日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

言葉だけの「マーケティング」に、踊らされていないか?

2019-07-16 20:47:29 | マーケティング

先日、日経新聞のコラムCOMEMOを読んでいたら、「ごもっとも!」というコラムがあった。
拙ブログでも何度もリンクを貼らせていただいている、大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムだった。
COMEMO:なぜ企業の力がよわまっていくのか

池永さんが書かれている通り「市場の現場」を無視して、市場戦略(=マーケティング戦略)などたてられるはずもないのだが、何故か日本ではそれができてしまう。
出来てしまう背景にあるのは「データ」だ。
もう一つあるのは、過去の自信だろうか?

昭和から平成に変わろうとしている頃、日本はバブル経済の崩壊が静かに始まりつつあった。
そして本格的に平成という時代が活動をし始めた頃、崩壊しつつあったバブル経済が、ガラガラと音を立てて崩れていったのだ。
その後続く低迷期に起きたことの一つが「iPhone」の登場のような気がしている。
ご存じの方も多いと思うのだが、AppleのiPhoneが登場した時日本のメーカーの幹部たちは一応にして「このような技術は、当社も持っている」という趣旨の言葉だった。
問題は「社内にある技術」ではなく、社会の変化、生活者の意識の変化(=市場変化)をとらえることができずにいた、ということなのだ。
しかし、多くの日本のメーカーの幹部たちは、市場の変化などには目を向けることなく、技術的なことばかりに注目し、「当社でも作れる技術」と言ってしまったことなのだ。

そもそもマーケティングの一番の目的は何か?ということに対して、コトラー(だったと思う)などは明快に「社会や生活者の問題を見つけ、解決すること」と言っている。
社会や生活者の問題は、データに反映されているのか?と言えば、決してそうではない。
企業の多くが実施する調査の多くは「満足度」などを測る調査だ。
それは「顧客満足度を測る」という点では有効だと思うのだが、「顧客満足度を測る=顧客の不満点を見つける」という発想に、結びついていないのが現状なのではないだろうか?
何より、市場が動いている現場に行かずに、市場の動向が分かったつもりでつくられた戦略など、現実には戦略と言えるほどの内容は無いはずなのだ。
それが池永さんが書かれている、「実感を伴わない、迫力が無い戦略(=マーケティング戦略)」ということに、なるのではないだろうか?

もう一つ池永さんが指摘しているのが、「どこでも使える」マネージメントツールやフォーマットだ。
拙ブログでも何度も指摘させていただいているが、何故か日本の企業はマーケティングに「How to」を求めてくる。
「他社で成功した企画であれば、失敗するリスクは少ないだろう」そのためのノウハウの提供を期待しているのだ。
しかし、そのような過去の成功例を真似したところで、生活者には新しいワクワクや感動を与えることなどできない。
にもかかわらず、それを期待しコンサルティング会社などに要求してしまう。
コンサルティング会社にとって、これほどうまみのある仕事は無いだろう。
何といってもクライアントとなっている企業は、自ら「マーケティングとは何か?」ということを、考えることを止めてしまっているのだ。

COMEMOにも、「マーケティング」という言葉を数多く見ることができる。
もちろん、そのようなコラムも拝読させていただくのだが、耳障りの良い「〇〇マーケティング」と称しながら、マーケティングの本質とはなにか?ということを感じられないモノもある。
今だに「マーケティング」そのものが、「ビジネスの鵺」のような「正体不明」な印象を与えるのは、私たちマーケターの責任でもあるとは思うが、企業(起業)側もまた、「儲けるノウハウ=マーケティング」だという思い込みがあるように思えてならないのだ。


ステークホルダーとは、どんな人達だろうか?

2019-07-14 22:02:08 | ビジネス

「ねっとらぼ」というニュースサイトがある。
ニュースサイトと言っても、新聞社やテレビ局が報道するニュースではなく「気になる、人に話したいネットの旬のネタ」を提供しているサイトだ。
その「ねっとらぼ」に、「ステークホルダーと企業の関係」の好例があった。
ねっとらぼ:元バイトに対するCoCo壱番屋の神対応が話題
      「結婚式で商品を使いたい」→「おめでたい話なので代金はいらない」

