【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

箴言20章

2016年12月31日 05時24分27秒 | 箴言
 この章にまとまりをつけようとするなら、「後先を考える」という観点を加えてみたらよいかもしれない。1節。「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」(1節)酒に飲まれて醜態をさらすことほど愚かなことはない。後先を考える知恵ある者なら、自分の身を抑制する。知恵は人格に結びついている。
2節、「王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う」実に、唯一の支配者を怒らせてしまったら、その怒りを取り消すことはできない。後先を考える知恵ある者ならば、怒らせるような結末は避ける。「争いを引き起こすのは愚か者」(3節)である。
 4節、「怠け者は冬には耕さない」後先を考えるなら、夏にせっせとたくわえをする。後先を考えるなら「眠りを愛する」(13節)ことはないし、目を覚まして勤労を徳とするはずである(13節)。だから、後先を考える知恵というのは重要であって、それは、金や多くの真珠があるのに優る(15節)。
 16節、保証人になる時も、まず後先を考えることだ。ちゃんと抵当を取っておくことだ。あるいは、そんな保証人には最初からならないことである。だまし取ったものは、その場ではその人を楽しませてくれる。しかし、悪いことは必ず発覚するし、必ずその責任を取らされる。後先を考えれば、どんなに誘惑されても、騙せそうなことがあっても、正義を貫くことだ。戦いに交えようとするなら、皆の意見をよく聞いて、皆の賛意を得てから行動することだろう。人の思いは様々である。しかしその思いを束ねずに、自分の勢いで行動してしまえば、組織が一枚岩でない醜態をさらし、自分の命まで危うくすることになる。後先考えない結末である。
 「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない」(21節)。リビングバイブル訳の方がピンとくる。「思わぬ大金が転がり込むと、かえって不幸になることがあります」貧乏人は、思わぬ大金をどう使ってよいかわからない事が多い。後先を考えずに、大金を使い込み、その大金の恩恵を守るために一騒動起こしてしまう。そして、元の貧乏人に戻ってしまう。束の間の喜びに夢中になって、神の恵みを生かす知恵がない。
 単純なことであるが後先をよく考えること、これが知恵ある人間のあり方である、と教えられる。そして同時に、後先を考えた私たちの最善を導かれるのは神である。22節「悪に報いてやろう」と言ってはならない。後先を考えれば、仕返しなどしてはいけない。後先を考えるが故に、手をこまねく歯がゆい思いをさせられることもある。だがそれでよいこともある。神が片をつけてくれるからだ。「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」(24節)。最終的には、神が私たちの後先を決定するのである。私たちの最善を保障されるのは神である。私たちの限界の及ぶところに、神が道筋をつけてくださる。神に信頼し、神に委ねつつ、知恵を用いていく者であろう。


箴言19章

2016年12月30日 05時31分16秒 | 箴言
 人生においてお金のあるなしは、決定的なことのように思われるものだ。「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される」(4節)。確かに、お金があれば多くの友ができるだろう。貧しい者の友になろうとする者などまずいない。「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」(7節)実に、貧しさは、友ばかりか、兄弟をも失わせる。「高貴な人の行為を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる」(6節)何よりもお金様々だ。
ただ聖書は、そういう現実の一面を手放しで肯定しているわけではない。1節。貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」誠実に歩む貧乏人は、金があっても人を騙すような人間よりはましである、ということだろう。金持ちが悪だと言っているわけではない。しかし、「愚かな者にぜいたくなくらしはふさわしくない」(10節)と言うように、よい収入を神の恵みとして受け止め、正しく用いる心のない金持ちに、富は不釣り合いなものなのである。それは、貧しいはずの奴隷が主人を支配する状況に似ている。
人の値打ちは、お金では測れない。人は裸で生まれ、裸で帰っていく。人はすべて神の恵みに浴して生きている。だから多く任された金持ちは、その責任を自覚しなくてはならないのだし、少なく任されたとしても、それなりに任されたものに誠実に歩むことが求められている。神は誠実な者を決して見過ごされることはない。実際、主は、全てをご覧になっており導いておられる「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(17節)。「貧しい人に施すのは、神に貸すことと同じで、後でたっぷりその利息がついてくる」とリビングバイブルは訳している。人間社会には、勝ち組と負け組があるわけではない。人はそのような区別をするが、神はそうではない。むしろ、神は勝ちでも負けでもなく、人が互いに分かち合い、互いに助け合い、支え合うことを期待しておられる。金持ちであるということは、神の祝福である以上に、神の委託であり、信頼である。神は、貧しい者たちと分かち合い、活用するために、その富を任されている。だから富にあぐらをかいたような生き方に祝福はない。「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」(23節)。主を恐れ、正しく物事を見極め、正しく自分の役割や務めを果たす者は、その豊かさを生かすことができ、災いに会うこともない。
 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」人にとって絶対的なものは、金でも権力でもない。主のはかりごとである。その事実に気付かねばならない。神にとって奴隷を宰相にすることは容易いことだからだ。よきものは、主が上からすべて与えてくださる(14節)。
 22節、「人の変わらぬ愛」ヘブル語ではヘセド、感情的な愛ではなく、誠実で忠実な意志的な愛である。確かに、愛は冷めやすく熱しやすい。それは意識されて守られていくものである。だから貧しくとも神の御教えに生きる者は、まやかしの愛を語る富めるような者よりはましだということではないか。神の御教えに誠実に生きる人柄が大事なのである。

