旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

東光寺

2014-05-22 14:44:00 | 三木市
2014年5月22日、東光寺に行きました。
高野山真言宗のお寺で、地元では小屋寺さんと呼ばれています。創建年は神亀年間(724年~728年)と伝えられています。
説明書より、「山号は、姑射山(こやさん小屋山)と称し、僧行基の草創と伝えられている。本堂は永正14年(1517)の墨書がある蟇股より、室町時代中期から末期頃の建立である。構造は、和様を中心とした折衷形式で蟇股、木鼻、紅梁など特徴が見られ、鶴林寺の技法をさらに発展させたものである。室町時代中期頃の折衷形式を考える上で貴重な資料である。」
三木市吉川町福吉261
map
参道





説明書

手水舎

鐘楼
銅鐘は、口径65.2cm、高さ114.1cm、竜頭高21.5cm 安土桃山時代のもので三木市指定文化財です。
三木市Hpより、『当鐘は、播州三木郡東光寺「慶長6年(1601)辛丑年3月26日に「奉鋳」されました。作風については、当時の鋳物師集団「姫路野里の鋳物師」の特徴が見られ、製作者として「平末次」の記銘があります。鐘の保存状態も良く、当時の吉川の歴史を知る上で、貴重な資料となっています。』

本堂
国指定重要文化財です。桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、本瓦葺。













境内社

境内にて

























多宝塔
高さ約13m、一辺4m、兵庫県指定文化財です。
説明書より、「この建物は、多宝塔と呼ばれ、建てられた年代は本堂と同じ室町時代中期である。大正初期の大修理に下層の一部、柱、縁廻りを補修し上層の屋根を鉄板で仮葺した。軸部及び斗拱(ときょう)部、相輪(そうりん)などの主要部分や建具、内部須弥壇(しゃみだん)等は、建立当初のままである。特に、内部須弥壇の格狭間(こうざま)の刳型(くりがた)や絵様彫刻は当時の特徴を表した素晴らしいものである。県下における貴重な資料である。」

階段を登ったところにあります。

階段より











相輪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津神社

2014-05-22 13:50:28 | 三木市
2014年5月22日、三木市吉川町の天津神社にお参りしました。
説明書より、「本堂は、国指定重要文化財で、縁起には延徳4年(1492)建立、桁行一間、梁間二間、一重、入母屋造、妻入り、向拝一間、檜皮葺のもので、蟇股(かえるまた)、手狭(てばさみ)、欄間(らんま)など当時を代表する秀作といえ、木鼻にみられるS字形の線彫は、この地方特有の意匠である。細部の彫刻及び彩色のあとなど保存状況も良く、華やかな印象をあたえる。」
村人が一致協力してつくったという記録も残っています。
2003年に改修工事がなされ当時の彫刻や色調や屋根の桧皮葺(ひわだぶき)等が再現された。
主祭神は、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、天忍穂耳命、熊野久須日命です。
三木市吉川町前田
兵庫県道314号線、上吉川小学校北交差点を南に入って200mのところです。





説明書

鳥居と神門





境内から

燈籠



馬の像
昔、祭りなどの時、馬を連れてきて、「馬駆け」という行事が行われていました。しかし、ある時から、本物の馬を連れてこれなくなって、この馬の像をつくりました。

手水舎

拝殿の狛犬



拝殿の瓦



本殿

狛犬





蟇股

側面



境内社



境内にて

境内の土俵、祭りのときに使うそうです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法光寺

2014-05-21 09:16:47 | 三木市
2014年5月20日、法光寺に行きました。兵庫県道354号線、吉川高校の南に少し坂道の道路をまっすぐです。
駐車場の前に、山門があり、仁王像が立っています。そこを抜けると燈籠が並ぶ参道の奥に本堂があります。
説明書より、「仁治3年(1242)等の縁起には、白雉2年(651)法道仙人開創と伝えられる。本尊は阿弥陀如来座像、寺歴は古く、吉川上庄の別当職をつとめ修験し、念仏、南朝の関係、領家万里小路(までのこうじ)家とのつながりなどを示す資料がある。」
本堂は、天正七年(1579)三木の合戦に際し、秀吉の兵により焼失したとされ、後、元禄(1688)念中に住僧宣雅(中輿第一世)により再建、享保二十年(1735)に灰儘となり、元文五年(1740)四月に完成。本来、西面の伽藍を東面とし、山門も現在の場所に移建された。十八世紀頃の密教系五間堂を知る為に価値があるとされています。
三木市吉川町法光寺42
map

