はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

3月10日は…

2007年07月30日 | はなし
 東京の今の地に引っ越してきたとき、実家へ帰省する機会があった。それで実家と親戚に東京の饅頭でもとおもい、饅頭屋へ入った。饅頭屋のばあさんにあれこれと饅頭について質問した。ばあさんは、このパッケージは○○という人が発明してこれを使うには使用料を払わねばならぬ、しかしたしかにこれを使うとよく売れる、というようなことを話してくれた。その話がいつの間にか爆弾の話になっていた。どこどこに逃げてどこどこに爆弾が落ちて…というような話だった。
 なぜ饅頭のはなしが、爆弾のはなしになったのか。それが不思議だった。数週間してその疑問が解けた。あの日、僕が饅頭屋に入ったのが3月10日で、その日は「東京大空襲の日」なのだった。そのときまで僕は(そういう日のことを)知らなかったが。ばあさんはあの日、空襲の話をだれかにしたかったのだ。

 しらべてみると、10万人の死者を出した1945年3月10日東京大空襲は深夜0時から2時間の間(感覚的には3月9日深夜)に、東京の東部江東区を中心に行われた。働ける男子は南方や中国へ兵として出ているから、被害にあったのはほとんどが老人・女・子供である。わずか2時間で10万人!
 アメリカ軍B29爆撃機による東京の空襲はその前年1944年11月から始まっている。初めこそ基地や工場がねらわれたが、思うようにいかないこともあってか、アメリカ軍は方針を変更したようだ。民間人の犠牲をかまわず攻撃する無差別爆撃となった。 
 東京の空襲は3月10日だけではないのである。1945年8月の終戦までの間に、東京は130回の空襲を受けている。
 それで、どうやら饅頭屋のばあさんの空襲体験は3月10日ではなく別の日だろう、とおもわれる。このあたりは江東区とずいぶん離れているから。

 中野区に住んでいたいわさきちひろ一家は、5月に空襲で家を失った。それで一家は、母の実家である長野県松本へ疎開したのである。(ちひろ26歳の時)
 空襲の次の日、母と3人の娘は、中野から新宿までの建物がすっかりなくなっている様子をみて、「きれいね…」とのんきに言ったそうだ。

 よく考えてみれば、僕はだれかの口から直接に「空襲」の話を聞くのはその饅頭屋のおばあさんが初めてだった。田舎で育ったのでまわりに空襲の体験者がいなかったのだ。(原爆体験者の話は聞いたことがあったけれど)