記事の内容そのものは読んでいただくとして、この内容は「企業とステークホルダーとの良好な関係」をよく表している。

「ステークホルダー」と言ったとき、どのような人を思い浮かべるだろうか?
一般的には「ステークホルダー=企業との利害関係者」と訳されることが多い為、「ステークホルダー=株主、取引企業」などを思い浮かべられる場合が多いのではないだろうか?
確かに「利害関係者」となると、株主や取引先企業が真っ先に思い浮かぶだろう。
取引先企業と言っても、下請けや孫請けなどではなく、販売先や仕入先、時には銀行などを思い浮かべられるかもしれない。
しかし、ドラッカーは「ステークホルダーとは、企業を取り巻くすべての人達である」と、言っている。
すなわち、顧客や販売先や仕入先、銀行、株主はもちろん、下請け、孫請けだけではなく、従業員や従業員家族、アルバイトに至るまで、「企業が社会に存在するために、関わる人総てがステークホルダーである、ということなのだ。
今回の「バイト学生もまた、ステークホルダーの一人である」ということなのだ。

実際この元アルバイトさんは、インタビューの最後に「今はお客としてCoCO壱番屋の大ファン」と言っている。
アルバイトとして勤めていた学生が、今では顧客となっている。
この元アルバイトさんのお子さんは、未来のCoCO壱番屋の顧客となる可能性は高く、親子でCoCO壱番屋の顧客になることでCoCO壱番屋はこの元アルバイトさん一家にとって「親密度が高い企業」となっている。

もし、この元アルバイトさんが学生時代CoCO壱番屋で嫌な思い出しかなかったら、(大切な)結婚式のサンキューギフトとして、CoCo壱番屋のゼリーを選ぶことは無かっただろう。
何より、元バイトさんはアルバイトという立場でありながら、CoCo壱番屋に対して「信頼ができる企業」という位置づけをしている。
これは、とても重要な点だ。
「企業における社会的信頼」というものは、一朝一夕で出来上がるモノではない。
使用者側が労働者側に対して、信頼関係を結ぶ努力をした結果であり、使用者側が労働者側に対して「使用者側のいうことは当然」という態度ではなく、一緒に働く仲間として良好な関係作りの努力をしてきた結果だ。

「ステークホルダー」の中でも見過ごされやすい、「働く人とその家族」に対して信頼関係を結ぶことができる企業は、社会からも信頼される企業となる、ということをこのねっとらぼの記事はよく表している。


呼び方に時代の意識変化、それに気づかない人たち

2019-07-12 20:39:28 | ライフスタイル

広告代理店の博報堂が、興味深い調査レポートを公開している。
それは、平成という30年にどのような社会変化が起きたのか?という調査から未来を予測する、というレポートだ。
レポートの一つに「家族のユニット化」が進んだ時代が、平成という時代でもあった、という興味深いレポートがある。

博報堂生活総合研究所:家族30年変化 家族は今プロジェクトへ 潮流1「家族のユニット化」

このレポートを読む前に、既婚男性にお伺いしたい。
「あなたは、奥様のことを何と呼んでいますか?」と。
おそらく昭和という時代に結婚をされた方の多くは、「ママ」あるいは「おかあさん」と呼ばれているのではないだろうか?
お子さんに恵まれなかった方は、奥様の名前で呼ばれている方もいらっしゃるとは思うのだが、お子さんがいらっしゃる既婚男性の多くは「ママあるいはおかあさん」と呼んでいらっしゃるのでは?

この傾向は、2000年に入ると大きな変化を見せる。
「ママあるいはお母さん」ではなく、奥様の名前を呼ぶ既婚男性が増えてくるのだ。
この調査が行われた2018年になると、「ママあるいはおかあさん」という呼び方から、名前を呼ぶ既婚男性の方が多くなる。
今の20代、30代の既婚男性は、子供の有無とは関係なく「名前+さん(あるいは、ちゃん)」で呼ぶ人のほうが多くなっているのだ。

このような調査レポートを見て、ある一定年齢の男性からは「家族の絆はどうなっているんだ!」という声が、出てきそうな気がする。
「パパ・ママ」という呼び方は、子供が生まれたことによって「〇〇さん(あるいは〇〇ちゃん)」から「パパ・ママ」へと変わり、それが一つの「家族」というイメージを持たせることになっている、と思い込んでいるのでは?と、感じることがあるからだ。
しかし、夫婦であっても名前で呼び合うことと「家族である」という意識とは全く別である、という考えのほうが今は主流になりつつあるのではないだろうか?

