パスターまことの聖書一日一生3⇒4(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書を一日一章読み進み、一日一生を得ることを目的に、既に四回目の通読に入りました。三年半で聖書を読み終えます。

イザヤ書59章

2020年07月02日 06時34分39秒 | 出エジプト記
おはようございます。自分は何の過ちも罪も犯したことはない、と言い切れる人はいないことでしょう。死後裁き主の前に立つとしたら、それは恐怖となりえます。けれども、イザヤは贖い主としての神について語ります。それは平安を与えるメッセージです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.罪の障壁
 なぜ、神の助けが来ないのか。それは「主の御手が短い」からではない。「その耳が遠い」からでもない。罪と咎の故だとする。それらが人と神との間を引き裂いているのだ、という(2節)。既にイザヤは、57章で偶像崇拝の罪、58章でまことの神への不信仰と不従順の罪の現実を指摘した。ここではさらに、神を覚えぬ人間の不道徳が語られる。本来神の尊い働きに献げられるべき手が、盗みや人を打ち叩く。神を賛美し人を励ます唇が、嘘、偽りを語り、毒を吐く(4節)。神に近づくための足が、悪に走るものとなる(7節)。イザヤが使う代名詞は、5-8節では「あなた」から「彼」へと変化する。それは、三人称を使い、罪の現実を客観視して語る、預言書の詩文的な特徴というべきものである。
9節からイザヤは、一人称の「私たち」を使う。それは、人の罪を語り、指摘する預言者が、自らも同類の罪人に過ぎないことを認めているからである。イザヤも罪人なれば、「主に背き、主を否み、主に従うことをやめ、心に偽りのことばがある」者であり、悔い改めを必要とする者である。そのような一人一人の存在の結果として、社会全体の悪が生じているというべきなのだろう(14、15節)。
2.主の驚き
 15節後半から、この状況を神の側から見た様子が描かれる。「主は人がいないのを見、とりなす者がいないことに唖然とされた(16節)」。そのような罪人の状況に向かっていく人がいない。大切なのは、そのような罪人を断罪するのではなく、とりなす人がいない、ということだ。そこで、神自らが、人に救いをもたらす者となられた、と言う(16節)。17節、神は戦士のように描かれているが、それは裁き主としての神ではなく、贖い主としての神である。「義」「救い」「復讐」はイメージしやすい。「ねたみ」がミスマッチな並列に感じるが、イザヤはヘブル語で「ねたみ」と訳されたキネアットを「主の熱心」の意味に用いているようである(9:7)。イザヤがここで強調するのは、悔い改めることの重要さである。神は怒るだけの神ではない。正しいだけの神でもない。神は、裁き主であると同時に贖い主であるが故に「ご自分の御腕で」人と神との障壁を取り除き(16節)、「そむきから立ち返る者のところに」来られるのだ(20節)。
 実に十字架上のイエスがまさにそうである。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ3:17)」とあるとおりだ。神は約束する。「今よりとこしえに離れない」(21節)。神が、私たちの悔い改めることも、立ち返る事もできずにいる頑な心を憐れみ、主の熱心さによって神のものとしてくださるように。ただ主の愛に頼る者を主が憐れんでくださるように、祈ることとしよう。
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