山門



仁王像
仁王像は木像(檜材寄木造)御丈約八尺・作者年代は不詳・室町時代の作とも伝えられています。



燈籠

手水舎

説明書

本堂













香炉、天保5年(1834)3月に奉納されたもの

説明書
このお寺は、弘法大師(お大師さま)を宗祖し、高野山金剛峰寺を総本山とする高野山真言宗のお寺です。

境内にて















沙羅双樹

菩提樹

多羅葉

山もみじ

不動明王

蓮池

南無観世音菩薩

五輪塔は、県指定重要文化財(昭和47年3月24日指定)です。
説明書によると、「供養塔として建立されたものである。高さは二メートルで砂岩質の石造である。各部の均整がよくとれ、容姿も堂々としており、県下においても大変貴重なものである。造立年代は不明であるが、形式から室町時代初期のものと推定される。」



隣にありました。

銅鐘は三木市指定文化財です。
説明書によると、
口径64.1cm、高さ112.6cm、竜頭高20.8cm 安土桃山時代
『鐘の銘文には「播州三木郡吉河庄湯河山法光寺常住」鐘として、慶長6年(1601年)辛丑年12月2日に「奉鋳」されました。作風については、当時の鋳物師集団「姫路野里の鋳物師」の特徴が見られ、「藤原政雅家」、「平末次」という製作者二人の記銘があります。保存状態も良く、当時の吉川の歴史を知る上で、貴重な資料となっています。』




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善祥寺

2014-05-20 16:57:13 | 三木市
2014年5月20日、善祥寺(ぜんじょうじ)に行きました。
この寺は、孝徳天皇の白雉2年(651)、法道仙人の開祖と伝えられ、当時は一山諸堂宿坊が甍を並べて壮麗を極めたが、天正年間、三木合戦のときの兵火に遭い消失した。その後、再興され幾多の修理と再建を経て現在に至っています。境内の古い鎮守社(1間社春日造、芽葺)は、県の重要文化財に指定されています。
所在地が地名にもなっています。蓮を300種類くらいん栽培しているので、7月中旬にいけば、花を見ることができます。紅葉の季節もいいと思います。
三木市口吉川町善祥寺27-1
map

説明書

手水鉢

本堂



鐘楼

境内にて









十三重塔

鎮守社
兵庫県重要文化財です。
説明書より「一間社、春日造り、一間の向拝付、屋根は草葦である。向拝は江戸末期のものと思われるが、母屋は古いところがよく残っている。柱、斗拱(ときょう)その他に古材が保存されていて、室町時代中期(約520年前)のものと推定される。加西市法華山一乗寺の護摩堂と同類のものと考えられる。」(昭和42年3月31日指定)











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法輪寺

2014-05-20 16:27:26 | 三木市
2014年5月20日、三木を少しドライブしました。
説明書より「当寺は、人皇第37代孝徳天皇の白雉2年(651)に法道仙人がお開きになった寺で、ご本尊は馬頭観音菩薩であり、当時は、四ケ寺十六坊と七堂伽藍ことごとく備わり、東播の名刹でした。しかるに天正の兵火に罹り、ことごとく焼失したことはまことに遺憾であります。その後、慶長8年(1603)、明石領主池田輝政公が当山の馬頭観音菩薩を尊信し、永代灯明料として米五石を代々の領主から寄進され、明治維新に至るまでは明石藩主の祈願所として、その武運長久、五穀豊熟を祈りました。」
本尊は仏師春日の秀作で重文級です。
三木市細川町垂穂567 ‎
map

本堂



















手水舎

鐘楼

境内にて



















水子地蔵

十三重塔

修行大師

鎮守社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どっこいさん(六地蔵)

