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エゼキエル書41章

2017年07月14日 05時34分28秒 | エゼキエル書
先に神殿境内の幻が語られた。いよいよ、エゼキエルは奥に進み、神殿本体へと入っていく(1節)。既に外庭に入るのに7段、内庭に入るのに更に8段上っている。そこから更に10段上って行くのである。神殿の構造自体が、高き所におられる主の御前に立つための心備えを求めるようになっているようだ。本堂は三つの部分からなっていた。玄関、聖所、至聖所である(1-5節) 。続いて神殿の周囲にる脇間について説明される(6-14節)。「階段式の脇間は三段に重なり、各段に三十あった」(6節)。つまり三階建てで、それぞれの階に30の部屋があった、という。脇間の入り口は、北向きと南向きと外側に向いていた。これは恐らく、神殿器具と備品や、神殿に仕える者に支払われる十分の一献金とささげものを格納する部屋として使われるものだったのだろう。西側の聖域には、70×90キュビトの別の建物がある。これも貯蔵のためのものなのだろう。それにしても全部で180室である、霊的に回復される新しいイスラエルの豊かさが暗示されているようだ。
おおざっぱな構造の後に、外装や内装の様子が語られる。本堂の入口にも内側にも、また聖所と至聖所の扉にも「ケルビムと、なつめやしの木」(18節)の彫刻が施されている。ケルビムはケルブの複数形であるから、「なつめやしの木をはさんでケルブがある」(18節)装飾のことを言っている。
しかしなぜ、なつめやしとケルビムなのだろう。詩篇には「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます」(92:12)とある。それは、正しい者の繁栄のしるしであり、よいことの象徴であった。また、仮庵の祭りにおいては、まだ広がらないなつめやしの葉を使って打ち振り、主の前に喜ぶように勧められている(23:30)。いわゆる祝い事の象徴である。またなつめやしはヘブル語でティモラーであるが、新約聖書では、フォイニクスというギリシャ語が使われ、「しゅろ」とも訳されている。イエスがエルサレム入場の際に、人々はこの葉を用いて歓迎し、ホサナと叫んだ。またギリシャ語のフォイニクスは不死鳥を意味する。葉を広げた樹容が不死鳥に似ているからであろう。今の私たちにとって、なつめやしは、デーツと呼ばれる甘いドライフルーツを連想させるが、当時のイスラエルの人々にとっては、それは、正しい者の繁栄のしるし、よいこと、祝い事、そしていのちの象徴であった。
またケルビムは、初め創世記に登場してくるが、それは、エデンの園にあるいのちの木を守るために備えられたものである(創世記3:24)。これが形にされたのは、幕屋の至聖所に置かれた契約の箱の贖いの蓋が作られた時である。蓋の上に互いに向かいあう純金製のケルビムが形作られ、これを守る象徴的な意味合いがもたされた(出エジプト25:18-22)。またケルビムの翼が上方に広げられている様子は、目には見えない神の御座の見える台座、あるいは移動する王座を連想させた(1サムエル6:2)。エゼキエルはすでに10章でその様子を描いている。神は「ケルブに乗って飛び、風邪の翼の上に現れた」と語られているとおりである(詩篇18:10)。ソロモンの神殿にこのケルビムの彫刻が施されたのはそのためなのだろう。それは、主の臨在を象徴し、主の栄光を守るのである。
繁栄、いのち、そして主の臨在と守り、これが神殿本体を飾るもの、あるいは、神殿本体に象徴されるものであった。まさに、神ご自身がおられる場に相応しいイメージである。そういう意味で、新約聖書においては、私たち自身が神の宮なのだと教えられている(2コリント6:16)。私たち自身が主の繁栄といのち、そして主の臨在と守りの象徴であるとされる。実質はそんな者には程遠いかもしれない。しかし、そうであればこそ神の栄光が現れることを期待したいものだ。ダメな者はダメだではなく、土の器に主の宝がもられることを覚えたい。そのように、日々、整えられ、完成させられていくことを願い、信仰を持って祈ることにしよう。

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