箴言18章

2016年12月29日 06時08分10秒 | 箴言
 1節「おのれを閉ざす者」というのは、「人と関係を持とうとしない者」のことである。自己中心で人間関係を大切にしない者のことを言う。こういう者は、すぐれた知性、いわゆる健全な知性をも受け入れようとしない。2節「愚かな者」は、自分の言いたいことだけを言う。まさにバカ丸出しである。侮り、恥、そしりが後に着く(3節)。だが、「知恵ある」人のことばは、と補うべきところなのだろう。4節「深い水」は直訳で面白い表現だが、地下水のことを意味している。人の心を潤して、さわやかにする、称賛、栄誉が後に続く、と考えたらよい。
5節、公正な歩みは、いつでも求められるもので、愚か者をえこひいきすることも、正しい者をねじ伏せることも、争いの原因となり、痛みを伴う結果となる。愚か者は、自分で自分の身に滅びを招くのである。
9節、「怠け者」も自分の身を破滅させる。人は幼い時から勤勉さを教えられる必要がある。もともと人は、怠け者なのだから、その性質を戒め、勤勉な生活態度を身に付けさせるように、親は関わる必要がある。物事をコツコツ積み上げる人間にはかなわない。
10節と11節は、対比されている。この世の人間は目に見えないものは当てにしない。目に見える確かな物を当てにする。つまり、富む者は、財産に信頼するとはそういうことだ。けれども、お金は頼りになりそうだがそうではない。お金で人の愛情を買うことはできない。役に立たないこともあるのだ。やはり、目に見えないもの、主を大事にすることである。
以上前半をまとめると、人を破滅させるものは、自己を閉ざすこと(1節)、公正さを失うこと(5節)、不用意に毒をはくこと(7節)、怠け者となること(9節)、そして高慢に陥ることである。高慢さが侮辱を受ける結末を迎えるのは時間の問題である。
人は、忍耐深いものであるが、心が折れてしまうともはや何事にも耐えられない。大事なのは、健康な心を維持することである。悟りのある心、開かれた心を持てば(15節)、彼は自分の道を開くことができるだろう(16節)。前半の心を閉ざす人間と、対比されているような気もする。
そういう意味では、公正さを持ちながら、争い事を終結させるには、「くじ」が有効である(18節)と前半にかけて(5,7節)、理解することができる。確かに、最初に訴える者に耳を傾け、それは大変だと思うこともあるのだが、公正な心をもって、よく聞いてみれば、其々の言い分があり、どのように判じてよいのかわからないことはあるものだ。くじは解決策の一つとなる。結局言葉の争いを続けていても、よい結果にはならない。
最後に「妻」と「友人」。どういう妻を持ち、どういう友人を持つか、これがまた難しい。良い妻がいて悪い妻もいる。大切なのは、妻であれ友人であれ、どんな苦労も分かち合おうとするのが良い妻であり、友人である。問題があれば、関係を断ち切る、そういう人間では、物事を築き上げていくことはできない。苦しい時に、団結して物事に処するのがよい妻であり、友人である。大切なのは、苦難にぶち当たった時にこそ、人は兄弟よりも親密な友を見つける。苦難は人間関係の試金石である。

