がピンとくる。「思わぬ大金が転がり込むと、かえって不幸になることがあります」貧乏人は、思わぬ大金をどう使ってよいかわからない事が多い。後先を考えずに、大金を使い込み、その大金の恩恵を守るために一騒動起こしてしまう。そして、元の貧乏人に戻ってしまう。束の間の喜びに夢中になって、神の恵みを生かす知恵がない。
単純なことであるが後先をよく考えること、これが知恵ある人間のあり方である、と教えられる。そして同時に、後先を考えた私たちの最善を導かれるのは神である。22節「悪に報いてやろう」と言ってはならない。後先を考えれば、仕返しなどしてはいけない。後先を考えるが故に、手をこまねく歯がゆい思いをさせられることもある。だがそれでよいこともある。神が片をつけてくれるからだ。「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」(24節)。最終的には、神が私たちの後先を決定するのである。私たちの最善を保障されるのは神である。私たちの限界の及ぶところに、神が道筋をつけてくださる。神に信頼し、神に委ねつつ、知恵を用いていく者であろう。
2節、「王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う」実に、唯一の支配者を怒らせてしまったら、その怒りを取り消すことはできない。後先を考える知恵ある者ならば、怒らせるような結末は避ける。「争いを引き起こすのは愚か者」(3節)である。
4節、「怠け者は冬には耕さない」後先を考えるなら、夏にせっせとたくわえをする。後先を考えるなら「眠りを愛する」(13節)ことはないし、目を覚まして勤労を徳とするはずである(13節)。だから、後先を考える知恵というのは重要であって、それは、金や多くの真珠があるのに優る(15節)。
16節、保証人になる時も、まず後先を考えることだ。ちゃんと抵当を取っておくことだ。あるいは、そんな保証人には最初からならないことである。だまし取ったものは、その場ではその人を楽しませてくれる。しかし、悪いことは必ず発覚するし、必ずその責任を取らされる。後先を考えれば、どんなに誘惑されても、騙せそうなことがあっても、正義を貫くことだ。戦いに交えようとするなら、皆の意見をよく聞いて、皆の賛意を得てから行動することだろう。人の思いは様々である。しかしその思いを束ねずに、自分の勢いで行動してしまえば、組織が一枚岩でない醜態をさらし、自分の命まで危うくすることになる。後先考えない結末である。
「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない」(21節)。リビングバイブル訳の方がピンとくる。「思わぬ大金が転がり込むと、かえって不幸になることがあります」貧乏人は、思わぬ大金をどう使ってよいかわからない事が多い。後先を考えずに、大金を使い込み、その大金の恩恵を守るために一騒動起こしてしまう。そして、元の貧乏人に戻ってしまう。束の間の喜びに夢中になって、神の恵みを生かす知恵がない。
単純なことであるが後先をよく考えること、これが知恵ある人間のあり方である、と教えられる。そして同時に、後先を考えた私たちの最善を導かれるのは神である。22節「悪に報いてやろう」と言ってはならない。後先を考えれば、仕返しなどしてはいけない。後先を考えるが故に、手をこまねく歯がゆい思いをさせられることもある。だがそれでよいこともある。神が片をつけてくれるからだ。「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」(24節)。最終的には、神が私たちの後先を決定するのである。私たちの最善を保障されるのは神である。私たちの限界の及ぶところに、神が道筋をつけてくださる。神に信頼し、神に委ねつつ、知恵を用いていく者であろう。