例えば、徳仁天皇陛下は記者会見などの公的な会見の時でも、皇后陛下のことを「雅子」と呼んでいらっしゃる。
最新の著書「水運史から世界の水へ」の中でも、「妻の雅子にも感謝の気持ちを伝えたい」と、謝辞の言葉を書いていらっしゃる。
ご家庭内では「パパ・ママ」なのかもしれないが、公的な会見や著書の中で個人としての名前を書かれている、というのは天皇家という一般的家庭とは違う環境であっても、社会的意識変化のあらわれと、とらえる必要があるのでは?と、思うのだ。

だが、今だに「結婚をしたら、子供ができて一人前」とか「女は出産して、初めて婚家から嫁として認められる」的な、古い意識の方も現役として活躍をされている。
実際、自民党のある議員さんは、女性候補者の応援演説で「一番大きな功績は、子どもを作ったこと」と発言をして、ニュースなどに取り上げられている。
Huffpost:自民党の三ツ矢憲生議員、現職の女性候補者に向かって「6年間の一番の功績は、子どもをつくったこと」

この種の発言を繰りかえす男性をみると、「時代感や社会的変化が分からない人」という印象を持たれるだけだと思うのだが、呼び名一つにも変化が起きている、という事実から「今社会がどのように変化し、生活者の意識を変えているのか?」という、感覚と思考を持たなくては、未来を語ることはできないのでは?
その意味でも、既婚者のパートナーの呼び名の変化は些細なことかもしれないが、生活者の意識変化としてはとても大きな意味を持っていると思うのだ。




「無料」という落とし穴

2019-07-11 19:08:48 | アラカルト

Yahoo!のトピックスに、「Music FM」追放という見出しがあり、ビックリした。
記事を読んだら、日ごろ私が聞いているFM局ではないことがあり、ホッとしたと同時に様々なことが思い浮かんだ。
CNET JAPAN:APP Storeからの「Music FM」追放を・・日本レコード協会やLINEらがアップルに要望書

APP Storeにこのようなアプリがあるとは知らなかったのだが(スマホで音楽を聴かない為)、記事を読むと10代を中心に人気のあるアプリのようだ。
若い人たちに限らず、人は往々にして「無料」という言葉は好きだと思う。
「無料」だからこそ、受けるサービスもあるのではないだろうか?
言い換えれば「有料だったら、買わない商品・受けないサービス」、ということになる。

しかし「商品やサービス」というものは、提供する側にとって何らかの費用が掛かっていて、「無料」で提供できるものなど無い。
もちろん「お試し」と呼ばれるキャンペーンなどはあるが、それは「販売促進の一環」であって、期限が終われば有料となるのは当然のことだ。
その中で問題となるのは、「サービス」と呼ばれる無形の商品だ。
今回問題となっているのも「音楽」も、CDという形状で販売されることはあっても、今の若い人たちはストリーミングという方法で、音楽を聴く傾向があり、一つの形状として手元にあるわけではない。
だからこそ、「お金がかかる」という意識があまり持てなくなっているのかもしれない。

ただ音楽を創作するということは、何もないところからアイディアを出し、一つの曲というカタチにし、スタジオを借りて、ミュージシャンを集め演奏を何度も繰り返し、その音源を録音するエンジニアがいて、ベストな演奏を選びだすプロデューサーがいる。
これらは全て、人の手がかかりそれに似合うだけの費用(=お金)がかかっているのだ。
このような作業をする人達がいるからこそ「音楽」が、成り立っている。
「無料」ということは、これら音楽を創り出すミュージシャンだけではなく、そこに関わる全ての人に対して「ただ働きをさせる」ということでもある。
そもそもそのような聴き方をしている音楽に、愛着が持てるだろうか?

人はおかしなもので、「ただ働き=無料」で提供されたモノ・コトに対して、大切に扱うという意識はなくなる。
何故なら「価値」というものを考えないし、認めないからだ。
これは音楽に限ったコトではない。
と同時に「無料であることが当たり前」であるという意識があると、そのような人には誰もモノ・コトを与えようとはしなくなる。
「ビジネスとして成り立たない」ということもあるが、そのような人は信頼関係を結ぶことができなくなるからだ。

商業的(=ビジネス的)問題はもちろんだが、このような無料アプリの多くは利用者が知らない間に、利用者の様々なデータを収集し、相手が分からない第三者にそれらのデータが渡っていることほとんどだ。
「個人情報管理」などということが言われて久しいが、このような無料アプリを利用することで、自分の個人情報をダダモレさせている、とは思っていない、ということも問題だろう。

