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箴言14章

2010年06月22日 06時27分53秒 | 箴言
知恵のある者、愚か者の対比と訓戒が続く。これまで読んできた中で言えることは、知恵ある者というのは、思慮深い者である。ものごとをよくわきまえて、ものごとを建てあげる方向で行動する。そこで「知恵ある女」と「愚かな女」が対比される。知恵ある女は、家庭を建てあげるが、愚かな女はこれを打ち壊していく、と。知恵ある者の特徴は、「わきまえ」にある。愚か者の側にいても、そこには何の発展性もない。何の発見もない(7節)。知恵ある者は、何でも鵜呑みにしたりはせず、物事を悟っていく人である。物事に簡単に騙されたりはしない(15節)。彼はいつも、間違った事に対して慎重であり(16節)、冷静である(17節)。怒りをぐっと堪えることができる(29節)。しかし、愚かな者は、気が短く(29節)、怒りをすぐに表し、うぬぼれており(16節)、愚かな事を繰り返す(18節)。繰り返しそれ自体が愚かな証拠である。愚か者は愚かであるがゆえに愚か者なのであり、知恵ある者は知恵あるがゆえに知恵ある者と言うことができる(24節)。知恵は、ものわかりのよい人についてくる(6、33節)。
 そういえば、ソロモンが神に求めたものは、「善悪を判断して、民をさばくために聞き分ける心」(1列王3:9)である。つまりものわかりのよさ、理解する力ということだろう。それに対して神は、「知恵の心と判断する心」(1列王3:12)を与えられた。カウンセリングの鉄則も、「治そうとするな、わかろうとせよ」であるという。まずは、物事に理解力を働かせる、忍耐を持って物事を見ていく、早急に行動せずに、まして怒りの感情をそのまま出すのではなく、ぐっと堪えて、やり過ごしていく、そこへ知恵のひらめきもあるものではないか。
 さて、いくつかこの世の現実をついている、と思う格言がある。「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。」(10節)苦しみであろうと喜びであろうと、人の心の深みは誰にも分からない。人間がわかっているのは、自分のことだけである。実にクールな言い方であるが、その通りだろう。人間は経験しないことはわからない。人の経験は皆同じではない。だから「あなたの苦しみはよくわかる」などとは簡単には言えない。ただ、人間には想像力があるから、それに近いことをもって共感することができる。しかし、本当の深みはわからない。そんな謙虚さが、なければ、人の友にはなれないことだろう。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(12節)これも、実に物事を良く言い当てている。誰の目にも見通しのよい道筋はあるものだ。大勢が流れていく、一見安心だと思うような道がある。しかし、皆が歩いて行く歩きやすい道が、正しい道とは限らない。日本の画一化された社会のあり方を考えればそのことがよくわかる。日本の社会には、人が辿る一つの画一化された路線がある。よい学歴を身につけ、よい会社に就職して、これがよいという何か人の歩む大通りがあるような所がある。しかし、その道を進んで、いや進みきれずに一生を浮かばれない気持ちで生きている者もいるだろう。あるいは何も考えずに流されるままに歩んで、何とも思わず、死の直前にはたと迷い出す者もいるだろう。信仰の道は、ある意味で、そういう大勢が流れに逆らって歩むことであると言われる。この世の物欲的な生き方、上昇志向的な生き方、刹那的な生き方すべてに背を向けて生きることなのだから。それは、見通しの悪い道だろう。まっすぐにはなっていない道だろう。しかし、イエスは、「私が道であり、真理であり、いのちです」と語られた(ヨハネ14:6)。いのちの道は、見通しは悪いかも知れないが、信仰によって踏み進む道である。そして、思慮深いということは、人生に対する、社会に対する深い理解を持つということでもある。人の生きる道や社会を表層的に見ず、掘り下げて見る力を持つことである。
今日も、よく考えないお決まりの一日とせず、少し立ち止まって自分の人生を振り返り、気を長く受け止めるべきこと、ぐっと堪えるべき事、信仰によって見通すべき事を心に留めておこうではないか。

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