【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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コリント人への手紙第一4章

2018年04月20日 06時19分08秒 | パウロ書簡
教会の指導者をどのように見ていくか。3章では、教師は何ではないか、を教えていた。4章では、逆に教師とは何であるかを積極的に教えようとしている。要点は三つである。第一に指導者は、キリスのしもべである。ギリシア語では「ヒュペーレテース」であり、「下で」(ヒュポ)「櫓をこぐ」(エレッソー)という語の合成語である。これは、もともと三段櫂船の下段の船底で汗水たらして櫓をこぐ奴隷のことを言っている。つまり指示通りに働く程度の低い奉仕のことを言っている。また指導者は、「神の奥義の管理者」である。「管理者は、ギリシア語で「オイコノモイ」、大農園を監督する者を意味する。つまり彼は奴隷を監督したが、彼自身は農園の主人ではない。彼自身は主人に従属し、奴隷であることが多かった。
そこで、教師にとって重要なのは、主人に忠実だと認められることであって、人からではない。だからパウロは、まず「人間による判決を受けることは非常に小さなこと」である、という。つまり、他人がどう思おうと、少しも気にしない、ということだろう。人に低い評価をつけられて気にしなかったり、傷ついたりしない人はいないが、それに振り回されることはない、ということだろう。実際、それを自分の心の内でうまく処理できるようになることは、霊的成熟の一つのしるしである。そしてパウロは自分で自分を裁くこともしない、という。人が決して逃れられない人間は、自分自身である。自分自身と仲良く暮らせる能力もまた、霊的成熟の一つのしるしである。結局、他人でもなく、自分でもなく、神が自分をどう見ておられるか、認めておられるか、ということが大事なのであって、そのためには、自分自身の中で、神ご自身の存在が何よりも確かでなければならないのである。私を裁くお方は主ご自身である、主が最終判断を下される時までには、全ては判断保留であると。
6節、パウロは、自分とアポロの例にあてはめて以上のことを語って来たという。そこで分かってほしいことは、コリント人も同じように考えて欲しい、ということだろう。コリント人にとって信仰生活は、特権に与り、自分の功績を数え上げることに等しかったが、パウロにとってそれはキリストの謙遜に倣うことであり、あらゆる高ぶりを捨てて、遜って人に仕え、キリストのために喜んで死ぬことであった。それこそが聖書の教えていることであり、聖書に書かれていることを越えて、一方にくみし、他方に反対して思いあがってはならない、というわけである。
7節からパウロは単数形の「あなた」を用いて、具体的に一人ひとりに問いかけている。コリントの教会の人たちに争いがあったのは、「神」ではなく、「人」を見ていたからである。しかし、神との決定的な関係に、私たちはもう一度立ち戻らなくてはならない。私たちはありとあらゆるものを神に備えていただいている。神の恵みにあって生きている。そういう意識があれば、もっと互いに謙遜になれるはずだ。8-13節は、感情をむき出しにした言い方である。神が定めたキリスト者の道は十字架に従う道である。しかし、そこを避けて安易な道を歩む、損得勘定で利益を優先する道を歩む、社会的な評価を得る道を歩む、それがコリント教会の人たちの問題であった。しかし、使徒たちの苦難は「今の今まで」(11節)、「今に至るまで」(13節)続いている。自分たちは、身を粉にして、ぼろ雑巾のようになっている、という。
厳しい口調で語ったのかもしれないが、パウロは、コリントの人々を愛する子どもとしてさとそうとする。(14節)。これから先、コリント人はたくさんの養育係、つまり教師の指導を受けるかもしれないが、父親は一人である。養育係は、ギリシア語でパイダゴグウス、男児の付き人となった奴隷のことを言う。彼は、男児の学校と家の送り迎えをし、勉強を見、マナーを教える、いわば世話全般を担当する重要な働きを任された。しかし彼はあくまでも奴隷であり、いつでも代わりを立てられる可能性のある者であった。しかし、パウロ自分を、父である、という。コリントの教会は、パウロによって生み出され、一番パウロの世話になった、深いきずながあるのだ、と主張される。だからパウロは皆が自分に倣って欲しい。父として子に自分の生き方を倣って欲しい、と言う。それは、キリストとの関係にしっかり生きる歩みである。テモテを遣わし、その生き方を思い起こして欲しいという。残念なるかな、多くの場合、私たちはキリストの御名で祈りながら、キリストとの関係に生きることを忘れている。いつの間にか、目に見える人間との上下関係の中で、キリスト者らしい生き方をしているだけに過ぎないことがある。もう一度自分の軸がどこに置かれているのかに注意したいものである。パウロは、自分で自分をかきたてて献身せよ、とは言っていない。神の恵みと力を味わう人生を歩むことを勧めている。神に支えられ、神にささげられた人生を歩むことだ。単なる口先だけの信仰ではなく、神の力の通り良き管となり、聖霊の力が示される歩みをさせていただこう。

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