「無料」と謳うモノには、利用者が知らないリスクが数多く潜んでいるだけではなく、「無料」に利用された側には多大な経済的損失を与えることで、文化や経済を破壊している。

もう一つ指摘するなら、JASRACは音楽教室ではなくこのようなアプリに関わるサイト運営者から著作権料を徴収するほうが、遥かに効率が良く膨大な金額が得られると思う。
もっともこのようなサイトの多くは、中国経由(ということは、利用者のデータは中国に渡っていると考えるのが自然だろう)なので徴収そのものが難しいかもしれないが・・・。


「食」と「食卓」で見えてくる、関係性

2019-07-10 18:10:55 | アラカルト

大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムを拝読していて、考え込んでしまった。
大阪ガス・エネルギー文化研究所コラム:【交流篇】あなたはだれと食べますか?

実はこのタイトルを見た時、思い出したのが、この春放送されたドラマ「きのう何食べた」だった。
テレビ東京系でしかも金曜日の深夜枠という時間帯にもかかわらず、高い人気を評価を得たドラマだった。
Tverで見ていたのだが、放送当初言われていた「LGBTQ(主人公は、ゲイのカップル)」というよりも、ごくごく普通の生活者の日々のチョッとした喧嘩や行き違いがありながらも、パートナーを大切にする平穏な日々を描いたドラマ、という評価のほうが多くあった。
このドラマの一番象徴的な場面というのが、主役の二人が「一緒に食事をする」という場面だった。
二人顔を合わせ「いただきます」という、場面はどこかホッと安心ができた。

「家族が一緒に食卓を囲むから、ホッとする」というのではない。
ドラマの中(確か10話だったと思う)で「どんなに関係の深い人でも、許せない人と続けていくのは、しんどいよ」という、台詞があった。
主人公の一人である、美容師のケンジとケンジの父親との関係を表す台詞なのだが、「家族が一緒に食事をする」ということが「しあわせな食卓ではない」ということをよく表していると思う。
やはり食卓を囲む相手は、互いに思いやれる大切な関係でなくては「しあわせな食卓」とはならない、と気づかされた台詞でもあった。

池永さんがコラムで書かれたことは、おそらく「関係性のある食卓」ということなのだと思う。
家族であっても、「許せない」と感じる相手との食卓は、苦痛でしかない。
ただ、食卓を囲むことで「関係が改善する」可能性もあるのでは?という気がしている。
最近社会的問題となっている「中高年の引きこもり」のニュースなどを読むと、家族で食卓を囲むことなく、親が引きこもった子供の部屋に食事を届けているケースがほとんどのようだ。
引きこもる前に「食卓を囲み」様々な話をし、話しを聞くことが、もしかしたら大切なことなのかもしれない。

そして池永さんがより問題視している、今の社会はそのような「食卓を囲む時間」が無くなっていることも確かだろう。
「食卓を囲む」という時間が特別な時間であり、それは家庭に限る必要もないのかもしれない。
食卓に並ぶ料理は特別なものではなく、家庭料理のような「普段の食」のほうが、相手を思いやれる会話ができるだろう。
料理研究家の土井善晴さんは、「家庭料理は、一汁一菜で十分。毎日食べて食べ飽きないことが重要」と言っている。
日々食卓に登場する料理は、インスタ映えなどする必要はない。
大雑把な料理でも、一緒に食べる人と人が笑顔になれることが、重要なのだ。
「食」と「食卓」は、人の関係性を構築する始まりの場所かもしれない。

(と、言いながら私の食卓は、独りなだが・・・一応言い訳がましいのだが、独りでも「いただきます」と「ごちそうさまでした」は、言うようにしている。)

 

 


JASRACの姑息さ

2019-07-08 14:15:18 | アラカルト

「JASRAC対音楽教室」という話題は、2年ほど前世間を騒がした話題だったと思う。
もちろん、世論の多くは「NO! JASRAC」だったように記憶している。
世論が「NO! JASRAC」と言っていたのには、理由がある。
「音楽教室で習う楽曲まで、著作権を必要とするのか?」ただ、一点だ。
そもそも音楽教室に通う理由は、音楽を学びたい、楽器を演奏したい、という動機だからだ。
場合によっては「認知症予防」という目的の方も、いらっしゃるかもしれないが、いずれにせよ素人の趣味と考えても良い範疇の「お稽古事」にまで、著作権を徴収するというのは、いかがなものか?という意見が多数だったように記憶している。