2014-05-20 16:03:58 | 三木市
2014年5月20日
説明書
高さ1.3m、幅1.65m、厚さ55㎝の自然石で、その横に横穴式円墳の跡があることから、古墳の天井か蓋石だったらしい。石質はこの付近に多い砂岩だという。表面の上部には35の小座像が四段に並べ刻んである。上から七、九、九、十の像だが、刻みが薄いうえ風化し、形ははっきりしない。下部にくっきりと六地蔵。ビンを六つ並べたようだが、なかには宝珠持錫のものもある。地元の人はこれを「どっこいさん」と呼ぶ。
道路整備にともない、防災公園の現在地に設置していますが、実際は北方約600mの位置にあった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長田神社

2014-05-20 15:52:31 | 神戸市長田区
2014年5月19日、長田神社にお参りしました。
長田神社(ながたじんじゃ)は、旧社格は官幣中社で、神功皇后以来の歴史を持つ名社とされています。生田神社、湊川神社と共に神戸を代表する神社の一つです。
事代主神を主祭神とし、本殿瑞垣内に天照大御神、応神天皇を祀っています。
由緒書によると、「神功皇后摂政元年(201)御神意を受け此の長田の里にお祀りされたと伝える我国有数の名社です(日本書紀記載)。事代主神は皇室守護国土統一の神として宮中八神殿にお祭りされ神話では国護りの神として広く語り継がれています。御神名の『事代』は全ての事柄を知り司りあらゆる業を教え導かれる事を顕し、開運招福、心願成就、商工業の守護神、福の神として篤く信仰されています。」
幣殿、拝殿、東楽所、西楽所、透塀及び門、天照社、八幡社、月読社、出雲大社、蛭子社、松尾社、神門、神符授与所及び附属屋、廻廊及び脇門、神楽殿は国登録文化財となっています。
神戸市長田区長田町3-1-1
map
鳥居、地下鉄長田駅のところ



鳥居

由緒書

手水舎

配置図



神門

廻廊





絵馬殿

長田神社のクスノキ
周囲620㎝、樹高22m

眼鏡碑





大和さざれ石

拝殿











本殿



絵馬願かけ所

説明書



儀式殿



神楽殿



遙拝所

松尾社

月読社

出雲大社

蛭子社

灯篭、名優中村時蔵奉納
中村吉右衛門が昭和13年4月参拝の時に吟ず
「燈籠に父を語るや春の宮」

本殿の北側の燈籠

楠宮稲荷神社

神撫山参拝所

七福神

鳥居の外の参道にあります。







やぐもはし


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平盛俊塚、明泉寺と平知章公墓所、平知章之碑、監物太郎頼賢の碑

2014-05-20 15:12:38 | 神戸市長田区
2014年5月19日、長田神社にお参りしたおりに近隣を歩きました。
平盛俊塚
説明書より、「越前前司平盛俊は、平安時代末期の平の大将で、力優れ、剛勇のほまれが高かった。源平合戦の際、この地近くで陣をしていたが、源義経のひよとせり越えの急襲により源氏方の猪俣小兵六と組み討死にした。その剛勇をたたえ塚を建てたものである。」
神戸市長田区名倉町2-2
長田神社から北側、宮川町9交差点北側の道路右少し行って、橋の手前右に行ったところです。
map
説明書






明泉寺
寺の縁起によると、「明泉寺(通称大日寺)は寺伝によれば天平の昔、行基菩薩が大輪田の泊を改修され、さらに真野の荒野を開墾し、その用水のために西代の蓮池を開掘された。蓮池の水源である上流の地、現在の大日丘に自刻の大日如来の尊像を祀り、明泉の永久に尽きることのないよう祈願されたのが始まりである。大日川、苅藻川の水は長田村、池田村、東尻池村、西尻池村、駒ヶ林村の水田を養い、今日、西神戸という立派な市街を形成するもととなったと思われ、行基菩薩の先見の明による恩沢とも考えられる。」
神戸市長田区明泉寺町2-4-3
map



