浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「独り言」より。

2015-11-15 00:05:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


   ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆


「喜べば喜びごとが喜んで喜び集めて喜びに来る」

私たちはまず喜ばなくてはなりません。
そうすると、喜びごとが喜んでくれるのです。
同じことは否定的な思いを持った時にも言えます。
不平不満、愚痴、そういう想念から行為していると、
不平不満や愚痴が余計に不平不満や言って、そういうものを集めてきます。
幸せになるはずがありません。
べてを喜びに変える方法としては、
あらゆることに関してこの「源ヤン」の思い方をうまく応用することです。
あらゆるものを金に変える錬金術のように、どんなものでも喜びに変えられたならば、
これほど素晴らしい人生の宝はないでしょう。
人生はどんな困難な出来事が待ち受けているかわからないです。
嫌なことを思い方一つ変えるだけで喜びに変えていけます。

ところで、この「思い変え」の法は、実は般若心経の中に説かれている「観自在菩薩」
に通じるものです。「観自在」とは観ることが自在のことです。
菩薩は如来を目指して仏道修行に励んでいる人のことですが、私たちでも正しい教えを学び、
やがては仏に到らせてもらおうというほうに心を向けて実践すれば、みんな菩薩です。
此処に灰皿があるとします。
上から見るとタバコを置く窪みがある面、横から見ると台形で角張った面、
底のほうから見ると丸く調和した面と、一つの灰皿でも見る面を変えることによって、
それぞれ違って見えて来ます。
それらが合わさり、一つの灰皿という立体をなしています。
私たち人間にしても同じで、たいへん嫌な面、角の立った面、
人を見たら突っかかっていく面がある反面、調和された美しい面もあります。
これが人間の心の複雑怪奇さです。
先程述べたように思いの雲が厚くても、反省と作善止悪の行為を積み重ねて、
雲が切れた時、その切れ間から神様の光が差して来ます。
完全に心の曇りが晴れれば魂の器を神の光が貫き、神の御心と同じになります。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-11-14 00:05:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


   ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆


何事が起きてもわるく見る見方と、喜びに見る見方とがあります。
いちばんわかりやすく参考になるお話をします。
東大阪に明治の初期に生きた「結構の源ヤン」という方がいました。
何事があっても「ああ、結構やないか、結構やないか」とおっしゃって、
決して愚痴や不足不満を言われなかったということです。
或る年、毎日毎日雨が降り続きました。

当時、「土方殺すに刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい」と言われたものでしたが、
その頃は日雇い労働者の人は三日も仕事がなければ食べていけない状態でした。
それが一か月から雨が降り続いたそうです。
そこで、源ヤンの友達が「いかな源ヤンでもこの雨にはまいったことだろう。
結構とはよう言わんやろうなあ。
何と言うか聞きに行こう」と言って、源ヤンの家に出掛けていったそうです。
「ごめん、源ヤンおるか!」と奥に呼びかけると、「ハーイ」という声とともに出てこられました。
「かなわんなあ、これだけ降ったら」と言いますと、「ああ結構やないか」と言われたので、
友達があきれて、「何が結構やねん」と聞きますと、
「お前らよう考えてみ。これだけ降る雨を、もし神さんが三十日間天で受けてくれはって、
一杯にたまったのを一片にまとめてぶちあけられたら、家も田圃も皆流されてしまう。

ようこんなにうまいこと何日にも分けて降らしてくれたもんや。神様は何と結構なお方や」
と言って喜ばれたということです。
雨続きでもう食べてはいけない状態であっても、そのことを嘆く代わりに、
一度にためて降らしたらたいへんな被害になるのに、
うまいこと分けて降らしてくれるとは神様はありがたいなあと思いを喜びのほうへと変えてしまうのです。
結構の源ヤンと呼ばれたこの方は、後に東大阪一の結構な人になられました。
大阪では有名な話です。


                    ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-11-13 00:16:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                  その人よりも自分が愚かとなる◆


先の続き・・・

ここで思いを変えることさえできれば、苦しみの原因をつくらないばかりか、
「想」の次の「行」を賢明に行う結果としてまた新たな認識(識)を身につけ、
さらに高い魂の境地へと段階を昇ることができます。
正見、正思、正語、正業の実践の大切さがわかります。
己の思いを高く高く持しつつ、それを行いに表現してゆく。
そのときにその経験を通して魂はだんだんと成長がし、大人になっていきます。
いつもいつも同じパターンの思考回路で行為を積み重ねていても、
それは習慣の域を出ません。
魂の進歩は望めません。
思いの癖が取れないということは、
この世に生まれた目的である心の癖の修正という魂の修行が進まないということです。