これらの意見に対し、JASRACは一つの策を練っていたようだ。
Huffpost:JASRAC職員、音楽教室に2年間の「潜入調査」 主婦を名乗り・・・訴訟に証人として出廷も

身分を偽って「潜入調査」とは、穏やかな話ではない。
しかも「潜入調査先」は、ヤマハ音楽教室の中でも「おとなの音楽教室」を選んでいる、というのも周到な気がする。
というのもヤマハ音楽教室の中でも「おとなの音楽教室」は、中高年を対象とした音楽教室で、初心者にとっても親しみのあるポピュラー音楽などを練習楽曲としているからだ。
職員の方が入られたクラスが「上級者コース」ということであれば、音大で学ばれた経験のあり、講師の指導や演奏レベル(と言うと失礼だが)も分かる、職員を「潜入調査」させたのだろう。

このJASRACの「潜入調査」について、姑息な手段を取ってでも著作権料を徴収したいのだな~と、感じた方のほうが多いのではないだろうか?
その理由は
1.身分を偽って「潜入調査」をさせている
2.調査をするのであれば、第三者機関のような「中立的立場」の人物にさせるべきである
3.身内の調査(=公平性に欠ける調査)を「公平性のある調査」と考え、公の場で証言させる考えを持っている
などがあげられると思う。

実際、「おとなの音楽教室」でレッスンを受けていた職員の発言には、疑問な点が多い。
上級クラスの講師であれば、プロとして活躍できるレベルの技術と指導力が無くては、教室運営などできないはずだ。
当然、講師が手本として演奏する内容は、「公衆が聞き惚れる」くらいでないと問題だろう。
そして、生徒が「全身を耳にして、講師の演奏を聴いている」というのは、レッスンを受ける側として当たり前なのでは?
個別の技術的指導だけではなく、演奏の間など技術的指導だけでは分からない部分を身に着ける為には、レッスンを受ける側の姿勢としてはそのような聴き方をするだろうし、熱心な生徒さんほどそのようになるのではないだろうか?

このような「(音楽教室などでのレッスンを含めた)演奏には、著作権料が発生する」というJASRACの考えは、日本の音楽産業だけではなく音楽という文化を豊かにするのだろうか?
youtubeでは、ショッピングセンターや街の広場に置かれたピアノで、ピアノ演奏をされる方の動画がアップされることがある。
このような動画を見るたびに「音楽が身近にあり、楽しめる社会の豊かさ」を感じる。
そのような「社会の豊かさ」を育てるのではなく、芽を摘むような行為をJASRACはしているような気がするのだ。


Amazonの生き残り策

2019-07-06 20:38:04 | ビジネス

経済紙のWEBサイトを見ていたら、興味深い内容があった。
マネー現代:小島健輔が警告「アマゾン撤退でわかった、ECバブルは崩壊する」

ややセンセーショナルなタイトルだが、内容としてはとても興味深い。
日本におけるAmazonの経営を圧迫しているのは、物流コストということのようだ。
確かに、一昨年問題となったヤマト運輸の労働環境はヤマト運輸だけの問題ではなく、日本の物流業界全体の問題でもあった。
低コストに支えられた物流業界そのものが、破綻するのでは?という、懸念が社会的に認知された大きな出来事でもあった。
その後どれほど改善されたのか?という点では、疑問が無いわけではないが、数多くの商品の物流コストを「無料」としていたアマゾンとすれば、利益を大きく減らす要因になったのでは?ということは、想像ができる。

そしてこの記事でも取り上げられている「ZOZOTOWN」についても、ここ2,3ヶ月経営面ではあまり良い話を聞かない、という印象がある。
ZOZOTOWNの出店している、アパレルメーカーさんが次々と撤退を表明し始めたのは、昨年の夏ごろだっただろうか?
撤退をするアパレルメーカーさんたちは、「自社の顧客とZOZOTOWNの顧客層が違っていた為=ZOZOTOWNに出店するメリットが感じられない」ということだったのだろう。
今やECサイトに出店すればモノが売れる、という時代ではないのだ。
そう考えれば、この「ECバブルは崩壊する」という見出しは、それなりに説得力がある。