縁起説明書
「山号は天照山、大日寺、大日さんで知られ牛の寺としても信仰を集めている。天平年間、行基菩薩(668~749)が西代の蓮池を拓かれた際の創建と伝えられ長田村から白川村を経て太山寺へ通じる長坂越東山の古明泉寺大日丘の地にあったが寿永三年(1184)二月七日明泉寺合戦(吉川英治の「新平家物語」に詳しい)に平盛俊が陣を布き義経の来襲に備えたため戦火で焼け、観応二年(1351)赤松判官光範公によりこの地に復興された。また十六歳の知章が父知盛を助けて逃れさせ、討ち死にしたのは当寺の北の谷、モンナ池の辺りで薮の中に塚があったのを神戸史談会会長木村昇三氏等の手によって境内に移し五輪塔として祀っている。」

山門











本堂











狛犬ではなくて龍





境内

手水鉢

佛足石
仏陀の足の裏の形を石に彫りつけたもので、古来より礼拝の対象とされてきた。



石の上に龍

お牛様







灯篭の中に仏様

思出の松

寺崎方堂の句碑
「青嵐ちぎれ雲さへなかりけり」

知章公墓所 境内西北角にあります
平知章は、平安時代末期の平家一門の武将で、平知盛の長男、清盛の孫で、怪力で知られた。享年16の悲劇の若武者です。
参道の史蹟

説明書
平家物語 巻9より
新中納言知盛の郷は、生田の森の大将軍にておはしけるが、その勢、皆落ち失せ、討たれしかば、御子武蔵の守知章、侍に監物太郎由頼方、主従三騎、汀の方へ落ち給ふ処に、ここに児玉党と覚しくて団扇の旗さしたる者どもが、十騎ばかり、鞭鐙を合せて、おしかけ奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手なりければ、取って返し、真先に進んだる旗差が首の骨をひやうっぱと射て、馬より倒に射落す。その中の大将と覚しき者、新中納言に組み奉らんとて、馳せ並ぶところに、御子武蔵の守知章、父を討たせじと、中に隔たりおし並べ、むずと組んで、どうと落ち、取って押さえて首をかき、立ち上がらんとし給う所に、敵の童、落ち合せて、武蔵の守の首を取る。監物太郎、落ち重なり、武蔵の守討ち奉ったりける敵の童をも、討ちてけり。その後矢種のあるほど射盡し、打物抜いて戦いけるが、弓手の膝口をしたたかに射させ、立ちも上らで、居ながら討死してげり。《寿永3年(1184)2月7日》
その後、新中納言知盛の郷、大臣殿の御前におはして、涙を流いて申されけるは、「武蔵の守にも後れ候ひぬ。監物太郎をも討たせ候ひぬ。今は心細うこそまかりなって候へ。されば、子はあって、親を討たせじと敵に組むを見ながらいかなる親なれば、子の討たるるを助けずにして、これまで遁れ参って候ふやらん。あはれ、人の上ならば、いかばかりもどかしう候ふべきに、わが身の上になり候へば、ようは命は惜しいものにて候ひけりと、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思し召さん御心の中どもこそ、恥しう候へ。」とて、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣かれければ、大臣殿、「まことに、武蔵の守の、父の命に代られけるこそありがたけれ。手もきき、心も剛にして、よき大将軍にておはしつる人を、あの清宗と同年にて、今年は十六な」とて、御子う右衛門の督のおはしける方を見給ひて、涙ぐみ給へば、その座にいくらも並み居給へる人々、心あるも心なきも、皆鎧の袖をぞ濡されける。

知章墓

源平合戦勇士の碑
長田区役所北側の川の東にあります。

平知章之碑
説明書より「この附近は、小平六池といわれていた。寿永3年(1184)源平一の谷の合戦で討ち死にした平通盛、源氏の木村源吾重章同じく猪俣小平六則綱(平盛俊を討ち取った)らの碑が、この附近の西国街道に面してあった。後、長田区明泉寺附近で討ち死にした平知章の碑をここに移し、敵味方へだてなく源平勇士の碑としてあわせて弔ったといわれ、つわものどもの夢の跡といった姿である。」