それならもう生きていてもしようがないのですが、
神様は太陽のごとくに平等な愛をもって黙って見守られて、
その方の目覚めをひたすら待ち望んでいらっしゃるのです。
一人一人が等しく神の愛し子であることに変わりはありません。
生きる上での困難は、大切な魂の修行のために必要なことです。
そこでは闇の中へと迷いこんで不幸になるとか、
それとも明らかな智慧の光でその闇を照らしてこの肉体にとらわれずに
魂を進化させていけるかどうかの分かれ道に私たちは立たされます。
この明らかな智慧が法といわれています。
つねに法の言葉を聞いて素直に実践していれば、
この世の人生修業においてもいくつもの難事を切り抜け、
やがて迷わずに正しい生活の中に入りきり、心の安らぎを得るとともに
幸せな暮らしにも恵まれていきます。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-11-12 00:52:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                    その人よりも自分が愚かとなる◆


先の続き・・・

提婆達多(ダイバダッタ)という人は生涯お釈迦様を目の敵にし、
あの手この手で評判を落とそうとしたり、命を狙ったりしました。
街頭にいた貧しい妊婦に金を与えてお釈迦様が孕ませた子だと街中を触れ回らせたのも
その一つですが、お釈迦様はこれを捨て置き、何ら弁明はしませんでした。
もちろん、こうした悪意からの卑劣な行為は天に向かって唾を吐くことになりますから、
神様が罰を当てなくとも、結果は自分に戻ってきて哀れな最期となって当然です。
ここでもしお釈迦様が相手に反応してしまったならどういうことになったかは想像に難くありません。
自分の心を苦しめてはなりません。

まして自分に非がないのに相手から喧嘩を仕掛けられて、それに心を動揺させたら丸損になります。
提婆達多とまったく同じような人が私にもありました。
私を目の敵にし、なんとかして評判を落とそうと、卑劣にもまったく事実無根のありと
あらゆる悪意を尽くした作り事を十年間言いふらしてくれました。
私もただの凡夫ですから、弁明や抗議の一つもしたくなった時もありましたが、
いっさい捨て置くことにしました。
今から三年前、その人は全身マヒで口も聞けず、手足も動かず、
意識だけはハッキリしている生き地獄の中で死さえゆるされずに生きているようです。
近づく人もなく、やせ衰えて見る影もない哀れな姿だということです。
自らの行為を反省され、神の愛し子として目覚められることを祈るばかりです。
先程は五蘊の説明をしましたが、人間には肉体を持ったがために避けられない困難や苦悩
がついて回ります。「色受想」までの段階で生んだ迷いを、そのまま「行」すなわち行為に
もたらしてしまうまた罪をつくり、苦しみの原因となります。


              ~ 感謝・合掌 ~








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2015-11-11 00:16:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆


先の続き・・・

これは自分中心に考えるからです。
しかし、ちょっと距離を置いて冷静になれば、相手が、
まったくわからないので犯している誤った行為のあまりの愚かさに唖然としてしまい、
どうしたよいのかお手上げになると同時に、相手には当然軽蔑の念を持ちます。
そこで、一旦角度を変えて、また自分の視点から眺めると、やはり自分に向けられている
不都合な行為と見るから、再び腹が立ってきます。
ここで怒るのは簡単です。

相手に怨みや憎しみをおもいきりぶつければ、さぞかし爽快な気分になることでしょう。
少なくとも一時的には気持ちがスッキリするかもしれません。
しかし、ここで気をつけなくてはならないのは、その後の結果がどうなるかです。
自分の心はたちまち墨を流したように真っ黒に汚れるでしょう。
腹に固まりができ、心臓がドキドキ、血圧も上がるでしょう。
怒りの思いが心の調和を破り、肉体まで痛めます。
今度は後始末がたいへんです。

相手との間にさらにいっそう激しい憎しみの業火が燃え盛ることになるかもしれません。
しかも、自分自身はもともと誤りがなく、不調和な心になる原因もなかったのです。
それを人の愚かな行為や言葉によって、我が心の平安を失ってはいけません。
新たな苦しみを増やすようなものです。
相手が愚かだと云いながら、自分はそれ以上に愚かだということになってしまいます。
聖典に「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失うことなかれ」
「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、なお愚かなリ」と書かれています。
相手の行為を愚かだと思っても、それに対して怒ったり非難したりしたならば、
自分がなお馬鹿になり下がってしまいます。
喧嘩するためには必ず相手のレベルまで自分の位置を下げなければなりません。
軽蔑する相手よりさらに馬鹿になりたくなかったら、相手にしないで黙殺すべきです。


