【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ルカの福音書2章

2018年01月19日 06時05分44秒 | 福音書
 ルカは歴史的関心があり、イエスの出来事を一般史に結び付けて書くのが特徴である。皇帝アウグストは、BC27-AD14まで在位したローマ帝国初代の皇帝である。またクレニオがシリヤの総督であったのは、AD6-7年とされる。歴史家のヨセフスは、6,7年に、住民登録が行われたことを記録しているので、イエスが生まれたのは、この頃なのであろう。正確な時期は不明であるが、イエスの家族は住民登録のために郷里へ戻らねばならなかった。ローマのこの制度は、本来居住地でなされたようであるが、ユダヤ人の場合は郷里に戻って行うようになっていたらしい。なお、ベツレヘムは、ヘブル語でベイト・レヘム、パンの家を意味する。そこで自らを「いのちのパン」(ヨハネ6:35)と称した、イエスが生まれたとするのは、まさに神の不思議な御心のなせる業である。
 今日イエスが生まれたところには、生誕記念教会が、また羊飼いたちが野宿で夜番をしたところにも、記念教会が建てられ、観光地化している向きもあるのだが、ベツレヘムは小高い山々が連なり、夜空が美しい町であったと記憶する。しかし、1月のベツレヘムは野宿をするには寒すぎる。雪も降る季節である。そんな小さな町の夜に「たちまち、御使いと一緒に、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美し」、救い主の誕生が知らされる。神はなぜ世界の片隅で、名も無き羊飼いたちを相手にこんなことをされたのか。しかも、彼らはユダヤでは、その仕事の性質上、人々から見下げられ、裁判で証言することも許されないような人々である。救い主の誕生なのだから、首都エルサレムのど真ん中で、各国の重要人物を相手に、もっとど派手な舞台設定もできたであろうに。しかし神はそのようにはなさらなかった。それはささやかであるが、荘厳な告知となった。神との出会いはいつもそのようなものなのかもしれない。それは小さなきっかけであるかもしれないが、厳粛であり、遜る者に大きな恵みの出発点となるものだ。
 イエスはナザレの町で育った。ナザレは、標高350mの丘陵にあって、南はイズレエル平原、東はタボル山やギレアデ山、北はヘルモンの山系、そして西はカルメル山に囲まれた一寒村である。4世紀以降、エルサレム、ベツレヘムに並んでキリスト教の中心地とされるまでは、知られることもない静かな町であった。
 そしてイエスが二度エルサレムへ家族と共に出かけたことが記録される。一つは、8日目の割礼の時であり、もう一つは12歳の時のことである。
 割礼を施す日に、エルサレムへ出向いた家族のささげものは、貧しい者のささげものであった。彼らは子羊をささげられなかったのである。その場に居合わせたシメオンの賛歌と預言が記録される。イエスが十字架に付けられた場所であるとされるエルサレムの聖墳墓教会には、心臓に剣を刺されたマリヤの像がある。シメオンの文字通りの再現であるが、イエスの苦難と栄光がそこで語られている。確かにイエスの誕生の初めから、イエスをお迎えする場所もなく、その生活も貧しく、そして最後には、人間の悪意の吹き溜まりの中で定められた死に向かうのであるが、それはまことの光、まことの救い、まことの栄光を人々が知るようになる歩みであった。
さて、旧約律法では、年に三度エルサレムの神殿で礼拝をするように義務付けているが(申命16:16)、多くは、最も重要な過ぎ越しの祭りに合わせて、年に一度エルサレムを訪れていた。ユダヤの少年は13歳になるとバル・ミツバ(アラム語で「律法の子」を意味する)なる厳かな儀式を受け、律法を守る成人として数えられた。これによって成人男子と共に会堂にて礼拝することができるようになった。イエスが12歳の時に都へ上ったのは、一年早い予行練習のためであったのだろう。ナザレからエルサレムまで、約100Km、三日の道のりである。巡礼者の群れは、うららかな春、詩篇120~134篇の都もうでの歌を合唱しながらエルサレムに向かう。帰り道は、北13キロのベエロテで一日目の夜を過ごし、旅程の無事を確認し、本帰途となったので、両親がイエスの不在に気づいて引き返したのはこの場所と思われる。イエスと両親の会話に、イエスが、すでに自らを「神の子」であると理解していることがわかる。イエスは神であられるのに、完全な人として生き抜かれたのである。この神のしもべの謙遜の足跡を辿ることが私たちの歩みでもある。




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