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イザヤ書60章

2010年09月27日 06時17分11秒 | イザヤ書
 エルサレム再建の預言である。59章からのメッセージに基づいている。神は私たちに悔い改めを命じるが、悔い改める力のないのをよく理解しておられる。しかも、悔い改めを手助けする者もなく、神との間を仲介する者もないことを驚いておられる。だから悔い改めを命じる神ご自身から、私たちのもとへと駆け下りてきて、私たちを救い出される、という。だから「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」(1節)と語る。自分の光を放つわけではない。主の栄光を、自らを通して放てということである。
 打ち破れた者に何の栄光があるだろうか。堕落し、自ら崩れてしまった者に何の輝きがあるだろうか。しかし、神が私たちに栄光を着せてくださるという。神が私たちに輝きを与えてくださるという。「あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる」(2節)と。
 しかもそれは、声がけ以上のものである。実際に「目を上げて、あたりを見よ」(4節)という。神は私たちの周囲を動かしてくださるのである。私たちの絶望的な環境を変えてくださる。捨てられた町エルサレムは(15節)、再び、再興され、世界中から巡礼の人々が集まる所とされる。「ミデヤン」は、南の地方を指し、かつてイスラエルを略奪した民ミデヤン人はらくだによって有名であった。その民が今は神を礼拝する者として集められる。また「エファ」はペルシャ湾の東、「ケダル」と「ネバヨテ」は、北アラビヤ砂漠の地方であり、イシュマエルの子孫を意味する。またタルシシュは、スペインのことであり、つまりは、エルサレムには、南からも北からも、東からも西からも、世界四方から人々が集まってくる、という。
 それは、一重に「主があなたを輝かせたから」(9節)という理由によるものであり、「実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ」という神の恵みとあわれみによるのである。10節からは、建て直されたエルサレムの町の喜びと繁栄が語られる。かつては、「捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかった」(15節)町が「誇られ、喜ばれ、乳を吸われる」(16節)町となる。「青銅の代わりに金を」「鉄の代わりに銀」「木の代わりに青銅」「石の代わりに鉄」イスラエルのそれまでの歴史を逆行するようなビジョンである。イスラエルは、ソロモン王の最盛期以降、次々と周辺諸国から略奪され、その神殿や王宮からは金銀がはぎ取られ、青銅の祭壇も石の祭壇にされた時代があった。まさに「金の代わりに青銅」「銀の代わりに鉄」という時代の流れがあった。しかしそれがもう逆転する。捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もない、町が「誇られ、喜ばれ、神の愛を受ける町となる、という。
 このメッセージをどう受け止めたらよいのだろうか。当時のイスラエルの人々は未来預言として受け止めたのであろうが、今の私たちにはどうかかわるのか。私たちも同じように、神のあわれみによって、私たちの窮状から救われると理解すべきか。起きて、光を放つ時が来ると理解すべきか。「捨てられ、憎まれ」ている私たちが、「誇られ、喜ばれる」時が来ると信じるべきか。答えは常にイエスであると同時にノーではないか。私たちはいつでも、自分の身に、国家レベルではなくても私的レベルで神のあわれみがあると考えるべきであるし、神のあわれみと回復を期待してもよい。しかし、その完全な回復は、やはり終末においてであることを忘れてはならないのだと思う。「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となる」(19節)。これはまさに黙示的メッセージではないだろうか。「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」(20節)というのは、まさに、黙示録21章に描かれた終末預言に重なる部分である。私たちの信仰は単なる御利益ではない。この地上において報われることではない。それ以上の祝福を受けることである。私たちの心が地に落ちてしまわないように。私たちの魂が世俗の中で、安心し過ぎることがないように。いや、世俗の平安に執着し過ぎることなく、真の永遠の救いを求める者であることを覚えたいものではないか。
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