2019年12月25日、愛媛観光の1泊2日で帰路に立ち寄りました。
今治上沿革「藤堂高虎公は1600年(慶長5)関ケ原の合戦に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として1602年(慶長7)より1604年にかけて城壁高さ六間乃至八間を築き、本丸には五層の天守閣、その他には櫓城門等20数棟を配し、三重の城濠をめぐらして、これに海水を導入して、当時としては他に類例のないいー大平城を構築した。また公は家康に信任され1608年、伊勢の津に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命じられた時、献じて亀山城に移築した。その後、今治城は義子高吉が二万石で維持し、更に1635年(寛永12)に伊勢長島より久松定房が入城し、後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。現在の天守閣は1980年(昭和55)10月10日、今治市制60周年記念として再建され、往時の偉容を再現するに至った。」
愛媛県今治市通町3丁目1−3
map
鉄御門
吹揚神社
「往古より今治市内に鎮座していた神明宮、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮の四社を廃藩の際旧社地の故を以て城内に合祀社殿を造営し、1872年(明治5)11月19日遷座旧城名をとり吹揚神社と称す。」
神門
狛犬
手水舎
拝殿
本殿
吹揚稲荷神社
住吉神社・猿田彦神社
麁香神社
土居神社
今治上沿革「藤堂高虎公は1600年(慶長5)関ケ原の合戦に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として1602年(慶長7)より1604年にかけて城壁高さ六間乃至八間を築き、本丸には五層の天守閣、その他には櫓城門等20数棟を配し、三重の城濠をめぐらして、これに海水を導入して、当時としては他に類例のないいー大平城を構築した。また公は家康に信任され1608年、伊勢の津に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命じられた時、献じて亀山城に移築した。その後、今治城は義子高吉が二万石で維持し、更に1635年(寛永12)に伊勢長島より久松定房が入城し、後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。現在の天守閣は1980年(昭和55)10月10日、今治市制60周年記念として再建され、往時の偉容を再現するに至った。」
愛媛県今治市通町3丁目1−3
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鉄御門
吹揚神社
「往古より今治市内に鎮座していた神明宮、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮の四社を廃藩の際旧社地の故を以て城内に合祀社殿を造営し、1872年(明治5)11月19日遷座旧城名をとり吹揚神社と称す。」
神門
狛犬
手水舎
拝殿
本殿
吹揚稲荷神社
住吉神社・猿田彦神社
麁香神社
土居神社
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