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ゼカリヤ書11章

2021年01月02日 06時39分07秒 | 小預言書
11章 メシヤ預言
おはようございます。ゼカリヤ書9章以降には、メシヤ預言が散見されます。イエスの働きを重ねて読む時に、それは、私たち自身に迫るメッセージとなります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の裁き
 9章以降は、神殿再建以降に語られた預言とされますが、すでにこの頃には、大祭司ヨシュアもゼルバベルもこの世になく、ユダの民も再び堕落していました。彼らの後を継いだ指導者たちは私利私欲の赴くままに政治を行い、弱い者を食い物にし、国は荒れ廃れていたのです。せっかくバビロン捕囚から解放され、祖国再建の恵みに与ったというのに。人間の悟りのない愚かさがあると言うべきでしょう。
1節「レバノン」、2節「杉の木」「もみの木」「バシャンの樫木」が具体的に何を意味するのか、よくわかっていません。しかし、それらは、文脈的に、神の恵みや救いを拒み、自分の力と繁栄を誇る者どもの象徴として捉えるべきなのでしょう。もちろん、直接的には、イスラエルの人々を念頭にしていると言えますが、神は、そのような罪に歪んだ人々を罰せられると言うのです。
2.「屠られる羊を飼う」
 4節以降ゼカリヤは、羊を飼うように命じられていますが、ここも9章以降散見されるメシヤ預言に相当する箇所とされるところです。「屠られる羊」はイスラエルの民を象徴し、「羊を買った者」は、アッシリアやバビロンなどイスラエルを滅ぼした大国を、そして「売る者」はイスラエルの宗教家を意味しています。つまり、イスラエルをアッシリアやバビロンに売り渡す結果になったイスラエルの指導者の罪を糾弾しているのです。彼らは羊を飼う者ではなく、羊で商売する者たちでした。ですから羊が買われる結果、つまりアッシリアによって災いがもたらされても、やがてローマ帝国によって同じ災いがもたらされても、涙の預言者エレミヤのように心痛めることもありませんでした。自分たちの豊かさ、名誉ばかりを考えている者たちです。その偽預言者たち、偽宗教家たちに従うイスラエルの民の前途にあるのは滅びでしょう。
そこで、ゼカリヤは、彼らに代わって羊を飼おうとします。彼が手にした道具は、「慈愛」と「結合」の二つの杖でした。当時の羊飼いは、外敵から羊を守るまっすぐな杖と、羊を安全に導く先の曲がった杖を持っていました。前者は、恵み深い真の牧者の象徴です。後者は、散らされた羊を一つにまとめる志を持つ牧者の象徴です。しかし、誰も彼を歓迎する者はいませんでした。指導者のみならず、民もそうでした。そこで、ついにゼカリヤは、慈愛と結合の杖を折り、イスラエルが滅びに向かうままとするのです。しかも、彼の働きに対する評価は、銀30シェケル。それは奴隷の労働の代価で、侮辱的な安価、ほとんど何の価値もないと見なされるものでした。このストーリー全体が、ユダによって30シェケルで売り飛ばされたイエスの働きを預言しています。16節「一人の牧者」は、具体的に誰であるか、というよりも、神の恵みを拒んだイスラエルに対する裁きを語るものでしょう。大切なのは、まことの牧者の声を聞き分け従う、まことの羊であることです。

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