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聖書を一日一章読み進み、一日一生を得ることを目的に、既に四回目の通読に入りました。三年半で聖書を読み終えます。

コリント人への手紙第二、11章

2018年05月13日 07時54分30秒 | パウロ書簡
10章に続いて、パウロは論争的に語っている。問題は、4節、コリントの教会には、パウロが「大使徒」もしくは「偽使徒」「人を欺く働き人」(15節)と呼ぶ人々、つまり、異なった福音を説いて、しかも自分の解釈の方がパウロのそれよりも優れていると主張している人々がいた。その福音の本質は、キリストの力と栄光を語りはするものの、十字架につけられたキリストを解かない福音である。またその信仰の本質は、成果主義、権威主義であった。パウロは、コリントの教会の人たちがよくもまあ、根底にそのような考え方、価値観のあるいい加減な教えを辛抱強く聴いているものだと皮肉っている。そんなことは我慢してはいけないし、むしろおかしいことには気づいてください、というわけだ。
6節「たとい、話しは巧みではないにしても」つまり、パウロは、自分がそれらいい加減な福音を語る教師たちよりも、饒舌さにおいては負けるかもしれない、しかし、「知識についてはそうではない」つまりキリストの奥義を理解することにおいては、負けることはない。彼らはわかってもいないことを、ことば巧みに話しているだけなのだ、というわけだ。そしていくつか自分に向けられた批判について一つ一つ答えていく。
まずコリント教会の人々の中には、なぜパウロが自分たちの援助を受けようとしないのか、そのことに不満を抱いている人々がいた。教師がその労働である教える行為から給与をもらうのは当然ではないか、それなにのなぜパウロは自分たちの支援を受けようとしないのか、という。結局パウロは、使徒がしないようなことをする本物の使徒ではないのではないか、つまり、大使徒たちが言うように、安物の教えを垂れているからこそ、お金を受けようとしなかったのではないか、と彼らは考えた(7節)。また、パウロが彼らの心遣いを受けようとしないのは、彼らの心遣いがわからない、つまり彼らを本当に愛していないからではないか、と考えた(11節)。
それに対して、パウロは、8節「私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給与を得た」という。また9節「何であれあなたがたの重荷にならないようにした」という。つまりパウロがコリントの教会からお金を得ようとしなかったのは、負担をかけさせないようにという配慮と共に、自らの教えの独立性を保つ、パウロの思いやり兼主義主張によるのである。大使徒たちが言うように、パウロの教えに価値がなかったわけではない。だから、その決定的な理由は大使徒たちと同列にされることを拒否することにあった(12節)。つまり大使徒たちは働きに対する報酬を受けるのみならずそれを貪欲に要求していた。パウロも報酬を受ける同じ条件に身を置いているなら、同じような福音を語っていると誤解されたであろう。そこで、コリントの教会からは全く報酬を受けないという異なった条件に身を置いて、大使徒とは異なった福音を語っていることを明確にしたかったのである。
次にパウロは、自分の経歴と宣教努力を誇ってみせる。それは大使徒たちの成果主義、権威主義を意識してのことである。17節。「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です」パウロはこれから話す自分の経歴と宣教努力を誇ることが、いかに愚かしいことかとわかりながらも、敢えて語ろうとしている。
パウロは、自分が離散ユダヤ人ではあっても、ヘブル語をしっかり話せるヘブル人であり、ギリシア化されてはいない純粋なイスラエル人で、アブラハムの子孫である(22節)という。しかしそこで、パウロは、大使徒が誇らないようなこと、つまり、自分がキリストの苦難のしもべであることを誇って見せる(23-27節)。パウロは様々な苦難を数え上げ、それらキリストを語るために受けた苦しみが、キリストの真のしもべの証である、という。
そして最後に、自分が愚かに誇って見せたことが、どんな結末を迎えたのかを語る(30-33)。パウロは、かつて熱心なユダヤ教擁護者として「主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻いて」いた(使徒9:1)。彼の手には、ダマスコ諸会堂宛ての信任状があり、それを見せつけるならば、誰であれキリストの道にあるものを捕縛してエルサレムへ連行することができた。彼は意気揚々としていたのである。しかし、キリストに出会って、キリストを救い主として受け入れてから、彼は、逃亡者とさせられたのである。窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、逃げまどわなければならない、屈辱的な人生へと転落していった。結局、キリストの十字架を認めず、キリストの大使徒であることを誇ることは、同じ結末になる、とかつての自分の経験を思い起こしながら、キリストの真のしもべとして誇るべきことは、そういうことではないのだ、成果主義、権威主義の結末は、キリストの前にあって恥と変わると言いたかったのだろう。
そして一方で、そうした成果主義、権威主義的大使徒たちによって、惑わされ、傷んだ者たちへの心遣いをパウロは語っている(28-29節)。大使徒は教会の人が落胆しようが、喜ぼうが無関心である。彼らには、たましいに対する配慮がない。しかし、真の使徒ならば、弱い者に対しては弱くなり、つまずいている者には心の痛みを覚える。パウロは、父なる神を証人として、告白する。自分の言葉に偽りはない、と。私たちが教会にあって苦しみを覚える時、それは、私たちがその教会を愛しているかどうかを問われている時である。キリストの苦難のしもべであるかどうか、大使徒であるか本当の使徒であるか、を問われている時なのである。
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