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「食」と「食卓」で見えてくる、関係性

2019-07-10 18:10:55 | アラカルト

大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムを拝読していて、考え込んでしまった。
大阪ガス・エネルギー文化研究所コラム:【交流篇】あなたはだれと食べますか?

実はこのタイトルを見た時、思い出したのが、この春放送されたドラマ「きのう何食べた」だった。
テレビ東京系でしかも金曜日の深夜枠という時間帯にもかかわらず、高い人気を評価を得たドラマだった。
Tverで見ていたのだが、放送当初言われていた「LGBTQ(主人公は、ゲイのカップル)」というよりも、ごくごく普通の生活者の日々のチョッとした喧嘩や行き違いがありながらも、パートナーを大切にする平穏な日々を描いたドラマ、という評価のほうが多くあった。
このドラマの一番象徴的な場面というのが、主役の二人が「一緒に食事をする」という場面だった。
二人顔を合わせ「いただきます」という、場面はどこかホッと安心ができた。

「家族が一緒に食卓を囲むから、ホッとする」というのではない。
ドラマの中(確か10話だったと思う)で「どんなに関係の深い人でも、許せない人と続けていくのは、しんどいよ」という、台詞があった。
主人公の一人である、美容師のケンジとケンジの父親との関係を表す台詞なのだが、「家族が一緒に食事をする」ということが「しあわせな食卓ではない」ということをよく表していると思う。
やはり食卓を囲む相手は、互いに思いやれる大切な関係でなくては「しあわせな食卓」とはならない、と気づかされた台詞でもあった。

池永さんがコラムで書かれたことは、おそらく「関係性のある食卓」ということなのだと思う。
家族であっても、「許せない」と感じる相手との食卓は、苦痛でしかない。
ただ、食卓を囲むことで「関係が改善する」可能性もあるのでは?という気がしている。
最近社会的問題となっている「中高年の引きこもり」のニュースなどを読むと、家族で食卓を囲むことなく、親が引きこもった子供の部屋に食事を届けているケースがほとんどのようだ。
引きこもる前に「食卓を囲み」様々な話をし、話しを聞くことが、もしかしたら大切なことなのかもしれない。

そして池永さんがより問題視している、今の社会はそのような「食卓を囲む時間」が無くなっていることも確かだろう。
「食卓を囲む」という時間が特別な時間であり、それは家庭に限る必要もないのかもしれない。
食卓に並ぶ料理は特別なものではなく、家庭料理のような「普段の食」のほうが、相手を思いやれる会話ができるだろう。
料理研究家の土井善晴さんは、「家庭料理は、一汁一菜で十分。毎日食べて食べ飽きないことが重要」と言っている。
日々食卓に登場する料理は、インスタ映えなどする必要はない。
大雑把な料理でも、一緒に食べる人と人が笑顔になれることが、重要なのだ。
「食」と「食卓」は、人の関係性を構築する始まりの場所かもしれない。

(と、言いながら私の食卓は、独りなだが・・・一応言い訳がましいのだが、独りでも「いただきます」と「ごちそうさまでした」は、言うようにしている。)

 

 


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