ただ、アマゾン自身も手をこまねいているわけではない。
おそらくこれから先、アマゾンが力を入れていくのは、映像のストリーミング事業なのではないだろうか?
ご存じの方も多いと思うのだが、アマゾンは「AmazonPRIME」という、独自の映像配信事業を展開している。
先駆けとなったNetflixは、「ROMA/ローマ」という作品で今年アカデミー賞を受賞している。
「ROMA/ローマ」という作品が、大手映画会社ではなくNetflixという映像ストリーミング企業が、米国映画の中でも権威あるアカデミー賞を受賞した、ということ自体が映像ストリーミングが今度拡がっていく可能性の高さを示したのでは?という気がしている。
だからこそ、その後を追うかのようにAmazonも参入しているのだ

この「映像ストリーミング事業」に関しては、Appleなども参戦してきており、iPhoneやiPadのようなIT機器をつくる企業から、ITを使ったストリーミング産業への参入へと変わろうとしている。
そればかりか、元々映画製作をしていたディズニーも「Disney+」という、映像ストリーミング企業を立ち上げただけではなく、21世紀フォックスを傘下に収めることで、ディズニー作品だけではなく21世紀フォックスが制作した映画なども映像ストリーミングができるようにしている。
「Disney+」が、実際どれほどの作品をストリーミングとして配信するようになるのかは、不明だが映画館で見逃した映画をストリーミングで楽しむ、という時代は近いと考えても良いと思う。

日本では、本格的な「映像ストリーミング企業」という動きは目立っていないように思えるのだが、おそらくアマゾンも「AmazonPRIME」を充実させることによって、ECサイト以外の収益をあげ、将来的には映像ストリーミング事業がメインになっていくかもしれない。
何故なら、映像ストリーミング事業はECサイトと違い、在庫を持つ必要が無く、上述したように運送料を考える必要が無いからだ。

日本の場合、米国ほど映像ストリーミング事業が上手くいくのかは、分からない。
ただこれから先、アマゾン自身はECサイトから脱却しようとしているのでは?と、感じるのだ。


セブンイレブンの強気さは、どこにあるのだろう?

2019-07-04 20:43:56 | ビジネス

今月7月からスマートフォンで支払いができる、決済システムをファミマとセブンイレブンの2社がサービスを開始した。
日ごろからコンビニを利用する人にとっては、スマホをかざすだけで決済ができると、期待が高かったのか?サービス開始時にはサーバーがダウンしてしまったようだ。

ITmediaNews:コンビニ2社の独自決済サービス、初日は使えない状態が続く「想定以上のアクセス」で ファミペイとセブンペイ

アクセスが集中し、一時的に使えなくなった、というのはそれだけ期待値が高く、利用をしてみたい!と思った生活者が多かった、ということになるのだが、その後の違う問題が発生したようだ。

ITmediaNews: 「7Pay」で不正アクセス被害「クレカから勝手にチャージされた」報告相次ぐ 運営元はID・パスワード変更を推奨

ファミマ系ではこのような報道がされていないコトを考えると、どうやら「7Pay」だけの問題のようだが、運営元の対応に驚いている。
確か今日のお昼ぐらいのニュースでは、相当額の被害が発生しているという報道があったからだ。
このような事態は生活者に与える被害が大きい為、一時的にサービスを停止し、不具合を修正し正常稼働を確認してから、再開の発表をすると思うのだが、ユーザー側にID・パスワードの変更を求める、という対応はいかがなものだろう?
流石に、問題が大きいと思ったのか?この後、チャージの停止を発表しているが、時すでに遅し感があるのは、私だけではないと思う。

このニュースに限らず、セブンイレブンそのものが、どこか強気な態度を感じることは無いだろうか?
ここ2,3年で問題となっている、「コンビニオーナー対セブンイレブン」との関係にしても、「(どのような状況であっても)24時間営業をしなくてはならない。できない場合はペナルティーを科す」というような、発言や態度が目立つ。
それはあたかも「セブンイレブン本部は正しい。フランチャイザーであるコンビニオーナーは間違っている。コンビニオーナーを世論も間違っている」的な態度がみられる。
他にも、「(抵抗する?)オーナー潰し」のような、同じセブンイレブンを近隣に出店させるなど、その考え方そのものにも疑問を感じる生活者は多いようだ。
にもかかわらず、セブンイレブン側はなぜそこまで強気な態度なのだろうか?

