【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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2列王記8章

2012年11月06日 06時05分46秒 | 列王記
<朝のディボーション>
 シェネムの女が再び出てくる。ゲハジが出て来るので、ゲハジが重い皮膚病になる以前の出来事として考えるのが自然のようである。エリシャは、神の人として、自分を支えてくれる彼女に、色々と気遣いをしたようだが、必ずしもそれは、いつも良い結果となるわけではなかった。彼女はいくつかの悲劇を経験している。息子の死、そして財産の喪失である。しかし、にもかかわらず、彼女は、神の人に対して、極めて忠実であり、好意的であった。神はそのようなシェネムの女に、息子のいのちを取り戻し、飢饉から逃れるように助け、さらには、財産を取り戻すようにしてくださった。彼女は、神の人を守る人生を歩んだが、神は、彼女の人生を守るように、働いてくださったのである。
王がエリシャの行ったすばらしいことに対して、関心を抱き、そのことを思い起こす話をしていた時に、このシェネムの女がやってきたのは偶然のようでありながら、そうではない。すべては、神が巧みに計画された出来事であった。パウロは言う。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益をしてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
しばしば、私たちの人生には、試練と思えるようなことが幾度も襲うことがあるだろう。なぜ神はそのような試練の道を通らされるのか、私たちには全くわからないことがあるものだが、大切なことは、待ち望むことである。黙し、心を腐らせずに、神の導きを見ていくことである。そうすれば点と点が結びついて、神の素晴らしい計画に納得させられることが起きて来るのである。神は、すべてのことを導いて、益としてくださる方であることを、私たちは信頼しなくてはならない。
<夜のディボーション>
アラムの王、ベン・ハダデの死の経緯が記録される。これも先のエリシャの行ったすばらしいことの続きと理解される内容である。15節、王は、ハザエルに暗殺されたような印象がある。しかしこれは「彼」という代名詞を「ハザエル」と理解する新改訳の解釈で、実際には事故であった可能性もないわけではない。
16節からは、ユダの王の記録であるが、概して、アハブの家系に属する王は、神のみこころに従おうとしなかった。しかし、「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった」とある(19節)。また、神が私たちを滅ぼされないのは、まさにイエスに免じてであることを思わされるところである。神がダビデとの約束を守られたように、イエスとの永遠の約束をも守られて、私たちに祝福を注いでくださるのである。
私たちは、不誠実であり不敬虔な者であるが、主は真実である。主は、イエスの十字架のゆえに、私たちを見捨てられることはない。だから私たちがイエスの十字架を信頼するなら、神の恵みを自分のものとし、神と共に歩むことができる。ということは、私たちにどんな災いがふりかかろうと、シェネムの女のように、たびたび不幸が襲いかかろうと、神が私たちを回復させ、私たちを幸せに導いてくださることを信じなくてはならない。私たちは不誠実であっても、決してそのことの故に滅ぼされることはない。むしろ悔い改め、神の御前にへりくだるならば、神は私たちを回復させてくださる。私たちが誠実さの中に歩んで災いを被ることがあっても、私たちは滅びるようには定められていない。神を信頼し、十字架を高くかかげ、神に人生を導いていただくよう祈ることが大切なのである。

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