平知章之碑

平通盛碑

猪俣小平六則綱之碑





同じ場所の北側にありました。
阪神淡路大震災の慰霊碑

新道開通記念碑

監物太郎頼賢の碑
地下鉄長田駅の西側すぐにあります。神戸市認定地域文化財(史跡)です。

説明書より「監物太郎頼賢は、中納言平知盛の家臣でした。平家物語によると寿永3年(1184)2月7日、源平一ノ谷合戦で活躍した監物太郎は、主人平知盛とその嫡男平知章の三人で海のほうへ落ちのびようとしていました。その途中で、源氏方の児玉党との戦いになり、主人知盛を助けようとした監物太郎は知章とともに討死にすることになりました。そのことにより知盛はおちのびることができたのです。『摂津名所図会』によると、江戸時代の享保年間に並河誠所が所国行脚の途中、討ち死にの地(長田区明泉寺)に立ち寄り、監物太郎の忠義を称え顕彰するため、西国街道近くの現在の地に石碑を移したということです。」







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有馬温泉街、泉源などいろいろ

2014-05-19 10:23:31 | 神戸市北区
2014年5月16日
有馬温泉街はこじんまりしていて、泉源が近くで見れますし、宿泊前日も見て回って、チェックアウトした後に荷物をフロントに預けてゆっくり回って見ました。
ガイドマップ

ねね橋、始点の★印のところです。

ねね像と有馬の説明書





有馬川、河川敷

湯けむり広場と豊太閤像
太閤橋の西側の交差点のところにあります。



太閤橋

仏座巌
太閤橋を渡ったところにあります。形が仏座に似た巨石であり寛文の時代(1660年代)に洛(京都)の東南・霞谷の竹葉庵の日蓮宗の高僧・元政上人が命名したとされる。



古泉閣泉

金の湯
太閤通から湯本坂にいく途中、すぐにあります。







有馬玩具博物館、金の湯の向い側です。

天神泉源
湯本坂に行く手前、赤い郵便ポストを左に曲がって少し行くと右手にあります。金泉が湧き出る有馬温泉を代表する泉源です。かなり湯けむりを立てていました。





有明泉源
天神泉源を少し戻り、左の階段を登り左の小道を進むと旅篭ホテルの先にあります。



御所泉源
金の湯から湯本坂へ向かって左に足湯があります。そこを右の小道を少し行くとあります。





妬(うわなり)泉源
湯本坂を登って右の小道を入ったところにあります。



銀の湯
極楽寺の南側にあります。

一願不動地蔵
温泉寺の少し北側の小道にあります。岩を彫って像を浮き彫りしています。お賽銭をいれると音楽とお経が流れます。



有馬の歴史の説明書、店に貼っていました。



瑞宝寺公園
ガイドマップの右上のところにあります。
説明書
「瑞宝寺公園は明治6年(1873)に廃寺になった瑞宝寺跡が昭和26年に神戸市の公園になったものである。瑞宝寺は慶長9年(1604)に当地の大黒屋宗雪が開いた瑞宝庵にその緒を発している。」









大弐三位の歌碑
「ありま山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」



石の碁盤
「晩秋 紅葉を賞でている間に思わず終日を過ごしてしまったという「日暮らしの庭」に今なお残るこの石の碁盤は、その昔豊太閤がこれを囲んで心ゆくまで1日の清遊を楽しんだといわれている。」



公園からの景色

地獄谷
ガイドマップの上部中央の少し右
地獄谷の説明書
射場山と愛宕山の間の谷を地獄谷と呼んでいます。ここは数十万年前のときにできた射場山断層で、そこからたくさんの炭酸ガスが噴き出て虫や小鳥などが死んだところに、この名の由来があります。

鳥地獄碑

虫地獄碑

炭酸地獄碑

鍋屋多右衛門彰徳碑、極楽寺と温泉寺の間の小道にあります。

豊太閤の塔、並んでありました。

有馬のマンホール、ありまの文字が入っています。

芸妓変身、三味線体験処
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有馬温泉街の神社

2014-05-19 10:22:59 | 神戸市北区
2014年5月16日
神社、お寺というものは歴史を感じますね。それぞれのところで謂れやさまざまなかかわりでなりたっていると、そして、地元の方達に支えられて成り立っているとつくづく思います。
ガイドマップ