一つは小売り業の中でも成長が著しかったコンビニ業界の雄である、という自負だろう。
それだけではなく、元々親会社であったイトーヨーカ堂を飲み込むほどの売り上げを上げてきた、という自信もあるのかもしれない。
しかしそれらの売り上げは、セブンイレブン本部が挙げてきたものではなく、フランチャイザーとなっているコンビニオーナーさんたちが寝る間も惜しんであげてきた数字なのだ。
確かに「経営指導」という名の、本部社員による指導の成果もあるのかもしれないが、ここ2,3年ニュースなどで伝えられるセブンイレブンに関するニュースでは、本部の指導などよりもコンビニオーナーさんたちの努力の賜物による数字という印象しかない。

言い換えれば、今のセブンイレブンにはコンビニオーナーさんやそのコンビニを利用しているユーザー、生活者に対して「感謝」というか、信頼関係をつくる努力をしていないように思えるのだ。
そして、このような「強気な姿勢」が続けば、生活者からだけではなくセブンイレブンに関わる数多く企業からも、ソッポを向かれるのでは?
それが分からないとすれば、企業として問題は根深いものだと言わざる得ないと、考えている。


広告には、社会を変える力があるかもしれない

2019-07-03 14:25:49 | マーケティング

フランスのカンヌと言えば、多くの人にとって「カンヌ映画祭」を思い浮かべられると思う。
実は、カンヌにはもう一つ大きなフェスティバルが開かれている。
それが「カンヌライオンズ」と呼ばれる、世界最大級の広告フェスティバルだ。

この「カンヌライオンズ」に出品される広告は、映像だけではなく確か紙媒体による広告も含まれていたと思う。
そして今回デザインの部門で金賞を受賞した作品について、Huffpostが記事を掲載している。
Huffpost:偉大な女性に、蛍光ペンでハイライトを。カンヌライオンズで金賞をとったアイディアとは

この広告を製作したのは、DDBという米国の広告代理店のドイツ・デュセルドルフ支社だ。
DDBという広告代理店は、現実と大きく違うイメージ広告が中心だった米国自動車の広告表現に、一石を投じた「ノン・グラフィック」という手法で、一躍有名になった企業だ。
「(事実を)的確に生活者に伝える広告」考えは、その後の広告業界にも大きな影響を与え続けている。

今回デザイン部門で金賞を受賞した「偉大な女性に、ハイライトを当てて」は、過去、正当な評価を受けることができなかった女性たちにスポットライトを当てる、という内容になっているのだが、広告として言いたかったのは「過去様々な偉業と呼ばれる出来事があり、それは様々な人が集まってできたこと。誰か一人の手柄ではない」ということを訴えることで、「公平さ」ということを受け手となる生活者に考えよう、ということのように感じたのだ。

Huffpostでは紹介されていないが、Brand Experience & Activation部門で銀賞を受賞した、資生堂 "My Crayon Project" (R/GA Tokyo)も、改めて「個性を尊重する」という基本的なことを示しているように感じる。
「あなたの肌の色は?」と訊かれた時、あなたは何と答えるだろう?
おそらく多くの日本人は、「肌色」と答えるはずだ。
しかし答えた「肌色」という色は、「私の肌の色」であり、質問をした「相手の肌の色」ではない。
市販されているクレヨンの「肌色」は、「私の、そしてあなたの肌の色」ではないのだ。
ただ「肌色」と言う言葉には、一人ひとり微妙に違う「肌の色」であっても、皆等しい存在であり個性を持っている、というアプローチは、実に日本的であり、「肌色」という言葉の持つ意味を改めて考えさせる。

今回フィルム部門でグランプリを受賞したのは「ニューヨークタイムズ紙」の「The Truth Is Worth It」のシリーズだった。
ニューヨークタイムズ紙らしい広告表現だと思う。

一連の受賞作品を見て感じることは、「広告には社会の意識を変える力がある(のでは?)」ということだ。

※カンヌライオンズ2019、フィルム作品については↓のサイトからご覧ください。
宣伝会議:カンヌライオンズ2019、フィルムグランプリはNY TIMES「The Truth Is Worth Is」

資生堂の「My Cryone Porject」の映像は↓





キム・カーダシアンの老獪なビジネスプラン

2019-07-02 17:53:37 | ビジネス

同じ人物が起こした出来事で、3日連続で取り上げたことは無いはずだが、今日もキム・カーダシアンについてだ。
予定としては、今日で最後としたい。

今朝、キム・カーダシアン氏が「KIMONO」のブランド名を使用しない、と発表をした
WWDJapan:キム・カーダシアンが自身の下着ブランド「キモノ」の名称変更を発表 SNSでの批判を受け