                ~ 感謝・合掌 ~




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2015-11-10 00:54:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆


この世に生きている限り苦労はついて回るのですが、
お釈迦様はこれを四苦八苦と言われました。
生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ。
これが四苦ですが、八苦というのは、これにさらに四つの苦しみを加えたものです。
愛する者と別れなくてはならない苦しみ、「愛別離苦」。
嫌な相手と出会う苦しみ「怨憎会苦」。
求めてもちっとも得られない苦しみ「求不得苦」。
肉体の身をもったがための苦しみ「五蘊常苦」。

五蘊というのは、肉体(色)と、五感(受)と、五感により与えられたものを受けて
思う心の動き(想)と、思ってなす行為(行)と、行って識ること(識)です。
これら五つの集まりが五蘊と言われています。
この中で「怨憎会苦」というのは、嫌な人に出会って心に生ずる怨みや憎しみによって、
自らの心が苦しみを受けることです。
自分のことを理解してくれず無理難題を言って来る人、やたらと自分を馬鹿にしたり
高圧的に接して来る人、嫉妬から足を引っ張る人、迷惑をかけて来る人、どうも虫が好かず
苛々させる人、恋敵など、あげたらきりがありません。

要は、自分にとって都合のわるい人はみんな嫌いな人です。
そういう相手に対して腹が立つ時は、私たちは必ず自分を正当化しようとします。
あいつがわるい。間違っている。わかっていない。
その中には自分のほうがわるいのに、それに気がつかないで、相手をわるく思っている
場合もあります。
よく反省してみたら、自分のほうがかえって相手に迷惑をかけていたということもあります。
ただ、第三者の誰が見ても、絶対に相手がわるいということがあります。
そういう時は、なおさら腹が立つものです。
自分がひどく理不尽な苦しみに遭っているような被害者意識にも陥ります


          ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-11-09 00:43:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆


先の続き・・・

ところが、実際には不幸も病気もあります。
それは何も神様が罰を当てたのでも、無慈悲なのでもありません。
単に人間の発する自己中心的な思いというのが、ちょうど障害物が光を遮る結果として
生まれる影のように、不幸や病気を現わします。
その闇自身に実体はありません。
光が来れば闇は去ります。
自分の心を苦しめれば幸せになれません。
自分の心を苦しめることをできるだけ少なくし、
慈しみをもって自分の心を見つめることができるようになれば、
他人の心を苦しませることが少なくなります。

そしてさらには、他人の心を和ませ、喜ばせたくなってまいります。
だんだんと神様のお考えになっていることに近い思いに心がなってくるからです。
互いに愛し合い、互いに相手のために仕えた時には、神様の御心とピッタリ波長が合い、
調和した心になってきます。
これは法則にかなっていますから、心が苦しむはずはありません。
たとえ一分前の過去でも、過去の過ちを赦さずに自分を責めていたら、
自分の心を痛めることになります。
過去にとらわれず、今この瞬間にどんな思いの中にいるのかといることだけが問題です。
過去は二度と戻りません。

砂浜の砂にジュースをこぼしたら、砂にしみこんでしまい、
二度と同じジュースはコップに帰りません。
やがて砂の表面から跡かたもなく消えてしまいます。
過去のことで心を苦しめるのはつまらないことです。
また、まだ来ぬ未来を心配しても、
取越し苦労の思いの中にいることによって今が不幸になるだけです。
心配したからといって未来がよくなるわけでもありません。
実際のところは来てみなければどんなものかもわかりません。
また、肉体が病気なら不幸かというと、必ずしもそうではありません。
長い間病気を患っていても、人にいい感じを与える方もいらっしゃいます。
生まれつきかあるいは事故などで体の不自由な方でもそうです。
このあいだテレビでパラリンピックの模様が伝えられましたが、
身体に障害を持たれていながら、明るく強く生きて、
その姿勢がまた多くの人々に勇気や希望を与えているという
方々もいらっしゃいます。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-11-08 00:15:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆



「幸せになりなさい。健やかに生きなさい」というのが神様の御心です。
怒りや憎しみや愚痴や恨みや悲しみや貪欲などの想念を発することは、
その御心に反することです。
なぜならば、自ら発した思いが自らの心を曇らせるからあり、神様の光を遮れば、
それだけ闇をつくってしまい、喜び少なく苦労が増えるからです。
自らが苦しむだけでなく、心のスモッグを出すことで人様に対しても迷惑をかけます。
神様は光です。

つねに私たちに光を注がれていますから、
心に自己保存とか自我我欲の思いが少なければ少ないほど、
神様からの光は五感からくる煩悩の思いの層である想念帯の切れ間から
木漏れ日のように差し込んでくる量が多くなるのです。
そうすれば、幸せとなり健康となります。
この世である現象界とあの世の実在界を遮断しているのが想念帯ですが、
この遮断ベルトの層が薄い程、その切れ間を通して命の本源である神様のほうからの光が
表面の意識(知性・理性・本能・感情)に注がれます。

想念帯が薄くなり表面意識へ光が出るに従い、その人のこの世の生活もよくなってきます。
そして、一人一人の人間が幸せで健康になるということこそが、
神様の望んでいらっしゃることです。
それがやがて社会に満ち、国に満ち、世界中に満ち、地球全体に光が満ち溢れれば、
この地上と神様の世界が光で一つにつながり、
すべての人々が差別なく幸せで健康な大調和した世界となります。


            ~ 感謝・合掌 ~


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2015-11-07 02:19:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


  ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆


先の続き・・・

ところが、実際には不幸も病気もあります。
それは何も神様が罰を当てたのでも、無慈悲なのでもありません。
単に人間の発する自己中心的な思いというのが、ちょうど障害物が光を遮る結果として
生まれる影のように、不幸や病気を現わします。
その闇自身に実体はありません。
光が来れば闇は去ります。
自分の心を苦しめれば幸せになれません。
自分の心を苦しめることをできるだけ少なくし、
慈しみをもって自分の心を見つめることができるようになれば、
他人の心を苦しませることが少なくなります。

そしてさらには、他人の心を和ませ、喜ばせたくなってまいります。
だんだんと神様のお考えになっていることに近い思いに心がなってくるからです。
互いに愛し合い、互いに相手のために仕えた時には、神様の御心とピッタリ波長が合い、
調和した心になってきます。
これは法則にかなっていますから、心が苦しむはずはありません。
たとえ一分前の過去でも、過去の過ちを赦さずに自分を責めていたら、
自分の心を痛めることになります。
過去にとらわれず、今この瞬間にどんな思いの中にいるのかといることだけが問題です。
過去は二度と戻りません。

砂浜の砂にジュースをこぼしたら、砂にしみこんでしまい、
二度と同じジュースはコップに帰りません。
やがて砂の表面から跡かたもなく消えてしまいます。
過去のことで心を苦しめるのはつまらないことです。
また、まだ来ぬ未来を心配しても、
取越し苦労の思いの中にいることによって今が不幸になるだけです。
心配したからといって未来がよくなるわけでもありません。
実際のところは来てみなければどんなものかもわかりません。
また、肉体が病気なら不幸かというと、必ずしもそうではありません。
長い間病気を患っていても、人にいい感じを与える方もいらっしゃいます。
生まれつきかあるいは事故などで体の不自由な方でもそうです。
このあいだテレビでパラリンピックの模様が伝えられましたが、
身体に障害を持たれていながら、明るく強く生きて、
その姿勢がまた多くの人々に勇気や希望を与えているという
方々もいらっしゃいます。


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「独り言」より。

2015-11-06 00:08:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


      ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆


「幸せになりなさい。健やかに生きなさい」というのが神様の御心です。
怒りや憎しみや愚痴や恨みや悲しみや貪欲などの想念を発することは、
その御心に反することです。
なぜならば、自ら発した思いが自らの心を曇らせるからあり、神様の光を遮れば、
それだけ闇をつくってしまい、喜び少なく苦労が増えるからです。
自らが苦しむだけでなく、心のスモッグを出すことで人様に対しても迷惑をかけます。
神様は光です。

