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詩篇52篇

2010年03月02日 06時15分54秒 | 詩篇
 ダビデの個人的な経験、サウルから逃れていた時に起こった出来事に基づいて綴られた詩篇がしばらく続くようである。この詩篇の背景は、ダビデがサウルの元から逃れ、祭司アヒメレクの元に立ちよった時の事である(1サムエル記21:1-9,22:9-23)。ダビデは祭司アヒメレクの元に身を寄せ、食料を得、かつて自分が倒したゴリヤテの剣を手にした。かつては、剣など見向きもしなかったダビデであるが、サウルに命を狙われ護身用にそれを手にしたところに、ダビデの心の追い詰められた状況があるのではないか。片手に剣、片手に祈り、という複雑な状況を思う。
 ともあれ、この時、ダビデはアヒメレクの元からさらに、敵であるガテの王アキシュの元に逃れようとした。しかしアキシュの家来に、素性がばれ、気が狂ったふりをして、そこから逃れている。何とも惨めな状況である。アキシュのもとから追い出されると、アドラムのほら穴、そしてハレテの森へと逃げた。必死に追っ手から逃れようとするダビデ。しかしそんなダビデの行き先をサウルに密告する者がいた。エドム人ドエグである。サウルは、ドエグの密告に、祭司アヒメレクの加担を知り、85人の主の祭司たちを虐殺するのである。ダビデがいかに、明日の命も危うい状況にあったかが、理解されるところである。
 そのような状況にあったことを思いながら、改めてこの詩篇を読んでみる。ドエグに対する痛烈な批判。「善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している」(3節)。そういう人物に巡り合った事のある人ならばわかるだろう。ペテン師でありうそつきである人。舌をもって、人を陥れようとする。それが致命的な効果をもたらすことがある。そのような人物によって窮地に立たせられることがある。しかし、偽りによって破滅をもたらす者は、同じ報いを確実に受ける。神は正義だからだ。神は彼を根こぎにされる(5節)。ダビデはこれをどれほどの確信を持って語っていたのだろうかと思う。偽りが、悪が、自分を飲み込もうとする状況にあって、しばしばこれ程の確信を持つことは難しいことがある。偽りや悪に打ちのめされそうになることの方が多いだろう。護身用にゴリヤテの剣を持ちだしたダビデである。あるいは、自分に真理を言い聞かせるようにこの歌を読んだのかもしれない。確信というよりは、神の真理を自分に言い聞かせて、自分を奮い立たせようとしたのかもしれない。いずれにしても、ダビデの語ったことは真実であった。ダビデは、窮地にあって、最良の選択を学んだのである。「神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる」(7節)人間は滅ぼされる。邪悪な力を頼りにする者の将来は危うい。しかし、神の恵みにより頼む者は、生きながらえる。
 どうだろうか。やはり信仰に立つということは、勇気を必要とすることではないか。何の当てもないところで、何の保障もないところで、いやむしろ、全てを失い掛けているような状況の中でも、神が正しい者を守り、導き、祝されることを信じていくのであるから。自分の身を守るのは、手にある剣ではなく、あるいは、お金でも、人脈でもなく、ただ目に見えない神の愛、神の配慮であることを信じていくのであるから。
 イスラエルの乾いた大地に力強く育つオリーブの木。ダビデはオリーブの木を見ながら思う。枯れそうで枯れ行かないオリーブの木。正しい者は、神の命に活かされ、枯れそうになる状況にあっても枯れることはない。パウロは言う。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
(2コリント4:8,9)。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためなのです」(2コリント4:7)。
 神は善である。神を待ち望もう。神がよくしてくださる。
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