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詩篇131篇

2013年08月21日 06時20分08秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 130篇に続く個人的な詩である。ダビデによるとされているが、ダビデのいつの時代のものなのかは、わかっていない。しかし、これは、ゴリヤテの出来事にからんで、兄エリヤブにたしなめられた出来事(1サムエル記7:28)と関連している、と説明する人達は多い。
 だから「及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」(1節)というのは、宮廷や軍隊や社会の偉大な出来事と考えられている。ダビデは、この時野心があったということだろう。確かに、若い時には、後先を考えずに、大きな理想を抱き、高望みをしてしまうことがある。否、高望みせずとも、ひょんな事から、分不相応の場に引き出されることもある。ダビデも同じであったのかもしれない。しかし、サウルによる迫害や様々な試練を通して、ダビデも錬られて、宮廷や軍隊や社会の偉大な出来事を求めることがいかに愚かなことであるか、それらが自分の手に負えると考えること自体がいかに愚かで大それたことであるか、理解されるようになったのだろう。確かに、人間の実力など、知れていることである。
 だからこの詩は、ある意味で、若き日を振り返り、「まことに私は、自分の魂を和らげ、静めました」(2節)と言いうる心境に至った時に書かれたのものなのだろう。「乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります」(2節)乳離れした子は、成長し聞き分けがよくなった子を意味する。食欲のままに泣き叫ぶ子ではない。だからここでは、主が与えられているもので満足を見出すことができるようになった、信仰的な成熟に至った状況を意味している。そういう意味では、人には、すべて天から与えられるものでよしとする心境に至る成熟が必要である。パウロが言うように、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びきることである(ピリピ4:11)。確かなところ、今置かれた場にあって、私たちがそのような確信を持ちえなかったら、どこに行っても幸せにはなれない。主の主権を認めて、主のみこころがなされるようにと静かに確信を持って祈れるようになったら、どんな人生でも楽しみを見つけることができるようになる。
<夜のディボーション>
 ただ、この詩の「ダビデによる」は、七十人訳のいくつかの写本やアラム語にはなく、ダビデの作というよりは、ダビデ的な作ということで、実際には130篇と同じ頃、つまり捕囚帰還後に書かれたのではないかと考えられている。
 しかも公用の詩とされたことの意味は、捕囚帰還後の過大な期待への戒めとするためであったようだ。つまり、詩篇126篇には、「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった」(1節)とある。捕囚から帰国が許されて帰って来たイスラエル人は、安易に輝かしい未来を考えがちであった。しかし、彼らは帰国しただけでも幸いであった。城壁を再建し、日常を取り戻しただけでも幸いだったのである。過度の期待を抱くことへの戒め、謙遜になることへの戒めがそこにある。
勝利の時にこそ、私たちは慢心しやすい。もっと何かを要求しやすくなる。要求して当然であると思うようになったりする。人間のそんな愚かさに気付いて、いつも相変わらず、主が導いてくださっている状況をよしとする心構えが大切だ。主に足りることを学ぼう。そうすれば、「イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て」と、主にのみ期待を抱くことの素晴らしさがさらにわかることだろう。

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