一連の関連となるエントリのはじめとなった6月30日で、「炎上商法では?」という指摘をさせていただいたのだが、本当に「炎上商法」だったようだ。
何故なら、新ブランドの発表が6月の下旬。発売が7月。
これほどの短期間で、社会的に自分のブランドを印象づけ、販促をするとなると膨大な宣伝費用が必要になる。
逆に、炎上でも何でもよいから認知度をあげる為には、センセーショナルな手段がどうしても必要だったはずだ。
その騒動から発売する7月に合わせて、ブランド名の変更の発表。
全てのタイミングが、良すぎるのだ。
だからこそ、人の心を逆なでるような方法であっても、知名度を上げるために「炎上」という方法を取ったのでは?と、思ってしまうのだ。

そして今回の「新ブランド名を『KIMONO』ではなく、新たな名前を付ける」という発表についても、「なるほどな~、SNSで非難を買い、自分の至らなさを強調することで、恩を売ったような幕引きをしてきた」という印象と、肝心な「KIMONOについての商標登録の取り下げ」をした「英断を下した」ような見せかけの表現で逃げた、ということが彼女がInstagramに掲載した文章からも、良く分かる。

Instagramに掲載した内容は、以下の通り。

「起業家として自分の力で成長し続けることは、私の人生において最もやりがいのある挑戦の一つです。これまでそれを実現できたのはファンや皆さんとのダイレクトなコミュニケーションがあったからこそ。私は常に耳を傾け、学び、そして成長しています。皆さんから届いた情熱とさまざまな見解に心から感謝します。シェイプウエアブランドの名前を発表したとき、私は考え得る最高のアイデアとしてそう名づけました。私のブランドと商品は、インクルーシビティー(包括性)とダイバーシティ(多様性)が基礎にあり、慎重な検討の結果、新しい名前でソリューションウエアブランドを立ち上げることに決めました。近いうちにお知らせします。いつもご理解とご支援をありがとうございます」

文章をよく読んでほしい、翻訳文ではあるが「商標を取り下げた」とは、一言も書いていない。
逆に、「自分は人の意見を聞き、学ぶことができる常識人であり、人種を超え多くの人達から愛される商品を提供するビジネスパーソンである。間違いを指摘してくださった方に感謝できる人間である」という文になっている。
穿った見方と言われるかもしれないが、掲載をした彼女の文章からはそのような裏を感じ取るのだ。
だからこそ、この発表後日本を中心に「英断である」とか「賢明な判断に感謝」と言う言葉をSNS上で見るたびに、キム・カーダシアンの老獪さを感じてしまうのだ。
何より、このブランド立ち上げの為に「kimono.com」というURLは、既に登録済みであり、おそらく今後このURLを手放す気はないだろう。

今後、米国での商標登録の申請がそのまま認められるのかは、まだ不明だ。
ただ、今回の騒動で日本は多くのことを学ぶ必要があると思う。
一つは、キム・カーダシアンが商標の対象としている分野は「衣装」だけではなく、「靴やバッグ、アクセサリー」など広範囲であり、それらすべては、着物を着るにあたって必要な道具である、という点だ。
このような関連をする分野にたいする商標登録というのは、日本でも当たり前のことではあるが、どれか一つでも引っかかると着物産業の企業が米国でビジネス展開をすることができなくなる、ということにもなる。

着物産業の中心である反物や帯をつくる産業のいくつかは「(日本の)伝統工芸」として保護されてきたた。
ただ、着物はそれだけで着ることはできない。
帯締めに使われる組みひも、帯留めなどは小さくてもブローチ以上の存在感を持つ、着物や帯を引き立てる重要なアイティムだ。
場合によっては、僧侶が使う数珠なども最近では「お守りブレス」として着用する人が多いが、海外の人から見れば「ストーンブレス」となるだろう。それらは当然のことながら「アクセサリー」という範疇でとらえられるはずだ。

日本の企業が中国へ進出しようとしたとき、既に使いたい商標が登録され使うことができなかった、という話を度々聞くが、今回の場合、複数の零細な企業の存亡にまで影響を及ぼす可能性もある商標登録だったのだ。
まして着物産業は衰退と言われて久しいが、海外では「着られるアート」のようなかたちで評価が年々高まりつつある。
関連企業、関連団体はこの機会をピンチをチャンスととらえ、日本の衣装文化の情報発信などを戦略的に行ってほしい、と思っている。