つねに私たちに光を注がれていますから、
心に自己保存とか自我我欲の思いが少なければ少ないほど、
神様からの光は五感からくる煩悩の思いの層である想念帯の切れ間から
木漏れ日のように差し込んでくる量が多くなるのです。
そうすれば、幸せとなり健康となります。
この世である現象界とあの世の実在界を遮断しているのが想念帯ですが、
この遮断ベルトの層が薄い程、その切れ間を通して命の本源である神様のほうからの光が
表面の意識(知性・理性・本能・感情)に注がれます。
想念帯が薄くなり表面意識へ光が出るに従い、その人のこの世の生活もよくなってきます。
そして、一人一人の人間が幸せで健康になるということこそが、
神様の望んでいらっしゃることです。
それがやがて社会に満ち、国に満ち、世界中に満ち、地球全体に光が満ち溢れれば、
この地上と神様の世界が光で一つにつながり、
すべての人々が差別なく幸せで健康な大調和した世界となります。


                  ~ 感謝・合掌 ~





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2015-11-05 00:13:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

人間とは神様の御心の一部を分け御魂として注ぎ入れられた存在です。
つねに神様のほうから流れてきている光によって生かされています。
神様の命をいただいて生きていられるのです。
だから、自分の心を苦しめ、汚すことは神様の御心を汚すことにもなります。
与えられた心はもともと清流のように清らかなものだったのです。

自由意志を与えられているということは、間違いを犯す自由も与えられているということです。
考えてみると怖いことです。
肉体も心も正しく用いるよう神様から一人一人に責任がゆだねられていると言えます。
間違うということは、その度に神様の御心から少しずつ遠く離れていってしまうことです。
自殺は神の御心から最も遠く離れることです。
それは肉体の生命を否定するという思い自体が最も神の御心から遠いからです。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-11-04 00:06:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆



先の続き・・・

たしかに人間は自由意志を与えられています。
しかし、心も肉体も神様から与えられており、自分のものではありません。
神の子神我すなわちキリスト意識が、
肉体というサタンの装いをして現れているのが人間です。
なぜサタンなのかと言いますと、肉体の服をまとうことによって、
五感による煩悩である自己保存と自我我欲の思いを満たすことのできる状態に
置かれるからです。

ところが、この肉体の服というサタンの装いこそは、
内なる神我の目覚めにはどうしても必要なものなのです。
それは、ちょうど蓮の花が咲くのに泥が必要であるのと同じことです。
中身は神から分けられた清らかな魂であり、
まとっているのは欲の心へと誘惑する五官を
備えた肉体の衣であるというのは一見矛盾のようでありますが、
これがあるために魂は
様々な過ちの経験を通してだんだんと進化向上して立派になっていけるのです。
私たちの本来の曇りなき心は例外なく神様の意識の中にあります。
わかりやすい比喩を用いてみましょう。

金の延べ板の上の厚く積もった塵を払えば、
それまで覆われていた金の輝きが現れてきます。
すでに金は金として光っているものですが、
塵があまりにも厚く覆い隠していたため、
その輝きが見えなくなっていただけです。
これと同様、
私たちの心も自己保存や自我我欲などエゴの思いの雲が晴れたなら、
光そのものとして、愛と慈悲の塊としての心の本質が現れてきます。
ノミで木を彫るとおが屑が出て来ますが、
だんだんと中の立派な象が現れてくるようなものです。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-11-03 04:10:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


          ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

都合の悪いことは何でも環境や境遇のせいにしてしまう癖がつくと、
そのうちに過去に溯って、育った環境が悪かったとか、時代が悪かったとか、
親の育て方が悪かったとか、
こんな相手と結婚したばっかりに不幸になってしまったなどと言いだしかねません。
これでは心の進歩はありません。
すべての原因を環境や時代や境遇に求め、物や人のせいにするなら、
自分の心は変わらなくていいことになるからです。
過去に思いを果たせず挫折したり、失敗したりしたことから、落胆の思いが現在まで続いており、
積極的に新たな取り組みをする気力を失ったら、これも自分が損です。
過去のせいで残りの人生までもが決定的にダメージを受け、もうどうしようもないのだと
心を沈ませながらどうにかやっと生きているのです。
重い足取りで歩いてゆくようなものです。

心は数々の記憶への執着とか悲嘆の思いが詰め込まれています。
砂袋のように重い心です。
前の章に述べたとおり、死んだら心だけになりますから、その重い心はもし地獄があれば
そこに落ちてしまいます。
また、過去の過ちをいつまでも悔い、罪悪感にとらわれている場合もあります。
これも心に重荷を負い、自らの心を苦しめていることに変わりはありません。
人は誰でも過ちを犯します。
それを二度と繰り返さないことができたなら、その過ちゆえに心が進歩したことになります。
しかし、これと反対に過ちゆえに自分の心を苦しめることは、正しくありません。
「悔い改めた時、汝の罪は赦される」というのも真の神の御心です。
「過ちを改めるのに憚ることなかれ」とあるように、自分が間違っていたと気付けば、
心を素直にし、勇気をもって悔い改めればよいのです。
過去の過ちのために自分を責め、心を苦しめたらいけません。
必ず不幸になります。
自分の心なのだから苦しめたって勝手ではないかと言う方もいらっしゃるかもしれません。
これは自分の肉体なのだから自ら命を絶ってもかまわないじゃないかと言うのと同じ大間違いです。


