<朝のディボーション>
この章は、ベニヤミン族以外、すべて昔の北王国に属する部族の子孫である。イッサカル(1-5節)、ゼブルン(6-11節)、ダン(12節)、ナフタリ(13節)、マナセ(14-19節)、エフライム(20-27節)が取り上げられる。そもそも、捕囚からの帰還民の中心はユダ部族と、レビ部族であるとすれば、この系図の記録はさしあたり重要ではないが、イスラエルの部族は一つであるという意識のもとに書きとどめられたのであろう。
ところが、さほど重要ではない系図のようでありながら、先のユダやレビの系図にはない特徴もある。特徴的なことばや挿話が、入れられている。
たとえば、「勇士」ということばが、諸処に用いられている(2、5、7、9、11、40節)。ユダヤレビの系図には出てこないものである。それは、いわゆるイスラエル再建を目指すために、捕囚の地から引き揚げてきた者たちに対して、あなたがたの先祖たちには勇士がいた、あなたがたも勇士であれ、と鼓舞に導こうというものであったのかもしれない。そして祖国再建のためにイスラエル全体が一つとなる、という意識を持たせる試みであったのだろう。
<夜のディボーション>
14-19節はマナセの子孫の物語。これは、既にヨシュア17:3,4で取り上げたものであるが、ツェロフハデには娘たちしかいなかった。父の死後、娘たちは土地相続の権利を訴え、その弱い権利が保護されたというエピソードである。これがわざわざ挿入として繰り返されているということは、神の恵み深さは、歴史が移り変わってもなお覚えられているということに他ならない。その身と力の小ささを嘆く者に、神はいつくしみ深いということを、私たちは確認する。
20-29節はエフライムの系図である。この箇所だけに出てくる記事であるが、これはどう読んだらよいのだろう、と思うところがある。エフライム族に起こった悲劇的な事件とその父の悲しみが系図の中に記録されている。エフライムは、ヨシュアという偉大な指導者を産み出した部族であるが、ヨシュアについては、27節に簡単に記されるのみであり、エフライムの悲しみと慰めがここで詳しく語られている。創世記に収録されずに、言い伝えられてきたエピソードなのかもしれない。そして、災いがありながらも、その逆境を乗り越えたエピソードとして語り継がれてきたものなのだろう。その出発は息子たちを殺されるというものであったが、男の子を与えられ、さらに息子たちに代わって娘たちが町を建てあげることになった、という。私たちの人生には物事が思うとおりに行かないことが多い。また悲劇的な出来事が身近に起こることもあり、将来に希望を何も抱けないと思うこともあるだろう。しかし、それでも、神は私たちの思う以上のことを、欠乏の中で、また危機の中でなしてくださるお方である。
最後にアシェルの系図が記録される(30-40節)。再び選り抜きの勇士という言い方がなされている。大切なのは、歴代誌の著者の北イスラエルを認める視点だろう。捕囚帰還民の多くは南ユダでありながら、彼らは北イスラエルを認め、彼らとのともなる再興を、自らの再建としていることである。失われた者、失われていく者への思いと配慮、さらにはその回復を願う思いが真の再建を導くのである。今日、自らのみならず、また自らの教会のみならず、「諸共に死す」ではなく「諸共に生きる(再興する)」ことを祈る者であろう。
この章は、ベニヤミン族以外、すべて昔の北王国に属する部族の子孫である。イッサカル(1-5節)、ゼブルン(6-11節)、ダン(12節)、ナフタリ(13節)、マナセ(14-19節)、エフライム(20-27節)が取り上げられる。そもそも、捕囚からの帰還民の中心はユダ部族と、レビ部族であるとすれば、この系図の記録はさしあたり重要ではないが、イスラエルの部族は一つであるという意識のもとに書きとどめられたのであろう。
ところが、さほど重要ではない系図のようでありながら、先のユダやレビの系図にはない特徴もある。特徴的なことばや挿話が、入れられている。
たとえば、「勇士」ということばが、諸処に用いられている(2、5、7、9、11、40節)。ユダヤレビの系図には出てこないものである。それは、いわゆるイスラエル再建を目指すために、捕囚の地から引き揚げてきた者たちに対して、あなたがたの先祖たちには勇士がいた、あなたがたも勇士であれ、と鼓舞に導こうというものであったのかもしれない。そして祖国再建のためにイスラエル全体が一つとなる、という意識を持たせる試みであったのだろう。
<夜のディボーション>
14-19節はマナセの子孫の物語。これは、既にヨシュア17:3,4で取り上げたものであるが、ツェロフハデには娘たちしかいなかった。父の死後、娘たちは土地相続の権利を訴え、その弱い権利が保護されたというエピソードである。これがわざわざ挿入として繰り返されているということは、神の恵み深さは、歴史が移り変わってもなお覚えられているということに他ならない。その身と力の小ささを嘆く者に、神はいつくしみ深いということを、私たちは確認する。
20-29節はエフライムの系図である。この箇所だけに出てくる記事であるが、これはどう読んだらよいのだろう、と思うところがある。エフライム族に起こった悲劇的な事件とその父の悲しみが系図の中に記録されている。エフライムは、ヨシュアという偉大な指導者を産み出した部族であるが、ヨシュアについては、27節に簡単に記されるのみであり、エフライムの悲しみと慰めがここで詳しく語られている。創世記に収録されずに、言い伝えられてきたエピソードなのかもしれない。そして、災いがありながらも、その逆境を乗り越えたエピソードとして語り継がれてきたものなのだろう。その出発は息子たちを殺されるというものであったが、男の子を与えられ、さらに息子たちに代わって娘たちが町を建てあげることになった、という。私たちの人生には物事が思うとおりに行かないことが多い。また悲劇的な出来事が身近に起こることもあり、将来に希望を何も抱けないと思うこともあるだろう。しかし、それでも、神は私たちの思う以上のことを、欠乏の中で、また危機の中でなしてくださるお方である。
最後にアシェルの系図が記録される(30-40節)。再び選り抜きの勇士という言い方がなされている。大切なのは、歴代誌の著者の北イスラエルを認める視点だろう。捕囚帰還民の多くは南ユダでありながら、彼らは北イスラエルを認め、彼らとのともなる再興を、自らの再建としていることである。失われた者、失われていく者への思いと配慮、さらにはその回復を願う思いが真の再建を導くのである。今日、自らのみならず、また自らの教会のみならず、「諸共に死す」ではなく「諸共に生きる(再興する)」ことを祈る者であろう。