【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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民数記6章

2018年12月25日 06時16分07秒 | 民数記
民数記6章
6章 ナジル人の定め
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日はナジル人の定めが教えられます。彼らは祭司のごとく聖さと献身を求められつつ、祭司とは違い、また一般信徒と位置付けられておりながら、進んで神に時間とお金と賜物を神にささげていくということで、一般信徒とも区別される存在でした。誰でも信仰者は、より優れた献身の歩みを考えるべきなのでしょう。そのような神に生きる人々に、アロンの祝福の祈りもあったと言えます。今日も、皆さんの上に主の平安があるように

1.ナジル人の定め(6:1-21)
 ナジル人の定めが記される。ナジルは、「聖別する」「分離する」を意味するヘブル語の動詞ナーザルから出たことばで「ささげられた者」「聖別された者」を意味する。神の奉仕のために自分自身を全くささげた信徒の事である。確かに何千、何万というイスラエル人の中に、多くの敬虔な人々がいた。彼らは5章で述べられたような汚れを避けるという消極的な生き方のみならず、より積極的に神の者として生きるための定めを必要としたのである。普通はある特定の期間をささげるのであるが、まれに一生の場合もあり、神に生きるナジル人になるためには次の三つの事柄が求められた
①ぶどう酒と強い酒を断つこと(3-4節)
②聖別の期間中、髪の毛を切らない(5節)
③死体に近づかない(6-8節)
禁酒は第一要件であり祭司の定めよりも厳しい(レビ10:9)。酒に酔うことがあらゆることの罠であり、自制心を働かせて「ささげられた者」として神への奉仕に専心させるためなのだろう。また髪の毛を切らないのは、髪の毛が一生の間伸び続けるため、古代の人々が、髪に力といのちの源があると考えたことに由来するのかもしれない。しかしもっと実際的に、彼らは神に献身した者とは言え、その髪型は、明らかに祭司特別され、信徒であることを明らかにしていた。最後に、一般の信徒が死体の汚れによって宿営から除外されるとすれば(5:2-3)、まして、ナジル人は、霊的、儀式的なきよさを守るためにはまして厳しい基準で実行することが求められた(7節)。このようなナジル人の誓願が、仮に不注意もしくはやむを得ない事情で破られた場合、その誓願を初めからやり直すべきことが命じられている(9-12節)。また誓願の期間が無事終了した時には、規定のささげものがささげられるように命じられた(13-21節)。
(1)ナジル人と祭司の違い
 こうしてナジル人は、特定の要件を満たすことを求められたものの、それによって必ずしも聖所での特別な奉仕あるいは修道院的な生活をしたわけではない。彼らは聖さにおいては祭司同様に扱われたが、明らかに祭司たちとは違う存在であった。彼らは祭司同様に自らを聖別したが、ごく普通の生活を行い、家庭や社会の義務を果たしていくのである。大祭司は男性に限られていたが、ナジル人には女性もなることができた(2節)。祭司は会見の天幕に入り、いけにえをささげ、人々を祝福し、権威ある教えを語ることができたが、ナジル人にはできなかった。祭司は、祭司服を着て整髪していたが、ナジル人に決められた装束はなく、髪は伸ばしていた。祭司は会衆のささげ物によって生活をしていたが、ナジル人は、会衆と同様に、祭司を支える側にいた。つまり自らを捧げた平信徒として、日常の中で神の聖さに生きた。旧約聖書では、サムエルとサムソンが、終身のナジル人の例として登場する(士師13:4-5、1サムエル1:11)。新約聖書では、バプテスマのヨハネがナジル人と考えられ、さらにパウロも一時的にナジル人としての誓願をしている(使徒18:18)。
(2)ナジル人と一般信徒の違い
このように期間が終生であろうとまた一時的であろうと、自らが聖別された者であることを覚え、神の奉仕のために自分自身をささげていくことは、敬虔さを求める信徒にとっては模範となることであるが、彼らは、いわゆる一般信徒でもなかった。そたとえば、誓願の期間を終えた後のささげ物についてみてみると(6:13-20)、一般信徒は、子羊の代わりに安い鳩で許されたが(レイ1:14-17,5:7-10)、ナジル人は、三頭の子羊をささげた。また、交わりのいけにえにおいても、普通祭司は、胸とももの肉を受けるのであるが、ナジル人からは、雄羊の肩と種なしの輪形パン一つを追加して受け取った。こうした普通の習慣にない追加された奉仕は、ナジル人が一般信徒以上に献身し、ささげた歩みをしたことを意味している。
しばしばキリスト者は、深く物事を考えもしなければ、これまでの生活の延長で生きてしまいやすいものである。そして往々にして余分な時間、余分な財力、余分な賜物は、益々自己目的化のためにこれを費やす人生を送りやすい。しかし、神のあわれみによって今自分自身があることを覚えて、どこかステップアップし、神によりよくお仕えし、ささげていく信仰の歩みへと進んでいきたいものであるし、古代イスラエルにおいては、その道があったと言えるだろう。
3.アロンの祝福(6:22-27)
 6章最後に、祝福の祈りについての定めが語られる。会衆を祝福するために祭司が使用する式文で、最もよく知られ、現代でも用いられている。
 特徴的なこととして気づかされるのは、各行の最初の句は、民に対する神の働きかけを祈り、第二句は、彼らのための神の活動を祈っている。つまり、24節は、神が祝福する働きかけ、と守るという活動を祈っている。「守る」は、災いから守られることをさしている。そして、25節は、神が光にたとえられ、慈愛をもって人に働きかけられる時に、それは、恵みという活動になって現れる。実際、これはキリストの十字架において頂点に達した行為であり、キリストを仲立ちとして、私たちは主のみ顔を拝し、主の恵みを受けるのである。最後に26節、「主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように」というのは、神が個別の関心をあなたに向けることを願うものであり、主の特別な祝福の中に置かれることを祈る。25節が一般的な祝福の祈りとすれば、26節は個別的な祝福の祈りというべきだろう。「賜る」と訳されたヘブル語は、「与える」を意味するわけではない。むしろ「定める」「確立する」を意味する。つまり、「主があなたのために平和を確立するように」と祈っている点が大事である。「神があなたに個別の関心を向け、あなたに正面切って向かい合い、あなたの祝福を確立されんことを」、と祈る。
 しかしなぜこの文脈に置かれているのか。ナジル人の律法の直後、あるいはレビの定めの後に置かれる特別な意味はあったのだろうか。神の祝福は万民のためであることは言うまでもない。しかし、神への奉仕に携わる者たちへの教えの後に、この祝福の祈りが定め教えられていることの意義は大きい。主に専心し、自らを聖別し、より神に献身しようとする者に、祝福が確立されるようにと祈られている。そういう意味で、この祈りは礼拝における祝祷においてもよく用いられるものであるが、それは、週毎に心から主に向かう者たちへそれぞれの祝福の完結を願い祈り、送り出す重要な意義を持つ。

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