               ~ 感謝・合掌 ~






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「独り言」より。

2015-11-02 03:15:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


        ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


それでは、
わるい環境や運命が与えられたらそれに甘んじろということなのか、
と疑問を持たれる方もおられるに違いありません。
一生苦労の連続だったとしても、明るく笑って、楽天的に過ごし、
人には親切にしていれば、苦しみと感じない分だけ幸せかもしれないが、
それではいつまでたっても自分の悪い境遇から抜け出せないではないかと。
ところが、想念はエネルギーですから、いいことばかり思い、
感謝と喜びばかりで生活していますと、だんだんと運も開けてきます。
思いの中に生きているからこそ、思いに翻弄されることなく、
思いを変える練習が大切です。
たとえば、こんなたとえがあります。
「牛の糞に銀蠅が寄る。花に蝶が寄る」
牛の糞はいくら美しい蝶に寄ってもらいたいと欲しても、
寄ってくるのは銀蠅だけです。

花は呼ばなくても蝶をひきつけます。
ということは、私たちも心を美しく清らかにすれば、
黙っていても蝶が来てくれます。
自分の心が牛の糞であるか、花であるか。
花になった時、自然に幸せは与えられ、健康も与えられます。
明るい素直な心を持って感謝と報恩の生活を、
そして見返りを求めず人に尽くす生活をしていれば、
自ずと周囲の環境が改善され、望んだような現実も引き寄せられてくるものです。
だから、仮に恵まれない環境や不都合な運命の中に置かれていたとしても、
心をテコの支点としてすべてをよしとして受け容れてゆく
肯定的な方向に思いの力を用いたならば、
これが現実を望ましい方向へと動かす力ともなるということを
知らなくてはなりません。
ただし、知る為には自分が行って体験的に確認していくしかありません。


             ~ 感謝・合掌 ~






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「独り言」より。

2015-11-01 00:08:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵


         ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆


先の続き・・・

人間は環境の中に生きていると思っていますが、実は思いの中に生きているのです。
思いをいだく心は目には見えませんが、
形の世界である環境以上に幸不幸を左右する力を持っています。
人間の幸不幸を左右しているのは、環境のように見えますが、実際は思いです。
ところが、私たちはこの思いをなかなか自由自在にコントロールできません。
逆に思いに振り回されます。
その結果、環境に支配され、束縛されてしまいます。
本来は心のほうが手綱を握りコントロールの主人にならなくてはいけません。
本当は幸福な環境だとか不幸せな環境などというものはないのです。
恵まれた環境とか恵まれない環境というのはあります。

けれども、環境にかかわらず感謝できるか否かの違いが最終的には幸不幸を決定づけます。
感謝できれば幸せと感じ、感謝できなければ不幸せと感じます。
思いが幸せならば幸せであり、思いが不幸ならば不幸ということです。
当たり前と言えば当たり前ですが、どういう条件の下にあっても、
一定して心に幸せの思いを持ち続けることができるかどうかということになれば、
これは非常に難しいものです。
このことは、どなたでもご自分の人生を振り返ればおわかりかと思います。
いい時もわるい時もあったはずです。

景気によって商売が儲かって大喜びしたり、人に騙されて損をして悔しがったり、
子供の心が間違ったほうに向かないかと取越し苦労したり、子供の結婚が決まりほっとしたり、
転勤先の新たな生活に不安をいだいたり、事業の失敗によってと法に暮れたり、
近親者の死によって悲しみに暮れたりと、
まったく私たちの心をよぎる感情は環境や境遇の変化につれて天候のように移り変わります。
それは思いの中に生きなくてはならない人間の宿命です。
喜怒哀楽の感情があるのは自然です。
しかし、その感情からどれだけ自由になっていられるか。
とらわれる度合いが大きいほど、その時々の環境や境遇に支配された心によって、
私たちの人生もまた翻弄されていきます。


                  ~ 感謝・合掌 ~




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