箴言17章

2016年12月28日 05時42分42秒 | 箴言
物が溢れ、食に豊かであっても、争いの絶えない家であっては、そこに何の安らぎがあることだろう。何がなくても平和な家庭に勝るものはない。家庭は、人の居場所であればこそ、穏やかにくつろげる場であってほしい。
2節、賢い奴隷は、エリエゼルなどの例にもあるように(創世記15:2)その能力によって家を治め、財産を受け継ぐことがあった。持つべきは知恵である。3節、物は火で精錬されるが、人の心は神によって純化される。人間の魂の深みを切り分ける力を持つ神のことばに向かうことが人間力を養うことになる(ヘブル4:12)。4節、悪を行う者は、同類を求める。類は友を呼ぶというが、同類は互いに集まりあう。自分の生き方を正したければ、人付き合いを変えることだ。6節、貧しさも、富みもすべては神の御心の内である。神に与えられていることを自覚し、遜るのでなければ、その富もまた取り上げられてしまう。6節、同義的並行法という流れでヘブル語の原文を見れば、冠・年寄り・息子の息子(孫)の一行目に、輝き・息子・父の語順で、発音的にも二行目が対応する。ここは新共同訳のように「孫は老人の冠、子らは父の輝き」とすべきなのだろう。老人にとって孫は祝福の印である。同様に、(知恵ある)子どもは、父の誇りである。7節、ことばと人は、一致する。8節、いわば「金が物を言う」ことを言っている。しかし神がそれを肯定しているわけではない(23節)。9節、拘り、頑迷さという悪癖が、人間関係を破壊してしまう。知恵ある者、愛情深い者は、腹に収めることを知っている。だが愚かな者は、11節、何かを言えば、いつも反対する。しかもその反対に中身はない。ただ、反抗しているだけである。そういう人が、人間関係で報われることはない。14節、争いは、初めは小さなもの、ほんのちょっとした摩擦から生じるが、やがては収まりがつかなくなる。だから、初めから争いを避けることだ。
16節、知恵はお金では得られない。主を恐れる謙遜さを持つ以外に知恵を獲得する道はない。17節、友や兄弟は、物や金があるから続くものではない。それは損得を抜きにした関係で、しばしば自分の目的からすれば何の役にも立たない存在であったとしても、言葉にし難い気持ちを分かち合い、どんな苦労も一緒に乗り越えてくれる関係である。
19節、原文は、「罪を愛する、争いを愛する」である。確かに罪に心を向けている限り、祝福は愚か、平和も守られることはない。「門を高くする」は、自己防衛が堅いことを言うのだろう。自分を守ろうといよいよ防御を堅くすれば、結局、孤立するだけのことである。20節、曲がった心は、物事を捻じ曲げて捉え、災いを誘い込む元である。22節、陰気な心は、全身を蝕んでいく。心を明るく保つことだ。そのためには知恵に顔を向けることだろう(24節)。ただ、主を恐れて、主の諭しと平安の中で生きることである。だが愚か者はそうではない。焦点が定まらない。地に足のつかない果てしのない願望の中で生きている。そんな子どもを見ているのも親としては辛いところだ(25節)。やはり知恵ある子は、父の輝き、つまり誇りである。25節は、6節に共鳴する。27,28節は、沈黙は金なりと言うべきだろう。本当に必要なことばはわずかであったりする。

箴言16章

2016年12月27日 07時08分46秒 | 箴言
物が溢れ、食に豊かであっても、争いの絶えない家であっては、そこに何の安らぎがあることだろう。何がなくても平和な家庭に勝るものはない。家庭は、人の居場所であればこそ、穏やかにくつろげる場であってほしい。
2節、賢い奴隷は、エリエゼルなどの例にもあるように(創世記15:2)その能力によって家を治め、財産を受け継ぐことがあった。持つべきは知恵である。3節、物は火で精錬されるが、人の心は神によって純化される。人間の魂の深みを切り分ける力を持つ神のことばに向かうことが人間力を養うことになる(ヘブル4:12)。4節、悪を行う者は、同類を求める。類は友を呼ぶというが、同類は互いに集まりあう。自分の生き方を正したければ、人付き合いを変えることだ。6節、貧しさも、富みもすべては神の御心の内である。神に与えられていることを自覚し、遜るのでなければ、その富もまた取り上げられてしまう。6節、同義的並行法という流れでヘブル語の原文を見れば、冠・年寄り・息子の息子(孫)の一行目に、輝き・息子・父の語順で、発音的にも二行目が対応する。ここは新共同訳のように「孫は老人の冠、子らは父の輝き」とすべきなのだろう。老人にとって孫は祝福の印である。同様に、(知恵ある)子どもは、父の誇りである。7節、ことばと人は、一致する。8節、いわば「金が物を言う」ことを言っている。しかし神がそれを肯定しているわけではない(23節)。9節、拘り、頑迷さという悪癖が、人間関係を破壊してしまう。知恵ある者、愛情深い者は、腹に収めることを知っている。だが愚かな者は、11節、何かを言えば、いつも反対する。しかもその反対に中身はない。ただ、反抗しているだけである。そういう人が、人間関係で報われることはない。14節、争いは、初めは小さなもの、ほんのちょっとした摩擦から生じるが、やがては収まりがつかなくなる。だから、初めから争いを避けることだ。
16節、知恵はお金では得られない。主を恐れる謙遜さを持つ以外に知恵を獲得する道はない。17節、友や兄弟は、物や金があるから続くものではない。それは損得を抜きにした関係で、しばしば自分の目的からすれば何の役にも立たない存在であったとしても、言葉にし難い気持ちを分かち合い、どんな苦労も一緒に乗り越えてくれる関係である。
19節、原文は、「罪を愛する、争いを愛する」である。確かに罪に心を向けている限り、祝福は愚か、平和も守られることはない。「門を高くする」は、自己防衛が堅いことを言うのだろう。自分を守ろうといよいよ防御を堅くすれば、結局、孤立するだけのことである。20節、曲がった心は、物事を捻じ曲げて捉え、災いを誘い込む元である。22節、陰気な心は、全身を蝕んでいく。心を明るく保つことだ。そのためには知恵に顔を向けることだろう(24節)。ただ、主を恐れて、主の諭しと平安の中で生きることである。だが愚か者はそうではない。焦点が定まらない。地に足のつかない果てしのない願望の中で生きている。そんな子どもを見ているのも親としては辛いところだ(25節)。やはり知恵ある子は、父の輝き、つまり誇りである。25節は、6節に共鳴する。27,28節は、沈黙は金なりと言うべきだろう。本当に必要なことばはわずかであったりする。