妬の社
湯本坂を登った右手にあります。
妬湯(うわなりのゆ)、説明書「この湯は間欠泉で、湯の量は少なく、最近では昭和30年代に湧出し、現在は湧出していません。この温泉の由来は定かではありませんが、江戸時代の本(摂津名所図絵、有馬手引書、和漢三才図絵)には女子が盛装してこの温泉の前に立つと激しく湧いて止まらないとか、自分の憎い心や悪口を言ってののしればたちまち湧くと記されています。またこの温泉はきりきずの治療に効果があるとも言われています。」



あなむちの神地
湯本坂を登って林渓寺を少し行った右手にあります。
この地は温泉寺の御旅所にして清水湧き出し大己貴神の神地です。一般には水神さん、お旅所として親しまれています。
鳥居

手水舎、猫が留守番していました。

境内の稲荷

水天宮社



雪国神社
水天宮を進むと杖捨坂のの交差点にあります。
由来書より、「有馬稲荷神社神官十五代児玉繁大夫(平信正)が明治40年神無月25日、稲荷大明神の大神さまよりそのお告げを賜り、雪国稲荷大明神と銘記しました。ここ有馬町上之町はカミのチョウの名の如く神之町、当地の中ほどにある水天宮(大己貴神)の神地であります。この町の入口が門の切(モンノキリ)であり、その守護神として雪国稲荷大明神が鎮座し、その献族さまとして時国大明神と石名大明神をお祀りしています。」
鳥居

由来書



地蔵さん、杖捨橋の手前に鎮座

有馬稲荷神社
ガイドマップの中央の上あたりです。
由緒書より、「畏くも当神社は日本第一の神霊泉、有馬温泉功地山(射場山)の中っ処に鎮座します。この有馬いなりはその源わ有馬行宮として約1400年前6世紀に古代国家の創始と共に蘇我氏が藻の物部氏を滅ぼし蘇我馬子は崇峻天皇を媒殺する後、聖徳太子が摂政をとり崇峻天皇の霊を慰めるため有馬行宮で鎮魂祭を執り行われ後舒明天皇が行幸せられ、造営されている。」
道路入口での鳥居





参道



鳥居

本堂





境内の社

有馬いなりの説明書



手水舎

稲荷神社
ガイドマップの上中央より少し右手あたりにあります。かんぽの宿有馬の向い側です。



温泉神社
ガイドマップの中央の右手上の愛宕山の下あたりにあります。
草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命 (大黒さま) と少彦名命 (医薬の神) でした。鎌倉時代に入って、熊野信仰の影響を受け、熊野久須美命も併せて三柱の神を祀るようになり、以後、有馬温泉鎮護三神と呼ばれています。
歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇などの参拝が記されており、また、「延喜式神名帳」(927年) にも有馬郡の大社として数えられています。その後、皇室や武将などから敬われ、有馬の温泉や町を守る神社として栄えてきました。元来は、山麓にある温泉寺 の境内にありましたが、100年ほど前に現在地に移されました。なお、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されています。

鳥居



手水舎

本殿



由緒書

忠魂碑

狛犬



燈籠

境内にて









妙見堂

増富神社
太閤橋を渡った左手にあります。





頌徳碑

天神社
太閤通から湯本坂の途中の赤い郵便ポストを左に曲がって小道をいくと右手にあります。
「金の湯」(旧温泉会館)の北東に隣り合って天神社 (天神泉源)があります。979年に京都の北野天神を分けて祀られたと伝えられ、以来、温泉の泉源を守る神様として崇められてきました。しかし、江戸時代 に二度の大火に遭い、社殿や宝物がすべて焼けてしまいました。石の鳥居や表額は1748年に作られたものですが、これを寄進したのは、芭蕉や其角の弟子として有名で、淡々風の俳句を流行させた半時庵淡々という俳人です。

お牛様







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする